if、もしもカウンタックが、もしもランボルギーニが・・・。

ランボルギーニとは、フルッチオやピッザリーニやダラーラやスタンツァーニやガンディーニが作り上げたメーカーだと思っている。

ダラーラミウラ辺りまでだし、ガンディーニミウラのデザインから、スタンツァーニはカウンタックから、フルッチオはカウンタック中期には経営から退いた状況となっていたハズ。

4リッターDOHCのV12に於いて、ミウラでダウンドラフトの最大出力385馬力まで出していた。しかし、横置ミドシップで前後コンパクトに纏めたミウラに比べ、カウンタックに於いては前後に延びてしまった。また、あまりに低くデザインされたフレームに収めつつ、必要最低限の視界のためにダウンドラフトを採用できず、エスパーダらと同じサイドドラフトのエンジンを使用した。奇跡のレイアウトと言われたが、エンジン前方のミッションとデフを繋ぐプロペラシャフトをエンジン下に抱え、エンジン高が上がってしまった。 

ミウラにもカウンタックにも、ifがある。

大きくは、この2点ではないのかと思う。

1、ミウラが継続改良されていたら?

フルッチオのレース指向のなさに、ダラーラランボルギーニを離脱しスタンツァーニが後釜に据わるコトで、ミウラの運命は決まった。

ミウラの巷に言われる問題は、SやSVで解決されていたハズ。後は、品質や量産性向上するコトで会社に利益を生めたハズ。

横置ミドシップは、フェラーリディノや308系でも優れたハンドリングを示し、328に引き継がれた。改良継続され、キチンと煮詰められていたら、もっと素晴らしい横置ミドシップV12になったかも知れない。

元々、ダラーラはフォードGTをモチーフに、モノコックタブに前後フレーム構造を接合するのは、現代の高額車両を先取りしたクルマ作りだった。継続されていたら、ランボルギーニや世界のクルマ作りは変わっていたかも知れない。

2、カウンタック発表後のオイルショック等がなかったら?

カウンタック発表後にオイルショック等による不況や規制が起きた。それにより、フルッチオは本業トラクターでのキャンセルなどで、社の資金調達が困難になり株を売り経営を離れるコトになった。

社の財務状況は悪化し、スタンツァーニがカウンタックを改善するにも、手を打てない状況になっていた。

改善点としては、エンジンの5リッター化やフュエルインジェクション化や品質や量産性向上などであったろう。

フェラーリはBBを4.4⇒5リッター化をできたが、カウンタックは後手になってしまった。

カウンタックをスタンツァーニが思う通りに改良継続できていたら、もっと素晴らしいクルマになっていたろう。

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誕生から50年! カウンタックはなぜ人々を魅了し続けるのか?
8/10(火) 12:13 Yahoo!ニュース
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写真=ランボルギーニ
2021年はランボルギーニカウンタックの誕生50周年というメモリアルイヤーである。それを記念しランボルギーニカウンタックに関する動画を次々と発表している。その中にある、スタイリングをデザインしたマルチェロ・ガンディーニが当時を振り返るインタビュー動画を、モータージャーナリストの西川 淳氏が解説。

【動画と写真で解説】ランボルギーニカウンタック

カウンタック誕生から50年後のインタビュー
 もう20年も前のことになるだろうか。筆者はトリノから北へクルマを飛ばして憧れのマルチェロ・ガンディーニ宅へ取材に伺ったことがある(その時にマルチェロがFAXで送ってくれた直筆の地図は今でも大事な宝物だ)。淡いピンクの瀟洒なお宅でデザインスタジオも兼ねてあった。庭からそのまま草原が広がっていて、白馬が放たれていた。もうそれだけで日本から来た取材陣にとっては“おとぎ話“のような光景だった。

