ホンダ、またF1撤退!

ホンダは"レースは走る実験室"と位置付け、四輪生産してない時期から、F1に参戦していたのではなかった?目覚ましい成果とは言い難いが、第1期はサーティースとギンサーの優勝を残した。その時は、市販車ではランボルギーニミウラくらいしかやらなかった、横置V12エンジンレイアウトだった。

単なるチャンピオン獲得という成果を探すなら、第2期の86年~91年コントラクターズタイトルを獲ったトコがピークだった。まあ、フェラーリ・ポルシェ・アルファ・ルノーBMW・フォードがライバルだったが、予選用/決勝用エンジンなど、あの時代は存分にカネを使って戦った。桜井・後藤・安岡というプロジェクトリーダーの下で、ホンダエンジンは最強のエンジンを標榜した。スピリットとウィリアムズとマクラーレンロータスとタィレルというコントラクターと組んだが、もっとキチンと運営されるチームと組めていたらタイトルは少し早く獲得したろうし、良い車体に載せられたかも知れない。タイトルを逃した92年すら、エンジンパワー自体は最強であり、マクラーレンでない優れたシャシーコントラクターと組めていたら、もう少し、成果もチャレンジ状況も違ったかも知れない。一方、桜井サンはNSX出す前の市販車担当に異動したが間もなく退社、後藤サンはパイプ役としてマクラーレンに移籍したが1年で辞め、R・デニスは"カレは日本スポンサーとの繋ぎ役"と言われて終わった。本田宗一郎の死も幕引きの一因であったろう。カレがいなくなれば、勝つために全精力を傾ける態勢を作れなくなったのだろう。

第3期はフルコンの失敗。走る実験室お題目を振り回し、正常進化させずに毎年リセット新規開発を繰り返し、時間をムダにした。逆に、ホンダが撤退したらロス・ブラウンとバトンでチャンピオン獲った。
第4期は更に悲惨。第2期の終盤不振の素だったR・デニスのマクラーレンと組んでしまった。ホンダ自体は、カネと労力さえ注ぎ込めば勝てる態勢になると、タカを括っていたろう。しかし、F1は変わっているのを認識できなかった。FIAと組んだメルセデスに首根っこを掴まれたカテゴリーになっている現実を理解できず、BMWのようにケンカして出て行くコトもできずに深みに嵌まった。