落合、飾り過ぎ!まあ、わかるけど。

あの国民的行事、中日との最終戦決戦で、中盤に股裂肉離れをやらかした。あの肉離れは地獄の痛みだ。あんなボテボテのゴロに、キチンと腰を落とさず処理に行って、人工芝とアンツーカ境で片足滑らせて股裂状態になった。それくらい、足腰は弱っていた。

中日への移籍以降、ロッテでやっていた自主トレからキャンプ中盤までの超マイペース調整がデキなくなった。元々、アマ時代に鍛え上げたカラダではないから、前年の疲労を抜いて次年のカラダ作りが必要だったのに。

星野監督にとっては、平野や牛島や平沼を失ってまで獲得した落合、2軍でマイペースなどさせられない。まず1軍全選手に接して、技術や生活について盗む機会を与えたかった。ゲーリーや大豊らは、ソレを活かした。落合も、キャンプ待遇の良い1軍に迎合してしまい、カラダ作りおざなりにシーズンインするようになった。そのツケは、何年も蓄積した。

巨人に移籍したら、その傾向は更に顕著になった。待遇だけでなく、テレビも付いて来るから。益々、仕上がらないカラダや眼でシーズンに入った。ロッテ時代は二塁手首位打者一塁手だけでなく三塁手でも三冠王獲った選手なのに、見る影もなくなった。

清原が来ても、落合と一塁/三塁シェアすれば良かった。しかし、股裂肉離れ後の落合と、本塁突入衝突のやり過ぎで右肩を壊した清原では、互いに三塁はムリだった。だから、落合は美しく飾り立てて巨人を去った。

落合がちゃんとした姿であと2年巨人にいたら、清原はあんなバカな姿でいられたろうか?少なくとも、プレッシャーから逃れたくてヤクに手を出したなどとは言えなかったろう。いや、清原のヤク中は西武時代からと言われ、ロッテ時代の落合も知っていたのでは?知っていたから、係わり合いたくなくて出て行ったのでは?

落合がいたら、清原のヤク中を暴露するか、叩き直すかしてくれたのでは?

清原の野球に対する姿勢を叩き直す、最後の機会だったのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

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「清原とオレで…長嶋さんの悩む顔を見たくない」“日本人初の1億円プレーヤー”落合博満のオレ流移籍人生《43歳でも3億円》
9/6(月) 17:01 Yahoo!ニュース
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1987年のシーズン、ロッテから中日へ移籍した落合博満。年俸は9700万円から1億3000万円にアップ photograph by BUNGEISHUNJU
長嶋、王、バースから古田、桑田、清原まで……球界を彩った24人のスターたちは「最後の1年」をどう過ごしたのか? 去り際の熱いドラマを描いた『現役引退――プロ野球名選手「最後の1年」』(新潮新書)が重版され、売れ行き好調だ。そのなかから、“球界初の1億円プレーヤー”落合博満の現役引退までを紹介する(全2回の前編/後編へ)。

【写真】ミスターと落合43歳の退団会見、1億5000万円と報じられた豪邸前で信子夫人と&西武時代のキヨとのお宝ツーショットも(19枚)

「自分を一番高く買ってくれる球団と契約したい」

 かつてそう堂々と公言して物議を醸した大打者がいた。ロッテ時代の落合博満である。打率.360、50本塁打、116打点で前人未到の三度目の三冠王に輝いた1986(昭和61)年のオフ、尊敬する稲尾和久監督が去り、現役を引退したばかりの“ミスターロッテ有藤道世が40歳の若さで監督に就任する。その際の条件のひとつが、圧倒的な個人成績で年俸も高騰していた落合の放出と言われていた。要は存在が大きくなりすぎて青年監督には扱いづらいというわけだ。当然、そういう会社の思惑は内側にいれば勘づく。ああそうかい、出されるくらいなら、オレから出てやるさ。落合は黙って組織にその身を委ねるようなタマじゃなかった。冒頭の移籍志願ともとれる発言は、秋の日米野球参加中に放ったジャブである。

 そして、86年12月23日に、噂されていた巨人ではなく、こちらも若き星野仙一新監督が率いる中日へのトレードが決まる。背番号は慣れ親しんだ「6」、新年俸は1億3000万円。球界初の日本人1億円プレーヤーが誕生した。あえてオレ流という劇薬でチームを活性化した星野は、就任2年目に中日をリーグ優勝に導き、三冠王を手放す悪手で打線が弱体化したロッテは球団初の2年連続最下位と低迷。有藤はわずか3年でその座を追われることになる。全盛期の落合博満には、多くの男たちの運命を変えてしまう力があった。

「オレもラモスもそれを実現している数少ない人間でしょう」
 あなたはそんなオレ流・落合の現役最終年の打撃成績を知っているだろうか? 個人的に、落合が巨人を追われて日本ハムへ移籍したことはもちろん覚えている。97年のオールスター戦では仰木彬監督の計らいで全パ1番打者として打席に立ち、当時17歳のアイドル広末涼子の始球式に笑顔で付き合っていた。でも、肝心のシーズン成績はどうだったのだろうか? 