 マルチェロ・ガンディーニ。不世出のプロダクト・デザイナー。動くものならなんでもデザインする。その時彼はそう言って、嬉しそうに舞台のデザインを見せてくれた。舞台そのものが動くのだという。そう、彼の頭の中には常に“motion“がある。

 彼は何台もの名車をデザインしているが最も有名なところではランボルギーニミウラとクンタッチカウンタック)、ランチアストラトスあたりだろうか。2021年の今年はカウンタックがデビューしてちょうど50周年に当たる。記念してランボルギーニ本社がマルチェロのインタビューを公開した。1938年生まれだから、現在、御年83歳。流石に歳を取られた。その内容を聞くと、やはりマルチェロは今でも“motion“主義であることが分かる。

月面着陸という “emotion“から生まれた
 「スタイルは常にエモーション(emotion)から生まれます。他の何ものからでもありません。カウンタックが生まれた71年当時、世界の人々の関心は宇宙に向いていました。何せカウンタックが生まれる2年前に、人類は初めて月に到達したのですから。巨大なロケットがゆっくりと、力強く発射され、地面から飛び立つシーンに私も含め人類がときめきました。それはまさにおとぎ話が現実になった瞬間だったのです。我々は火を利用することでそれを成し遂げた。それはあたかもプロメーテウスからの人類への贈り物のようなもので、20世紀最大の伝説となったのです。

 これをきっかけに、私自身も考え方を改めるようになりました。何か新しいもの、他とは違ったもの、デザイン的に今までになかったことを成し遂げる方法を根本的に変えなければいけないと感じたのです。それは何もクルマに限った話ではなく、芸術もそうでしょうし、他の全てのことに関しても、自分の関わった印を何か少しでも残したいと思うような人にとってはとても重要なことだと思うようになった。成功するかしないかは時の運。まずは変えなければいけない時代に生きていると私には思えたのでした。

 1971年のジュネーブショーでカウンタックを初めて披露することになったのですが、大勢のジャーナリストを招いたイブニングパーティーの時点で車は間に合っていませんでした。でも、なんとかショーには出展できた。もちろんそれは展示用のスタイルモデルで実際に走るクルマではありませんでしたが、それでもそれまでのカーデザインを根本的に変換し始めたのです。飾ってある限り、それはいっそう写真のように現実感の伴わない存在でした。」

マルチェロ・ガンディーニ

「野蛮」から「永遠の存在」へ
 「車が動き出すと、たとえどんなにゆっくりであっても、それはホログラフィックのようなイメージになります。見えているパートのみならず同時に見ることのできないはずのパートもあなたは見ていることになるのです。目と脳がそれぞれの瞬間に記憶するイメージが少しずつ違うおかげで、本来なら見えているはずのないイメージさえ脳が動き(motion)を加えることができます。小さな奇跡と言ってもいいでしょう。

 当時の人々にとってカウンタックは、ちょっと下品に、もっというと野蛮にすら見えたことでしょう。けれどもそんな目で見られることなど長くは続きませんでした。次第に認めてもらえることになったという背景には、カウンタックの登場から何年経っても、それ以上に衝撃的なデザインが生まれなかったからだと思います。

 車のようにとてもありふれた、人々の日常に存在するモノのイノベーションは、ほかのもののイノベーションと比べると、大きくないかもしれません。しかしカウンタックのデザインは、全く新しい導き(イノベーション)となったようにも思います。たとえ僅かであっても、人々の生活そのものに影響を及ぼす刺激を与えることができた。

 カウンタックそのものがすでに夢のような存在です。それは空飛ぶ絨毯や理想の家のような他の何ものにも変え難い存在になったゆえ、“永遠“の存在となり得たのです。」

マルチェロ・ガンディーニ

 筆者も例に漏れず、子供心にカウンタックに刺激され、人生を決定づけられた。実際に所有もした。あまりの影響力に驚いた。いつの間にかカウンタックの人になっていた。その存在は決して小さいものではない。

カウンタックよ、永遠なれ。
文・西川 淳

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