益子直美

ワタシが高2の時だったか、彼女は共栄のエースアタッカーとして、後衛ではスパイクサービスとバックアタック、前衛ではスパイクとブロックで貢献し、高校バレーの決勝まで勝ち上がった。特に、準決勝では対八王子実践、大林・広・宮島という全日本女子にすら選ばれるメンバー、そしてフジテレビ菊間アナの父親が監督してる実力校相手に、実質1人で打ち合い、打ち勝った。決勝進出が決まった瞬間、救急車で運ばれた。

決勝は後のロス五輪全日本女子エース、大谷がいる四天王寺高、当時バリバリのエースだった大谷に、病院から辛うじて出た益子では勝負にならず、3-0で敗れた。

ロス五輪では、日立の中田や江上や吉原や三屋ら、エース大谷や広や大林らが選ばれた。グループリーグは突破したが、ビビッた大谷は準決勝以降力を発揮できず、女子はメダルに届かなかったのではなかった?

ロス五輪後、日立オンリーの流れが変わった。日立には、大林・広・宮島らが入ったが、ダイエーには、銀メダルのハイマン・クロケットが入った。高卒後、益子はイトーヨーカドーに入った。監督には、ロス五輪にはカナダ男子を率い日本を破ったケン前田が就任した。その年は、決定戦でハイマンが亡くなる不運があったが、ダイエーが日立を破り、日本リーグを制した。

しかし、斉藤真由美が入り、次年はイトーヨーカドーが優勝した。以後、全日本女子の日立独占がなくなり、全日本女子のレフト対角は斉藤真由美と益子直美イトーヨーカドーコンビが入った。大林素子が故障するまで、益子はイトーヨーカドーだけでなく、全日本女子も支えた。当時、神奈川に住んでたワタシは、日本リーグを見に行ったし、東京に異動してからは代々木の全日本の試合も見に行った。代々木の時は、斉藤真由美は離脱し、新しいレフトとして山内美加に代わった頃、益子も右肩が上がらなくなってるのが見えていた。程なく全日本をハズれた。

以後、スポーツキャスターとして活動してたが、アメフトやってた局アナと突き合ったかと思ったら食い逃げされた。それからしばらくして、今のかなり年下の御主人の自転車番組取材で出逢い、結婚したんだっけ?

年齢は既に若くないのは知っていたので、子供云々はムリだろうと見ていたが、不妊治療やってる話を聞いて、子供などありきたりなコトよりももっと新しい形を模索したら?と感じた。

ワタシの1学年上の女性、あの時見たインパクトは鮮烈だった。ワタシより先を行く女性として、強い女性新しい女性の姿を見せて欲しいと勝手に思っている。

 

 

 

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益子直美「私はバレーボールが嫌いだった。50歳で心房細動が見つかって気づいた、選手時代からのストレス」
8/11(水) 12:16 Yahoo!ニュース
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「いつから発症していたのかはわかりません。ただ、ショックを受けた半面、そういうことだったのか、と納得する自分もいました。」
高校3年生の時に全日本代表メンバーに選ばれ、女子バレーボール人気を牽引。引退後もスポーツキャスターとして活躍していた益子直美さんを襲ったのは、高齢者に多いとされる不整脈の一種、心房細動でした(構成=平林理恵 撮影=藤澤靖子)

【写真】病室で夫の山本雅道さんと過ごす益子さん

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◆脈拍が速くなり、ふっと意識が遠のいた

心房細動が見つかったのは、50歳の時です。「まさか心臓が悪かったなんて!」と、ただただびっくり。というのも、元アスリートというプライドもあり、自分の健康を疑ったことがなかったのです。

思い当たる節がなかったわけではありません。プロ自転車選手の夫に勧められて42歳の時に競技用の自転車に乗り始めたのですが、心拍数がすぐ上がることが気になっていました。

平坦な道でも毎分160超え、坂を登れば200超え。時には気が遠くなることも……。でも、「更年期かな」「老化現象だろう」「若いころに体を酷使しすぎたツケかも」など、それらしい理由を並べてごまかしていました。

病院に行ったきっかけは、4年前、これまでにないほど大きな発作が起きたから。ある日、福岡での仕事を終えた私は、翌朝のテレビの生放送出演に備えて夜のうちに東京に戻り、渋谷のホテルに泊まることにしていました。ところが飛行機に乗っている最中に急に脈が速くなり、ホテルに着いても治まらない。次第に息が苦しくなって、ふっと意識が遠のきました。

ハッと気づいて怖くなり、救急相談センターに電話をして症状を話すと、「すぐに救急車を差し向けます」と言われて。でも、そうすると生放送に穴を空けてしまう。一瞬迷い、結局近くの救急病院の連絡先だけ教えてもらって電話を切ったのです。

