根本サン、そんな大層なヒトじゃないョ!

根本サン、ホントにそれほどだと思うか?西武に何年かかった?自分が監督してる間、1度だけ優勝争ったけど、ダメだったじゃん?東尾は、あの時期が最後の全盛期だったのに。

広岡サンになって、3度リーグ優勝し、2度の日本一、巨人相手にも勝った。阪神相手には、日本シリーズに捨て試合やって、挙げ句そのまま負けたけど。

森サンになったら、いよいよ黄金時代になったがその途中で、根本サンが西武スタッフごと根刮ぎダイエーに行った。しかし、ソコからも暫く西武は優勝し日本一になったし、ダイエーは無様に負けてた。

結局は、根本サンの手腕ではなく、広岡サンや森サンの手腕だったのではない?あの当時は、プリンスホテルからの選手も多かったから。タツノはプロに来てないし。

 

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阪神の編成部長となった根本陸夫信者の最初の大仕事は「24人戦力外」の血の入れ替えだった
9/13(月) 10:45 Yahoo!ニュース
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2001年12月に阪神の監督になった星野仙一(写真左)のもと編成部長として活躍した黒田正宏
根本陸夫外伝~証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実連載第30回証言者・黒田正宏(4)

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 新たに森祇晶が監督に就任した1986年、西武はリーグ連覇を果たし、日本シリーズでは広島と8試合を戦って4勝3敗1分で栄冠に輝く。同年から88年までリーグ3連覇、3年連続日本一を達成して、「常勝軍団」と呼ぶにふさわしいチームとなった。

 翌89年はパ・リーグ相手5球団の監督が企図した"西武包囲網"にも遭い、最終的に近鉄オリックスとの三つ巴から抜け出せずに3位に終わったものの、優勝した近鉄とは0.5ゲーム差で戦力は充実していた。そんななか、西武の作戦兼バッテリーコーチを務める黒田正宏はひとつの思いに至り、球団管理部長の根本陸夫に相談を持ちかけることになる。

 南海(現・ソフトバンク)から82年に西武へ移籍した黒田は、根本とは旧知の間柄で、法政大の先輩・後輩の関係でもあった。自宅から至近の根本家にしばしば招かれ、コーチ就任後は事細かに教育され、薫陶を受けた。のちに「根本信者」と呼ばれるほどの信奉者となり、何事に対しても根本に相談していたのだが、その時は退団の意向を打ち明けるつもりだった。

 89年のシーズンオフ。黒田の目は古巣に向けられていた。前年に球団がダイエー(現・ソフトバンク)に身売りされ、本拠地が福岡に移転したホークスから誘いを受けた。おりしも、他球団への移籍を考えていた時だった。背景には何があったのか、黒田に聞く。

「長いこと西武にお世話になって、リーグ優勝6回、日本一にも5回なったから、ぼつぼつ違うところでも......と思っていたんです。そしたらダイエーから話があって。球団代表の岩谷(堯)さんを前からよく知っていたのと、球団社長の鵜木(洋二)さんが法政大の柔道部で先輩でした。『じゃあ、行こうかな』と思って、根本さんに相談したんです」

 黒田自身、球団オーナーの中内功とも以前から接点があった。一方でそのオフ、チームの監督が杉浦忠から田淵幸一に交替。黒田にとって田淵は法政大の1年先輩で、西武でも3年間ともに戦っている。当然、根本もよく知る野球人だから、理解してくれるものと思っていた。

ダイエーからコーチの話が来てるんです。どうしたらいいですか?」

「やめとけ! そんなとこ行くな! おまえが田淵のとこ行ったってしょうがないやろ。このまま西武におったらええやん。もし辞めるんやったら、どっか新聞、紹介してやる。評論家で」

「いやぁ......でも、もう長く関東で生活してますから、一回、関西に行かせてください」

「関西と違う、福岡やないか......。そうか、ほんじゃあ、何で行くんや?」

「ホークスは古巣ですから。行かせてください」

「よし、わかった。じゃあ行ってこい。何かあったらすぐ電話しろ」

 黒田へのホークス復帰要請は、じつは初めてではなかった。82年オフ、南海監督に就任が決まった穴吹義雄が、「黒田を返してくれませんか?」と打診してきた。根本はすぐに断った。この経緯を事後に伝えられた黒田は驚き、なぜ自分に相談してくれなかったのかと意見したが、結局は「このまま、ずっと西武におれ」と言われて納得するしかなかった。

「ちょうど優勝して、シーズンが終わった時です。この経験は根本さんのおかげやと思ってましたから、それ以上は何も言えません。でも、その時から10年近くが経っていた。だいたい、根本さんにはいつも『こうやれよ』『こうしろよ』と言われてましたけど、それは『自分で決めろよ』という意味なんです。だからこの時も僕、相談する前に自分で決めていました」

 90年、黒田はダイエーのヘッドコーチに就任した。同年は最下位に終わり、戦力不足を痛感すると、根本にトレードを申し込んだ。これは成立しなかったが、困ったことがあれば、他球団といえども相談の電話を入れた。「そんな簡単なことで、なに考えとんねん!」とよく怒られた。

