スゴく残念だったクルマ

ココに挙がったクルマ、2台を除けば、残念なモノではない。出た時点で、失敗が目に見えていたジャンルだ。

ホントに残念なクルマは、AZ1とセラ。

AZ1は、しげの秀一頭文字D」でカプチーノ使われた時に"何でそっち?"と思ったくらい。オープンのカプチーノよりクローズドのAZ1の方が・・・しかも、ミドシップ。雨の中だとミドシップピーキー、FRの方がマイルドという意味で、しげの秀一が描く勝負に合わなかっただけだ。

セラは、ミドシップないしはFRだったら良かったのに。FRだったら、エンジンとミッションとデフをプロペラシャフト結合されるコトにより、剛性面での問題が和らいだろう。ミドシップだったら、SW20の兄弟車として、違うバリエーションとなり得た。

 

 

 

 

 

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キテレツな発想が仇となった!? ああ残念! 鳴り物入りで登場したあのクルマの不人気のワケ
2021/09/03 11:02 ベストカーWeb54

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 鳴り物入りで登場したからって、成功するってわけじゃない。逆に、期待が大きいぶん、失敗した時のまわりのがっかり感はハンパない。ここでは、「そーいえば、鳴り物入りで登場したあのクルマってどうなったんだっけ?」と、なんとなく思い出してほしい(!?)、失敗作、いや、冒険作を紹介していこう。

文/藤原鉄二、写真/ダイハツ工業トヨタ自動車日産自動車マツダ、FavCars.com

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女性にそっぽを向かれた!? 悲しきデートカー「トヨタ・セラ」

女性人気が想像以上に低かったのも惨敗の要因であったことは確実。この当時のデートカーはシルビア、プレリュードなど、強敵揃いだった

 「あのトヨタが!?」と、業界を驚かせたクルマがトヨタの冒険カーが「セラ」。バブルの真っただ中に開催された1987年の東京モーターショーにコンセプトカー「AXV-2」として出品された時は、量産化は……と多くの人が思ったものの、大方の予想に反して1990年3月、デビューを果たした。

 斜め前上方に開く少し変則的なガルウィングドア、正確にはバタフライウイングドアを採用した3ドアクーペという位置づけ。日本では、ガルウィングドアはスーパーカーの専売特許という既成概念を覆したことだけでもセラのインパクトは大きかった。

 加えて、コンセプトの「あらゆる天候下でのオープン感覚の体験」どおり、戦闘機を彷彿とさせるような、全面ガラス張りと言っても過言ではないエクステリアデザインは斬新だった。そんな画期的なエクステリアにばかり注目が集まりすぎたためか、走りに言及されることはほとんどなかった。

 いっぽうで、女性に好まれるデートカーとしての地位を築くかと思われたが……。なんと、女性からは「中が丸見えすぎて恥ずかしいー」「ドアが開けづらい」「とにかく熱ーい!」「日焼けしそー」などの理由からそっぽを向かれ、男性たちを大いに失望させることに……。

 他にも、ベースグレードで160円という、1.5リッターの同クラスのクルマよりも少々割高であったことや、ガラスのキャビンのせいで車重が重く、走行性能がいまいちだったということもあり、その人気は急速に衰えていった。

 結局、1996年1月に生産終了、総販売台数1万5834台と、天下のトヨタとしては稀にみる大惨敗を喫したモデルだった。

タイミングを逸した夢の軽ピュアスポーツ「マツダAZ-1

フロントマスクがランボルギーニ ミウラになんとなく似ているという噂も。マニアックなファンの多いクルマだった

 鳴り物入りで登場したと言われて多くの人が真っ先に思い浮かべるだろうクルマのひとつがマツダAZ-1のはずだ。AZ-1は、今はなき販売チャンネルであるオートザムから発売され、同期時に販売されていたホンダ・ビート、スズキ・カプチーノとともに「平成ABCトリオ」と称されていた。