その後は、姿勢を変えたり、冷やしたり、腹式呼吸をしたり……。症状が落ち着いたのは明け方4時でした。

◆どんなに頑張っても体力がつかなかった現役時代

早朝、なんとか仕事をこなして病院へ駆け込みました。検査の結果は心房細動。心房という心臓の上部が小刻みに震え、動悸やめまいを引き起こす不整脈の一つです。なんと先生は、「若いので手術しましょう」とおっしゃる。「ええ! 私、若くないです」と言ったら、この病気は70代の高齢者がなるんです、と(笑)。つまり心臓の老化現象のようなものなのだとか。

いつから発症していたのかはわかりません。ただ、ショックを受けた半面、そういうことだったのか、と納得する自分もいました。

実は現役時代、どんなに頑張っても体力がつかなかったのです。試合ではフルセットもたないので、途中メンバーチェンジをして休ませてもらっていました。私の心臓はあの時から悲鳴をあげていたのでしょう。

担当医からは、放置すると血栓ができやすくなり、心筋梗塞脳梗塞のリスクが高まると説明を受けました。そこで勧められたのは、脚のつけ根からカテーテルを心臓まで送り込み、患部の心筋を焼き切る「ホットバルーンカテーテルアブレーション」という治療。膨らませた風船が当たった部分を一気に焼くことができるので、時間もかからず負担は最小限。私はこの手術を受け、数ヵ月に1度の検診で経過を見ることになりました。

心房細動は再発しやすい病気なので、発症リスクを生活から取り除く必要があります。遺伝など先天的な要因は仕方がないとして、ストレス、飲酒、睡眠不足を避けるように、と先生に言われました。

ストレスが心臓に悪い――これは、自転車を始めて心拍計をつけるようになった私が日々実感していることでした。緊張したり精神的な負担を感じると、心拍数がぐんと上がるんです。これでは私の心臓が悪くなるのも無理はないな、と思いました。

なぜなら、私にとっての最大のストレスは、若いころから打ち込んできたバレーボールそのものだったから。病は、これまでの自分の生き方を振り返るきっかけになったように思います。

円形脱毛症になり、マジックで地肌を塗りつぶして

バレーボールをやりたいと思って始めたのは私です。でも25歳で引退する時、バレーが大嫌いになっていた。監督に怒鳴られたり叩かれたりするのが当たり前だった時代、怒られたくない一心で頑張っていました。本来、自分で考え工夫することが必要なのに、言われた通りのプレーしかせず、それも思うように決まらない。いつも監督の機嫌をうかがい、失敗するのが怖くて「私にトスを上げないで」と本気で願っていたのです。

当時は円形脱毛症になり、マジックで地肌を塗りつぶして隠していました。流れる汗が黒くなるから、バレないよう練習着は白から黒に替えて。お腹も毎日下していました。

ずっとバレーをやめたくて、ようやく迎えた引退の日の夜は本当に嬉しくて。心底安堵したのか、驚くほどぐっすり眠ったことを覚えています。翌日には、下痢もウソのように止まりました。

でも引退後の仕事は、当たり前ですが、バレーボールに関係するものが多かった。試合の解説者、レポーター、ほかにも元バレーボール選手としてバラエティ番組に出していただいたり。そのころひどくなっていったのが片頭痛です。

前兆で光が見えたと思ったら、激しい頭痛と吐き気で動けなくなる。この症状が、バレーにかかわる仕事が入るたびに出てしまいました。生放送中にバタッと倒れてしまったこともあります。どうして一生懸命やってきたことがストレスになるのか、やめてもなお、と悲しかったですね。

旅番組のロケでは、自分が美しい花を見ても心が動かないことに気づかされました。現役時代は勝った負けたで一喜一憂していたら心がもたないので、感情が動かないようにコントロールしていたのです。

それを引退後も引きずっていて、ディレクターに「益子さん、この花に触れてください」と言われて初めて、ああ、花が咲いていたのね、と気づく始末でした。

 
一目ぼれして購入した湘南の自宅の庭(2020年5月撮影)(写真提供:益子さん)
◆45歳の誕生日で不妊治療を卒業

転機が訪れたのは、45歳の時。私は40歳で結婚したのですが、夫との子どもがほしくて42歳から始めた不妊治療が、精神的なプレッシャーになってしまって。45歳の誕生日で卒業するのが夫との約束だったのに、受精がうまくいかず、内緒で治療を続けよう、とまで思っていました。

でも、思い詰めた私に夫は「もう終わりにしようよ」と。45歳の誕生日、約束通り体温計も基礎体温のグラフも薬も、全部捨てました。「今日で終わり」と確かめ合って、二人で生きていくことを決めたのです。

