佐々木朗希、モノになるかどうか。

佐々木朗希、プロ2年目にもなって、1軍のマウンドに上がっているが、未だに160キロ出していないハズ。3年前の岩手県予選以降、記録はないハズ。県予選決勝をスキップした後も、カレには甲子園で選ばれたメンバーと一緒に高校選抜でプレーする機会も得た。しかし、高野連節穴選考委員のチョンボ、毎度の出る出る詐欺で、西や奥川らの負担を増やしただけだった。数年前の大谷は4番という貢献があったが、カレにはサラサラなかった。

大谷の場合は本人も指導者も、共通のプロセス意識を持って、持久力と瞬発力のトレーニングを積み重ねた。スラッガーとしての4番と160キロのエースを兼ね備えるスキルを身に付けた。

しかし、大船渡指導者にも本人にも、そんな高い意識はなかった。バカ高い上背に胡座をかき、単なる野球の動作解析しか考えない筑波大の学者に丸投げした。甲子園に向けた連戦など観念のない、マウンドでスピードを出すための筋力しか考えず、1試合投げ抜き連戦を勝ち抜く耐久力観念のない学者のメニューだった。

結局、大谷のカラダから長距離ランニングと投げ込みを抜いたカラダがコレだ。単発で160キロ出す筋力は備えても、そのベストを出さなくても凌ぎ抑えるコントロールやキレやスキルは身に付かなかった。挙げ句、投げ込み不足が連戦になるとマメを作り、首を絞めた。県予選決勝でも、高校選抜でも。

プロ入りして、基本は耐久力向上重点のトレーニングをして来たろう。しかし、今度は瞬発力系のトレーニングが不足したのだろう。だから、一回りは太くなったカラダでも、数字は出ていないのだ。江川だって、高2が一番速かったと言われるくらい、一番トレーニングできる高校時代に、持久力系のトレーニングを割愛したツケなのだ。

同じヒョロヒョロ系でも、藤浪は大阪桐蔭時代に西谷監督から多大な瞬発力系も持久力系のトレーニングを課せられていた。だから、カネモト&矢野に干された今でも160キロを超せる。

そもそも、甲子園に春でも夏でも出た投手と、出たコトない投手は、心身共完成度が違うのだ。

カレを育て切れるかどうか、それは、小林至はともかく、藤岡も京大・田中もツブした千葉ロッテには、ラストチャンスなのだ。

 

 

 

 

*********************************

「ストレートの平均で160キロぐらいを投げて」今年20歳の佐々木朗希が明かす“壮大な未来図”…イチロー松坂大輔と異なる感覚とは
8/27(金) 11:05 Yahoo!ニュース
 17 
5月の一軍デビューからここまで6試合に登板した佐々木朗希。11月3日には20歳の誕生日を迎える photograph by Sankei Shimbun
 二十歳のころ、自分の将来について、どれほどの未来図を描けていただろうか。そもそも人生の地図なんて持っていなかったような気がする。

【画像】缶コーヒーを飲む20歳のイチロー、Number表紙を飾った19歳の松坂大輔

 ある日、「きょうは成人式だから」と言われ、ダボダボのスーツを着せられ、大人になった実感もないまま、何となく体育館に並んでいただけだったような憶えがある。自分に何ができるのかなんてわからず、成人の日が終わればまたアルバイトに行って、仲間と酒を飲んで、モラトリアムな日常に戻っていった……。

 なぜ、そんなことを思い出したのかといえば、佐々木朗希がまもなく20歳を迎えると聞いたからだ。高校時代に、すでに160キロを超えるスピードボールを投げて、「令和の怪物」と呼ばれた選手は、つまりある分野において傑出した能力を持っている人間は、やはり明確な未来図を持っているのだろうか――。

「そうですねえ……、たとえば中学生くらいのときは、20歳になったら大学生になっているかなあと、それくらいにしかイメージしていなかったと思います。正直、何も見えてはいなかったです。今もチームにいると一番若いくらいなので、子ども扱いされますし、大人になった実感は全然ないです」

 そう言った19歳9カ月の表情には、あどけなさが浮かんだ。

「まあ、20歳になって年齢を重ねていけば自由が増えると思うので、その中でも自分を律していければいいかなと思ってます。プロになって2年目ですし、少しずつ自覚を持ちながら、成績も残していかなければいけないので……」

 色白の顔に物静かな口調も手伝ってか、彼は160キロを投げるピッチャーにしては控え目すぎるような気がした。世の多くの学生と同じように、まだ人生の地図を描けていないようにも見えた。