 話題となったのは、ガルウイングドア。セラよりも遅れての採用とはなったものの、軽自動車としては前代未聞のシステムだった。横転時の脱出時が困難であるという指摘をクリアするため、マツダが独自に実証実験を行って安全性を証明し、その結果、認証を得るに至ったというほどの気合いの入れようだった。

 もちろん、64psを発生する直列3気筒DOHCターボをミッドに搭載し、走行性能も申し分なし。「見た目だけじゃない、走りだって本格的な軽カーを作るぜ!」という挑戦者マツダの心意気を感じさせる一台だった。

 しかし、なにせ発売時期が悪かった! ビートが1991年5月、カプチーノが1991年10月だったのに対し、AZ-1は1992年10月。この1年の遅れが命取りに……。バブルの崩壊は1991年3月からと定義されているものの、ビートやカプチーノが登場した頃はまだバブルの残り火がくすぶっている頃でもあり、スタートダッシュは好調だった。しかし、AZ-1が登場した頃には日本経済はどん底に……。

 国民の消費意欲は急速に低下し、趣味性の高いクルマを購入しようという消費者が激減していた時期だった。実際、ビートの総販売台数は3万3892台、カプチーノは2万6583台に対し、AZ-1は4409台、OEM供給された姉妹車、スズキ・キャラを含めても5000台弱と、平成ABCトリオのなかでもダントツに凹んでいる。

 最終的に、販売期間は1992年10月から1995年9月と、たったの3年。キャラも同年12月にひっそりと生産終了している。ただし、現在はそのタマ数の少なさもあり、150万~160万円という新車価格の倍以上のプレミアがつくものもあるくらい、中古車市場ではお宝モデルとして珍重されている。

NXクーペの呪いか!? イケイケ兄ちゃんたちの支持を得られず!「日産・ルキノ」

コスパは申し分なし、、スタイルもそこそこだったが、若者の心はつかめなかった。ちょっと優等生すぎたのか!?

 「あ~そういえば、あったよね~」と、その存在をすっかり忘れてしまってい人も多いだろうクルマが日産・ルキノ。しかしデビュー当時は、イケイケだったロン毛の江口洋介をCMに起用するなど、若者をターゲットにした2ドアクーペとして、日産がかなり力を入れてリリースした、ある意味鳴り物入りのクルマだったのだ。クーペに少し遅れて、ハッチバックや5ドア(SR-V)も発売された。

 デビューは1994年5月。ベースはクーペが8代目サニー、ハッチバックとSR-Vはパルサーセリエがベースだった。燃費が良い、価格もベースグレードであれば100万円を切るというお財布にやさしいルキノは、「クルマは欲しい、でもお金が」という若者にとっては魅力満点なクルマだったはずだが……。

 不人気の原因のひとつとして考えられるのが、1990年1月に登場し、個性的なフロントマスクが話題となった3ドアハッチバッククーペ、NXクーペ。こちらは7代目ではあるが同じサニーをベースに開発されたクルマで、約4年の総販売台数は1万5151台と大苦戦のまま、生産終了となった日産の歴史的惨敗車のひとつ。

 その悪い流れのままバトンを受け継いだのがルキノだったのだ。NXクーペがセクレタリーカーとして女性をメインターゲットにしていたが、ルキノは20代の若者。リベンジが期待されていたものの、NXクーペ同様にメインターゲットからの支持を得ることはできなかった。

 さらに悪いことに、本丸の8代目サニーの販売状況も芳しくなく、ルキノもそのあおりをくったというのも、不人気となってしまった原因のひつと言えるだろう。さらに、ハッチバックはもろパルサーで、差別化が図れなかったというところも難点だった。

