サッシー

当時、夏の甲子園はスゴかった。東海大相模の原・津末、小山の黒田、星稜の小松、春の優勝投手崇徳の黒田、柳川商の久保、海星の酒井、豊見城の赤嶺らが、凄まじい潰し合いをした。その中に、PLが躍進し、桜美林が初出場初優勝を飾った。

海星酒井は崇徳黒田を倒したが、PLに負けたんじゃなかったかな?割と制球に苦しんだ印象、押さえが利いてない感じで終わった。

しかし、ドラフトでは大人気、ヤクルト松園オーナーが1位くじを引き、酒井を指名した。当初は背番号18を着けた。以後、プロでは殆ど見かけなかった。

この年代の出世頭は一応原だろうが、選手としてのインパクトあったのは、やはり150キロの小松では?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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エースの200勝達成を目前にリリーフ失敗。ヤクルトの「サッシー」はプレッシャーに苦しんだ
8/12(木) 10:45 Yahoo!ニュース
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1990年に現役を引退した酒井圭一
「オープン球話」連載第78回 第77回を読む>>

【速球本格派から技巧派にモデルチェンジ】

◆投球が「怪物」だった甲子園のアイドル。ドラ1でヤクルト入団後、ある悲劇が野球人生を変えた

――さて、今回も酒井圭一さんについて伺います。前回は、プロ3年目に打球が顔面を直撃し、以降は本来の力を取り戻せなかったというお話を聞きました。鳴り物入りで入団した酒井さんのプロ初勝利は、4年目の1980(昭和55)年のことでしたね。

八重樫 前回も言ったけど、打球直撃の前と後では、少しずつ感覚がズレてしまっていて、本来の持ち味だった低めの伸びのあるストレートが投げられなくなったのは事実ですね。実際に起用法も、先発から、短いイニングを任される中継ぎに変わっていきました。

――入団当時はストレートと2種類のカーブだけだったと聞きました。その後、変化球の球種は増えたんですか?

八重樫 中継ぎを任されるようになってからはスライダー、フォーク、シンカー系のボールも投げていましたね。この頃から連打が減ってきて抑える機会が増えてきた。それで、1980年にプロ初勝利をマークしたという感じです。この頃には「速球本格派」から、完全に「技巧派」にモデルチェンジしましたね。

――確かに1980年には4度の先発登板がありますが、それ以降は引退する1990(平成2)年まで、一度も先発登板はないですね。

八重樫 右バッターは抑えるんだけど、左バッターを苦にしていたんですよ。左バッターへの決め球がなくて、追い込む前に打たれてしまったんです。それに、打球が直撃したことによって、視力が悪化したのかコントロールも悪くなってきた。先発を任せるには、ちょっと厳しかったのは事実でしたね。

松岡弘の200勝に向けてのプレッシャー】

――この頃、エースの松岡弘さんが200勝を目指して力投を続けていました。でも、勝ち投手の権利を持ったまま降板したのに、酒井さんが打たれて松岡さんの白星を消してしまった場面をよく覚えています。

八重樫 僕もよく覚えています。あの頃は酒井に限らず、若手リリーフ投手たちはみんな「松岡さんのために」という思いでプレッシャーを感じていましたから。でも、そのプレッシャーが原因でコントロールが乱れて、結局は失点してしまう。そんなケースが本当によくありましたよ(苦笑)。

――だから、松岡さんに対して八重樫さんも檄を飛ばしたと、以前に言っていましたよね。

八重樫 松岡さんに言ったのは、「若手がみんなプレッシャーを感じているんだから、松ちゃんがもう少し踏ん張らなくちゃダメだ。あと1イニング頑張って、若手をラクにさせてあげなよ」というようなことはよく言いました。でも、結局は191勝で引退することになるんですけどね。

――現在、200勝を目指す石川雅規投手と同じような状況ですね。

八重樫 石川の後を投げる若手も、「石川さんのために」という思いは強いと思いますよ。もちろん、石川もその点はよくわかっていると思います。石川だって、若手の負担を減らすために長いイニングを投げたいだろうけど、あくまでも継投は首脳陣の判断ですからね。とにかく、石川には200勝目指して頑張ってほしいですよ。

――記録を見ると、関根潤三監督時代の1987、1988年頃になると酒井さんは中継ぎ投手として安定した成績を残すようになっていますね。

八重樫 この頃になるとストレートへのこだわりは完全に消えていましたね。ピッチャーとしてモデルチェンジに成功したんだと思いますよ。もちろん、本人の中にも「このままじゃいけない。何かを変えなければ」という思いが強かったんだと思います。ただ、その後はひじや肩の故障が相次いで、野村克也監督時代に現役引退となったんですけどね。野村さんも、酒井に対しては丁寧に接していた印象があります。

――八重樫さんが引退する時も、野村監督はかなり気を遣われたそうですね。

八重樫 1993年限りで僕が引退した時も、「日本シリーズにはベンチ入りして、ブルペンの面倒を見てくれ」と丁寧に説明を受けたし、ベテランに対しては長年の功績をきちんと尊重して引退の花道を作ってくれる方でした。酒井に対しても、そうだったと思います。長年、いろいろな監督の下でプレーしてきたけど、そんな監督は野村さん以外にいなかったですね。そういう意味では、引退時の監督が野村さんでよかったです。

【"怪物"とは無縁。島育ちの気さくな男】

――現役引退後は打撃投手、スカウトとして長年にわたってヤクルトに在籍していました。

八重樫 僕はバッティングコーチだったんで、(打撃投手だった時に)酒井には無理を言いました。ただ、故障のせいなのか、右バッターに対して抜けるボールが目立つようになってきた。それで、左バッター専用にしたんですよ。最終的には投げる意欲がなくなってきたのか、後にスカウトに転身することになったんです。

――スカウトとしては八重樫さんの先輩になりますね。

八重樫 僕がスカウトになった時に、小田義人スカウト部長に「ピッチャーについては誰がいい眼を持っているんですか?」と尋ねたら、「酒井だ」と返ってきました。スカウト時代、投手獲得の際には酒井の意見が重宝されていましたね。ライアン(小川泰弘)や松岡(健一)の獲得にも関わっていましたし。

――酒井さんは2019(令和元)年にヤクルトを定年退職されました。あらためて、酒井さんはどんな方でしたか?

八重樫 入団時には「サッシー」として、世間の注目を浴びて鳴り物入りで入団してきたけど、当の本人はまったくスター気取りしない、素朴な男でした。島育ちだからなのか、周りの影響を受けない、マイペースな男でしたよ。プロ3年目の顔面直撃さえなければ、また違った野球人生だったのかもしれないけど、惜しかったですね。ただ、最近どこで何をしているのかわからないんだけど(笑)。アイツ、元気かな?

(第79回につづく)
長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi

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