 手元には編集部のT氏が送ってくれた何枚かの資料があった。それらのA4用紙の中では、オリックス・ブルーウェーブのユニホームを着たイチローと、まだほっそりした童顔の松坂大輔が挑戦的な視線をこちらに向けていた。資料の中身は、この世界に名を刻んだスターたちの20歳当時のインタビュー記事であった。

 記事によると、二十歳になったころの鈴木一朗は一軍と二軍を行ったり来たりの2年目を終えたところであり、若手を育成するためのハワイ・ウインターリーグでチーズバーガーを食べていたという。「イチロー」になる直前の当時の心境を、後にこう語っている。

『210本のヒットを打ったのは3年目、20歳のときですけど、僕としては1年目にファームでやって、2年目には一軍で3割を打つつもりでしたから(笑)。ずいぶん遠回りをしたという感覚がありますね』

 一方で、ルーキーイヤーに16勝を挙げた松坂は、二十歳になる2年目のシーズンを前にして、こんな言葉を残している。

『夢って言葉、好きじゃないです。色んなことは夢じゃなくて、目標ですから』

『ただ野球で一番になりたい。それだけなんです』

 2人のスターに共通しているのは、いずれも誌面から飛び出してきそうなほどの野望と確信にあふれていることだ。他者の想像を上まわる未来図を、世の中に突きつけている。

 だが、目の前の佐々木にそうしたギラギラした漲りは見えなかった。160キロのストレートと謙虚さとのギャップ――思えばそのイメージは、佐々木がプロ野球に入ってからずっと彼のまわりに漂っているものだった。

 何しろ、佐々木はプロ1年目、1試合も公式戦で投げなかった。一軍デビューを果たしたのは、2年目の今シーズンである。

一軍デビュー、プロ1勝目は甲子園
 5月半ば、春風薫る本拠地マリンスタジアムでの西武ライオンズ戦だった。5回を投げて6本のヒットを浴び、4点を失った。

「初登板のときは、あんまり変化球の調子が良くなかったので、配球面で真っ直ぐだけになってしまいました。そこを打たれてしまったところもあったんです」

 初勝利はそれから約10日後、ナイター照明に光る甲子園での阪神タイガース戦だった。

「初登板のときに変化球であまりカウントを整えられなかったので、変化球をうまく使って、最後は真っ直ぐを投げきることを意識しました」

 4点を失ったものの、ゲームを壊さずに5回を投げ切ると、その直後に味方打線が逆転してくれた。平成の怪物よりも1年以上遅い、プロ1勝目であった。

 佐々木はそれからも月に1、2度のペースでマウンドに上がり、8月27日現在で6試合に投げ、1勝2敗、防御率3.73という数字が残っている。

「ここまでは順調に試合数は投げられてるかなと思います。投げた次の日などに(投手コーチの)吉井(理人)さんと、次はこうしたいという話をしながら、頭を整理して次の試合に向かうようにしています」

 一足飛びに階段を駆け上がり、時代を沸かせたスーパースターたちと比べれば、彼の歩みは一足一足である。

 そして、そのペースは公式戦のマウンドに立たない期間中も変わらなかったという。

「プロ1年目は一軍に帯同させてもらったのですが、他の選手の食事やトレーニングを見ていて、すごく意識高くやっているので、あらためて体調管理や体のケアは大事なんだと実感しました。今は、よりハイレベルな方法を自分で見つけられるようにやっています。

 プロには球団のトレーニングコーチー、トレーナーさんがいらっしゃって、色々な指導やアドバイスをいただいていますが、それ以外にも時間を見つけて練習後にストレッチをしたり、ウォーミングアップのときにちょっと体操を加えてみたりしています。自分にとって必要なことなので」

 投げない間も一足ずつ、歩みを進めていた。

 不思議である。なぜ彼はゲームに登板せず一軍に帯同する日々に焦れなかったのか? なぜ投げずにいられたのか? 前のめりに挑戦したいことだらけの年齢だ。ましてや佐々木は160キロの速球を投げる能力を持っている。どんな挑戦だって許されるのに、どうして川辺で小さな石を積むがごとく日々を送れたのだろうか。

「最も大きいのは、チームと自分の意見が合ったというか、自分も納得したから良かったんです。僕は長くチームの戦力になりたいので、そのためには1年目にああいう経験が必要でしたし、チームもそれを求めていました。もちろん、早く一軍で活躍したい気持ちはありましたけど、今の自分のままではできないと感じていたので、自分の未来に懸けたというか……」

 そのとき、佐々木の表情に初めて確信が浮かんだような気がした。

「こうなりたいという自分があって、まだそんなに具体的なものではないですけど、自分の将来というか、未来に懸けたということなんです。それがあるから練習も頑張れるのかなと思います。もちろん野球選手なので、試合に投げれば結果を出さないといけない。その上で、この先もっと時間が経って、身体も成長していけば、もっといいピッチングができるかなとは思っているんです」