 翌91年、チームは浮上できず5位に終わる。そのなかで黒田は「監督とヘッドが大学の先輩・後輩関係だと周りのコーチの迷惑なのでは?」と感じ、退団を決意する。あと1年の契約があり、球団から編成として残るよう慰留されたが、自分で決めて根本の自宅に向かった。

「まず『辞めてきました』と言ったら、『やっぱりなあ』って言われて......。それでいきなり人差し指を1本こっちに向けて、『これくらい、アメリカ行ってくるか?』って言われたんです。1カ月かと思ったら、1年(笑)。そういう仕事を探してくれようとしてたんですね。でもその時は、大阪で新聞の評論家とラジオの解説が決まっていたので、お断りしました」

 ネット裏から野球を見る、"第三の人生"が始まったのが92年。根本が田淵に替わってダイエー監督に就任し、球団専務を兼任するのが同年オフ。不思議な巡り合わせを感じずにはいられないが、それから6年後、黒田は野村克也と再会を果たす。南海時代に監督として仕え、捕手としてライバルだった野村が阪神監督に就任。バッテリーコーチとして招聘されたのだ。

阪神に入って2年目の終わりの頃、アメリカに行ったんです。球団とノムさんから『来年のために選手を見つけてきてくれ』と言われて、1カ月ぐらい通訳とバッティングコーチ補佐だった長嶋(清幸)と一緒に。それで帰ってきたら野村さんにこう言われたんです。『オーナーから言われてるんやけど、来年、編成をやるか、ヘッドコーチをやるか、今のコーチを続けるか、3つのうち1つ考えといてくれや』と」

 阪神も野村も、その能力を認めていたのだろう。いずれにせよ、実質GMの根本に薫陶を受けていた黒田が同じ道を歩むのも必然かと思えるが、本人は悩んでいた。

ノムさんと監督付の広報担当と3人で食事するたびに、ノムさんから『おまえ、どうするねん』と。その時、根本さんだったらなんて言うのか考えてみました。そしたら『おまえもそういう仕事が向いてるから、編成やれ!』っていう言葉が聞こえてきたんです」

 時に黒田が阪神に入って2年目の2000年。根本はその1年前の1999年4月30日に逝去したのだが、悩んだり、迷ったりした時は生前と同じように心のなかで相談してきたという。まさに、「根本信者」と呼ばれる由縁がここにあるのだろう。アマも含めた野球界に数多いる根本信奉者で、ここまで信じて仰ぎ見る者はいないのではないか。

天国からの助言を得た黒田は編成の道を選び、2001年から球団本部付部長に就任。2003年から編成部長となった。野村に替わって2002年から監督を務めた星野仙一は明治大出身。黒田の1年先輩で、六大学時代からよく知る間柄だった。4年連続最下位の阪神を4位に引き上げた星野は、補強はもとより大胆な戦力整備に着手する。

 その戦力整備自体が、黒田にとって、編成部長として最初の大仕事となった。24人もの選手を戦力外にした、いわゆる<血の入れ替え>である。当時、星野が断行したと伝えられたが、実際には黒田らフロントの仕事だった。

「監督は戦力外にする選手を決めても、通告するのは我々フロントですからね。本社から来た球団本部長とふたりでやったんですけど、『しんどいですねえ!』って言うてましたよ。そら、就職をどうするかとか聞かなあかんし。いろいろ世話しましたよ。選手を社会人のチームに入れてもらったりね」

 編成トップとしては、根本に言われたことを思い出しながら仕事にあたった。「シビアに自分の観念で見ていきなさい。人に相談しないで」という言葉が頭に響いていた。球団の上層部には相談するが、たとえば、スカウトとはなあなあの関係にならないように努めた。これはドラフトの際に生かされたという。

「本部付部長時代の話ですが、法政大の後輩でもある安藤優也を獲った。当時、安藤はトヨタ自動車にいて、スカウトのひとりが『トヨタは巨人とのつながりが強いから、安藤は巨人に決まってますよ』と言うわけです。僕は『そんなことないやろ』と言って、ちゃんと調べてもらったら、じつはまったく決まってなかった」

 血の入れ替えとドラフト戦略、さらに金本知憲伊良部秀輝の加入が功を奏した03年、阪神は18年ぶりのリーグ優勝を成し遂げる。さらに同年のドラフトでは早稲田大・鳥谷敬の獲得に成功したが、この時は黒田の球歴に深く絡んだひとりの野球人、岡田悦哉が活躍した。

黒田の母校・姫路南高監督の安藤邦夫にとって、岡田は明治大時代の後輩にあたる。ゆえに黒田が高校時代から知っている岡田は、根本とも旧知の仲。プロ経験はないがアマ球界に広く顔が利き、根本は広島監督時代に二軍コーチに招聘し、西武監督時代にも二軍監督を任せていた。また、明治大出身の星野が中日監督だった時には二軍監督、スカウトを務めている。