とはいえ、そんなにスパッと割り切れるものでもありません。しばらく悶々としていたところ、湘南で不動産会社を経営している友人夫婦に、「気晴らしに遊びに来たら」と招かれました。

そこで出合ってしまったんです。今住んでいる湘南の家に。それまで家を買おうなんて思ったこともなかったのに、庭に桜や柿やみかんの木があるこの古い家を訪れたら、すごく癒やされて。その帰り道で、「あの家がほしい」と夫に頼みこんでいました。不妊治療に区切りをつけたいという気持ちもあったし、東京での生活に限界を感じていたのかもしれません。

湘南に引っ越して、本当によかったと思っています。環境も気候もよくて、日曜大工で家に手を入れたり庭木の世話をしたり、夫と海岸まで自転車を走らせたり。当時は心臓の病気に気づいていなかったので、引っ越してから自転車に乗る機会が増えました。100マイル(160km)サイクリングイベントに夫と参加して完走できた時は、嬉しかったですね。

160km走るとなると、私にとっては「試合」も同然。攻略法を練らないと気が済みません。それで、事前に160kmを何本か走って練習したい、と夫に相談したんです。すると彼は呆れたように、「練習で完走しちゃったら、イベントで何の感動もないよ」と。

「練習するな、楽しもう」。その言葉を信じて、80kmしか走ったことのない状態で参加しました。苦しくてたまりませんでしたが、すごく楽しかった。スポーツ本来の楽しさを知ることで、バレーボールの呪縛から少しずつ解き放たれていった気がします。体調もすこぶるよくなって、いろいろなことがうまく回り出していきました。

ところが2015年、大学のバレーボール部の監督を引き受けたころから、また調子が悪くなってしまって。二十数年ぶりの現場復帰で気持ちは前向き、やる気もありました。それでも「勝たせなければ」というプレッシャーは大きかった。大学へ車を走らせていると動悸が激しくなり、結局Uターン。そんな状態が続いていたある日、先ほどお話しした不整脈の発作を起こしてしまったのです。

私は、精神的な負担が体にダイレクトに出やすい体質なのでしょう。考え方によっては、その素直な体のおかげで心臓の病気に気づくことができたとも言えます。

◆監督が怒ってはいけないバレーボール大会を始めて

病気になり手術をしたことで、私自身、大きく変わりました。まずは生活習慣。不規則だった生活は、日の出とともに起きて早めに休む生活に。毎日飲んでいたお酒も、量をぐんと減らしました。庭に梅の木があるので、毎年梅酒を仕込んで楽しんでいます。そうすると、量は少なくても、満足感でいっぱいになるんです。

また、ストレスを上手に解消する方法はないかと考えた結果、学ぶこと、知識をつけることが一番だと気がつきました。具体的には、怒りをコントロールする「アンガーマネジメント」、短い言葉でやる気を引き出す「ペップトーク」、本番で実力を発揮する手法を学ぶ「スポーツメンタルコーチング」――といったものです。

もともとこれらに興味を持ったのは、15年からスタートした「益子直美カップ小学生バレーボール大会」がきっかけです。この大会は、監督が怒ってはいけないルール。子どもたちが心からスポーツを楽しめる環境をつくりたくて始めたものでした。

ある時、参加チームの監督から「怒らないなら、どう声をかけたらいいの」と聞かれたのですが、具体的に答えられなくて。その時から少しずつ勉強を始めていたのです。

◆頼れるところは頼って、楽しんだほうがいい

そして、50歳を過ぎて心臓の病気が見つかったことで、自分自身のストレスと向き合うことになった。自分のために改めて学び、知識が身につくと、自分をコントロールできる自信がついて。それが安心や体の健康にも繋がるのだと、ようやく実感としてわかるようになってきました。

今は、無理して頑張る人から、肩の力が抜けた人に変わってきているのではないかな。以前は人から頼まれると無理をしてでも引き受けてしまうタイプでしたが、近ごろは身に余ると思ったらほかの人を紹介できるようになりました。

趣味の自転車も、夫が電動アシスト付きのマウンテンバイクをプレゼントしてくれたので、変わらず楽しめています。「元アスリートなのに、電動に頼るなんて邪道だわ」と思ってしまうのがかつての私。それが「頼れるところは頼って、楽しんだほうがいいんじゃない?」と考えられるようになった。これ、すごい進歩です。(笑)

55歳、これからやりたいことがたくさんあります。その一つが、威圧的な指導が根強く残る日本のスポーツ界を、現場から変えていくこと。私はバレーボールが嫌いになってやめてしまったけれど、バレーがなければここまで成長できませんでした。だからこそ、少しでも役に立ちたい。その夢を叶えるために、まだまだ健康でいないといけないなあと思う日々です。

(構成=平林理恵、撮影=藤澤靖子)
益子直美

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