 ああ、そうだったのか……と思った。

 なぜ、佐々木がマウンドに上がらなくても前に進み続けられたのか合点がいった。

 彼は人知れず、内面に壮大な未来図を描いていた。すべてはそのための一足だったのだ。

「今の時点で考えているのは……、先発ピッチャーとしてイニングをしっかり稼ぐことができて、ストレートの平均で160キロぐらいを投げて、真っ直ぐも変化球もしっかりコントロールができる。そういう総合的に良いピッチャーを目指したいなと思っています」

 佐々木は、未来図のアウトラインをこう表現した。

 ストレートの平均が160キロに達する――あの大谷翔平ですら、直球の平均球速は150キロ台である――ことに加えて、あらゆる球種を制球することができる。それは「良いピッチャー」の域を超えて、ほとんど世界最高のピッチャーである。静かな口調の裏に巨大な野望が秘められていた。

 それを耳にして思い出したことがあった。甲子園でプロ初勝利を挙げた後に、佐々木が口にした言葉である。

『納得できるボールは1球もありませんでした』

 セ・リーグ首位のタイガース打線を相手にして、勝利をつかんだゲームを振り返って、佐々木はこう言ったのだ。

「勝ち星がついて、素直にうれしかったという気持ちはありました。でも、もっといいボールが投げられたかなと思います。甲子園では感覚的に良くなかったですし、ボールだけを見たら、手応えのあるものは1球もなかったです」

 納得しないながらも、150キロ台のストレートを軸に、勝利のためにできる限りのことをした。その結果としてウイニングボールを手にした。それでも心から笑えなかったのは、その先に続く長い道のりを、目指すボールとのギャップを他の誰よりも自分が知っているからではないだろうか。

「今年に関しては、試合数を多く投げること。来年は開幕からローテーションで投げて、規定投球回を投げるのが目標です。描いているのはそこまでです。僕は基本的にあまり小さな予定とか、小さな目標は好きじゃないんです。完璧主義なので、思った通りにならないと気持ちが切れて、投げやりになっちゃうんです。だから大きい目標だけをしっかり持って、その中で自分のやる気をなくさないように、柔軟に対応していく。我慢することが大切だと思っています」

 時代を沸かせたスーパースターたちとは異なる、表出しない野望である。そういう意味では、未来図の描き方にしても、ずっと続けているストレッチにしても、佐々木には、自分をよく知っているという印象がある。

「自分を知るというか……、そういうことの最初のきっかけは、中学生のときの怪我なのかなと思います。それから身体についていろんなことを考えて、気をつけるようになりました」

 佐々木は中学3年生で140キロを超える球を投げるようになっていた。その代償だったのか、同じ頃に腰を骨折した。ピッチャーとしての自らの能力に成長途上の身体が追いつけない感覚をあじわった。その体験から、他者とは異なる自分の強さと弱さを知ったのだという。190cmの右腕はそれを「身体の長さ」と表現する。

「(他人より長い四肢が)有利だなと思ったのは、高校生ぐらいからですかね……。様々な人の話を聞いたりして、自分の特徴は他の人とは違うなと思いました。小学生や中学生のときは、好きな野球選手を目標にしてプレーしていたんですけど、そういうことに気づいてからは、自分だけのものをつくり上げていこうと考えるようになって、もう誰かを目標にすることはなくなりました。

 選手は人それぞれ絶対に違うので、そこは真似しても無理なんです。誰かを真似するよりは、自分の持っている感覚で、自分が立てた目標を追いかけるほうがいいかなと思ってます」

 彼が描いているのは自分だけの地図だった。おそらく、プロになる前から少しずつ胸の奥でつくり上げてきたものだ。

「プロに入るまでは、プロ野球がどんなところか全然わかりませんでした。2年目の今年、一軍で投げてみて、特に結果を残しているわけではないですけど、しっかり自分のボールを投げれば、結果を残せるようになるのではないかなと感じるようにはなっています。それほどの確信はないですけど、自分の中には自分への評価があって、これくらいのことがしっかりできるようになれば、結果は残せるんじゃないかなと、信じているんです」

 数字の上では佐々木はまだ1勝の投手である。ただ、胸に秘めたロードマップはこの2年でより鮮明になったという。この道を進めばいいんだという感覚をつかんでいるようだった。

 その内面を垣間見ると、彼が令和の怪物と呼ばれるのは、160キロのスピードボールだけが理由ではないように思えてくる。

 物静かな口調は最後まで変わらなかったが、もう控え目すぎるという印象は消えていた。
(「One story of the field」鈴木忠平 = 文)

*********************************