 前年の96年オフ、西武の清原和博が死にたいくらいに憧れた巨人へのFA移籍が秒読み段階に。そうなると、一塁のポジションが被る落合はどうするのか? そのシーズン、42歳の元三冠王は8月末に死球を受けて左手小指を骨折するアクシデントに見舞われながらも、打率・301、21本塁打、86打点、OPS(出塁率長打率を足し合わせた数値)・924 と年齢を感じさせない堂々たる成績を残していた。SMAP香取慎吾安室奈美恵が表紙を飾る雑誌『小学五年生』96年5月号では、唐突に「落合博満vs.ラモス瑠偉」のスペシャル対談が実現。子供たちが憧れるイチロー三浦知良ではなく、2人合わせて81歳の大ベテラン濃厚対談。ミニ四駆ニューマシーンスクープ記事を楽しむ小学生がついて来られたのかは謎だが、ここで落合は手加減なしのオレ流ガチンコ発言を連発している。

「子供のころから憧れ続けてきた職業につける人間が、この世の中にいったい何人いると思う? オレもラモスもそれを実現している数少ない人間でしょう。それを考えたら、もったいなくて『オレ、やーめた』なんて言えないもの」

「よく『若手を育てろ』とか『若手を使え』という人がいるでしょう。でも、プロの世界は人に育ててもらうものじゃない。自分で育って、自分で這い上がってくるものなんだ。それだけ厳しい世界なんだ」

 凄い、これを読まされる『小学五年生』読者のその後の人生は大丈夫だろうか……なんて心配になってしまうほど、大人の世界の生々しい真実をぶちかますリアリスト落合。巨人軍相手にも一歩も引かず舌戦を繰り広げたのち、96年11月28日に「清原と自分の使い方で長嶋さんの悩む顔を見たくなかった」と、ミスターと並んでジャイアンツ退団会見を開く。

「リストラに負けない中年の星」3億円の2年契約
 直後に野村克也監督率いるヤクルトと日本ハムが獲得に乗りだし、当初は同リーグのヤクルト移籍濃厚と言われながらも、12月12日には急転直下で日本ハムの背番号3のユニフォームを着て入団会見。

 年俸3億円の2年契約という好条件に加え、大社義規オーナーと上田利治監督が同席する異例の熱気に、11年ぶりのパ・リーグでプレーする主役は「来年、日本一になりますんで」と宣言し盛り上がった。この時期、メディアはちょっとしたオレ流ブームで、週刊誌でも「リストラに負けない中年の星」のような応援記事が目立つ。選手会を脱退したり、名球会入りを拒否するなど、ずっと球界の異端児でヒール(悪役)だった男が、43歳にして初めてベビーフェイス(善玉ヒーロー)になった瞬間でもあった。

 しかし、だ。自著『野球人』(ベースボール・マガジン社)によると、前年の日本シリーズで左手小指骨折から無理して復帰したため、体全体のバランスの微妙な狂いがあったという。春季キャンプでは球団人気を上げようとマスコミにも積極的に対応したが、自身の練習量は減ってしまう。アキレス腱痛もあって満足に走り込むこともできず、さらに春先には珍しく風邪を引いて回復に時間が掛かり、開幕からチームも6連敗と散々のスタート。4月16日の西武戦では4打数4安打と健在ぶりをアピールするが、その後は途中交代の多い起用法にも戸惑い、調子が上がらず失速してしまう。終盤には16年ぶりの6番降格、さらに一塁ライナーを捕球した際に左手薬指の脱臼でスタメン落ち。移籍1年目の97年は113試合、打率・262、3本塁打、43打点という寂しい成績で終わり、日本ハムも同率4位と低迷。戦力外通告を受けた選手が「落合さんが来てからおかしくなった」なんて捨て台詞を残して去るなど、入団前の優勝請負人扱いが嘘のような状況で、移籍初年度のシーズンを終えることになる。

 そして、98年にプロ20年目の「最後の1年」を迎えるわけだ。

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(「ぶら野球」中溝康隆 = 文)

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