「岡田さんは僕が西武に入るきっかけにもなった人ですけど、星野さんが阪神に呼んで、非常勤のスカウトをやってもらったんです。東伏見(東京・西東京市)にある早稲田のグラウンドに近い吉祥寺に住んでいたから、よく鳥谷を見に行っていました。しかも鳥谷の出身校、聖望学園の監督も岡田さんに世話になっていた。これはひょっとしたら可能性あるなと」

 それだけの人脈を持つ岡田は、一部の記者に"ミニ根本"と称されるほど顔が広かった。黒田も相当の人脈があればこそ、編成トップとして結果を残せたはずだが、それはどのようにして広がっていくものなのか。

「裏ですぐ電話できる人を探さないとあかんね。表で会ってたらすぐマスコミにバレてしまいますから。僕は各球団、とくにパ・リーグの人はほとんど知っていたから、すぐ電話できましたね。それと、やっぱり簡単にしゃべる人はあかんわね。実際、根本さんも、しゃべるヤツなのかどうか、新聞記者から球団内部の人間までよく見て、よく知ってましたよ」

 編成としては顔の広さも重要だが、球界における本当の人脈とは、いかに口が堅い人とのつながりを多く持てるか、そこに尽きるのだろう。また、一方で黒田は、編成職の枠を飛び越えた仕事もこなしていた。西武時代に見ていた根本の行動と自らの経験を生かし、阪神の一軍キャンプ地を高知・安芸から移転させるべく、球団に提言していたという。

「根本さんはよく、通訳の葛谷晨一さんと一緒にアメリカに行っていました。葛谷さんは外国人選手の獲得で頼りにされていた人ですけど、じつは、根本さんは選手を見に行ってたんじゃない。キャンプ地を見に行っていたんです。だから、西武が春野でキャンプをやっている頃から、宮崎に新しいキャンプ地を造ることを考えていた。ダイエーだけじゃないんですよ」

現在のソフトバンクの宮崎キャンプは、根本がダイエー時代に計画したもので、一軍、二軍が同じ敷地内で練習できるスタイル。アメリカでの視察を生かしているわけだが、同じスタイルのキャンプ地をすでに西武時代に構想していたという。実現はしなかったものの、根本は春野キャンプを改修している。一任されたのが、バッテリーコーチに就任した当時の黒田だった。

「根本さんから『西武建設の担当者と一緒に行って、指示してこい』と言われて行きました。それで球場の横にサブグラウンドを造って、ブルペンを造った。この時の経験があったから、阪神でキャンプ地のことを言わせてもらったんです。

 そしたら星野さんから『沖縄に行ってこい。どこかいいところあるか、球場を探してこい』と言われまして。2002年2月のキャンプ中、高知と沖縄を何度か往復して、今の宜野座を探し当てました。日本ハムの二軍がキャンプをしていた場所で、いろいろと交渉して、球場を改修したり、ブルペンを改築したりしたんですね」

 宜野座での一軍キャンプが実現したのが03年。それから10年まで8年間、黒田が編成部長を務めたなか、チームは2度のリーグ優勝を果たし、Bクラスに下降したのは09年だけだった。そして、年齢が60代半ばに差しかかった11年からシニアアドバイザーになると、おもな仕事は監督の相談相手になった。

 ところが2年目、12年シーズンの終盤、黒田の身に異変というべき事態が起きる。球団社長より、翌13年からのヘッドコーチ就任を要請されたのだ。長年、編成部長を務めてきた野球人が現場に復帰することは極めて稀だった。

「僕はもうコーチなんかする気なかったんですよ。それが社長に言われて......。『編成部長がやるもんちゃいまっせ』って言ったんですけど、当時の和田(豊)監督にも頼まれたので、じゃあパイプ役になりゃええかなと。じつは根本さんも編成やってから監督をやったんですよね」

根本は西武監督退任後、編成トップとなって11年間、現場を離れた。にもかかわらず、ダイエーでは2年間、監督を務めた。黒田はその転身を想起し、監督とチームのために一生懸命、働こうと決意。バッテリー中心に助言していったなか、今や球界を代表する捕手となった梅野隆太郎も指導している。ただ球団社長との約束で、2年で退くことを決めていた。

「根本さんと僕の人生、なんか似てるなと思いましたよ。ノムさんが監督の時に2年間、コーチをやって、『編成やるか?』という話が来ましたからね」

 阪神でのヘッドコーチ1年目の13年、チームは前年5位から2位に浮上。14年も2位になると、クライマックスシリーズで巨人を倒して日本シリーズ出場を果たした。好結果で引き留められそうになるも、約束どおり退任。同年限りで退団した黒田は、再びネット裏から野球を見る人生を続けている。あらためて、根本陸夫とはどんな野球人だったのか。

「勝つためには選手を集めないといけない。そのために必要なのは人集めができる人。そのうえで、指導者として厳しい監督、うまく戦える監督を探してきたのでしょうね。勝つためにはどうするかを考え続けた野球人だった。僕はそう思いますね」

つづく

(=敬称略)
高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki

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