こんな話、昔はいっぱいあった。

こんな話を囃し立てないでくれない?

昔は、野球の本を開くといっぱいあった。大抵のコは、小学校や中学校で野球をしている。肩やヒジや腰やヒザを、やったりする。

マトモにプレーできない間にどんな努力をして来たか、キチンと克服したから今がある。

特に印象あるのは、広島・外木場だ。

マンガなら特に、水島新司ドカベン」でも、エース里中や山田の故障は色々起きたし、克服した。

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「野球肘」で丸1年ボール握らず、サッカーで足腰鍛えた中学時代…輝くルーキー・佐藤輝明<2>
9/1(水) 15:01 Yahoo!ニュース
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 小学1年の春、佐藤輝は左打席で打ち始めた。

 「左打者の方が有利みたいなことを聞きかじって勧めた」。右利きの息子に左打ちにするよう促したのは、関学大准教授で運動生理学などを専門とする父・博信(54)だった。試合では使えなかったという木製のバットで練習に取り組んだのも、「小さい頃から(木製で打つ)感覚を養った方が、後々いい」と知人に聞いたのがきっかけだった。

 小4の頃には、粘着テープでくるんだ新聞紙のボールを使ったティー打撃を自宅で始めた。これも、巨人二軍監督の阿部慎之助が、小学生の時に自宅での練習で1日500球ほど打っていたという話を、柔道仲間に聞いたからだった。

 
小学6年の対外試合で本塁打を放つ佐藤輝(2010年4月)=家族提供
 上達のスピードは博信の想像を超えていた。小5の頃には、長打力が他チームの間でもうわさになった。ただ、一つ、心配事があった。食が細かったことだ。

 博信は、一つの約束事をつくった。対外試合で本塁打を打った後、家族で回転ずしに行くようになった。「大好きなすしならいっぱい食べるんじゃないかと。それが野球をやる励みになってくれればとも思った」。体は徐々に大きくなり、小6の時に対外試合で放った本塁打は23本を数えた。

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 投手と捕手のポジションをこなし、順調に成長の階段を上がっていた才能豊かな少年に、アクシデントが襲ったのは、全国大会を目前に控えた小6の冬だった。

 
「将来はプロ野球選手になろうと思います」と書いた卒業文集(家族提供)
 博信の当時の手帳に、こう記されている。「テルが野球肘になってしまいました。離断性骨軟骨炎。3~12か月。完治するかわからない。ショックです」

 佐藤輝は、関西の有力選手でつくる「阪神タイガースジュニア」の一員として、NPB12球団ジュニアトーナメントへ出場する予定だった。だが、自ら辞退を決めた。仙台市から祖父が観戦に訪れると聞いても、意思は曲げなかった。その時の思いを、卒業文集で、こうつづっている。「僕は将来のことを考えて出ませんでした。それでランナーコーチをしました。こういう事を生かして、将来はプロ野球選手になろうと思います」

 右肘の手術はせず、自然治癒で回復の道を探った。在籍した中学の軟式野球部では丸1年、ボールを握らず、サッカーで足腰を鍛えた。ブランクは、少なからず進路にも影響を与えたが、博信は「仁川に行っていなければ、今のテルはなかったと思う」。西宮市にある仁川学院高校への進学が、人生の分岐点になった。(敬称略)

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