 最後まで浮上の兆しは見えず、クーペは1999年4月、ハッチバックは1999年4月、SR-Vは2000年8月に生産終了となった。

先代が偉大すぎたゆえの迷走&伸び悩みに苦しんだ「マークX

次第に販売台数を落とした始めたマークIIをリセットするというトヨタの大英断のもと登場したマークXだったが……

 2004年11月、ミドルサイズセダン、マークIIの後継車種として登場したのがマークXだ。マークIIの最終型、9代目の販売台数は落ち込んでいたものの、それでもマークIIの名は偉大。「あんな名車をなぜ消滅させちゃうの!?」と当時は大騒ぎだった。

 初代は、クラウンと同じ3リッターと2.5リッターのGR系V型6気筒DOHCエンジンを搭載、シャシーもクラウンと同様のものが採用された。車格的にはマークIIよりもグレードアップしたかたちだ。当初の販売台数は月に2500~3500台程度と、セダンとしてはかなりの合格点だった。

 しかし、徐々に販売台数は減り始め、2009年10月にデビューした2代目では、マークII時代のスポーティグレードであるツアラーシリーズに相当するスポーツタイプの他に、G's、GR SPORT、6速MT、AT設定なしのGRMNを発売するなど、走りを追求したグレードでテコ入れを図ったりしたものの、先代を凌駕するほどの販売台数には至らず。

 これといった明確な失敗の原因が見当たらないと思われるマークXだが、クラウンのユーザー層と被ることになったうえ、クラウンもアスリートなどのスポーツ仕様を発表したことで、ますますクラウンとの差別化が図れなくなり、ユーザーが混乱したという可能性も。

 さらに追い打ちをかけるようにレクサスブランドも登場し、他モデルにはハイブリッドなどが追加されるなどの動きがあったにもかかわらず、マークXにはそういった動きはなし。このように、販売台数の伸びが期待できる動きがゼロに近い状態になったことも生産終了に追い込まれた原因と考えられる。

 そして遂に、2019年12月23日、1968年から続いたマークIIの血統は途絶えることとなった。

歴代マークII最大のヒットとなったのは、バブル絶頂期の1988年8月に登場した6代目。兄弟車のチェイサー、クレスタもバカ売れだった

コペン大成功の陰に隠れた、ダイハツ黒歴史ダイハツ・リーザ スパイダー」

平成ABCトリオの対抗馬がまさかの改造車扱いという、別の意味で衝撃的だったーザ スパイダー

 平成ABCトリオに負けじとダイハツも1992年11月に軽オープンカー、リーザ スパイダーをリリース。鳴り物入りだったか問われると何とも言えないところだが、軽オープンカーの分野に食い込みたいという想いを持っていたダイハツにとっては、鳴り物入りだったに違いないのだ。

 そのわりに、こちらは平成ABCトリオとは異なり、専用設計ではなく、既存の3ドアハッチバック、リーザをベースにしたクルマだった。

 64psを発生する直列3気筒SOHCターボエンジンを搭載し、走行性能としては軽快な走り心地で及第点だったが、大問題だったのは改造車扱いだったことだ。リーザのルーフをカットして、まさしく"改造されただけ"のオープンカーという異例のクルマだったのだ。当然、改造車ということで新車登録は運輸支局へ持ち込むことが必須。これだけで購入には二の足を踏んでしまう条件として十分。

 ということで、案の定、月販目標台数100台には到底届かず、トータルで380台という大惨敗。1年足らずで生産中止になるという、ダイハツ史上稀にみる失敗作となってしまった。

 この激レア度でも中古車市場ではAZ-1のようなプレミア価格もついていないという、実に残念なクルマとなっている。

 しかし、この失敗から奮起したダイハツは、リベンジとばかりに2002年6月に再び軽オープンカー、コペンを発売し、予想以上の大成功。2012年4月の生産終了まで、10年3カ月に渡るロングランモデルとなった。さらに、2014年6月にはコペン ローブ、11月にはコペン エクスプレイとして再登場。今に至っている。

失敗を糧にして(!?)登場したコペンは大成功。くら~い思い出を忘れさせてくれた成功作となった

【画像ギャラリー】 「ガチ」だったのに…不人気のまま去っていった残念な生産終了車たち秘蔵写真

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