タツノ、結局どうなった?

タツノは、プリンスホテルに入った。3年後の西武入だと思われていた。しかし、その時に西武に入団したのは"オリエンタルエクスプレス"郭泰源だった。タツノの名前は、いつの間にか挙がらなくなった。

大学時代の江川と比べてはダメだ。江川は大学に入って、力の入れ所を変えたのだ。打者が振らない初速150キロではなく、大したコトないと振る初速135キロ、ホームプレート付近の伸びを重視するようになった。

タツノ、メジャーに行ったのネ。ただ、メジャー昇格は果たせなかったのか。

確かに、江川でも高卒で阪急に入団してたら、足立や山田や山口らと伝説の投手陣がデキたのではない?阪急日本一も、もっと早かったろうし。ただ、江川の「135キロでも、打者のバットの上を通るストレート」は見れなかったかも。

 

 

 

 

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江川卓の価値を下げた」と言わしめ、NPB入りも噂された日系人左腕タツノの伝説〈dot.〉
10/2(土) 18:00 Yahoo!ニュース
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大学時代にデレク・タツノと投げ合った江川卓氏 (c)朝日新聞社
 1970年代のドラフトの超目玉といえば、真っ先に江川卓の名前を挙げる野球ファンも多いはずだ。

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 作新学院時代は、公式戦でノーヒットノーラン9回、完全試合2回を記録するなど、“怪物”の名をほしいままにし、法大でも史上2位の通算47勝。そして、ドラフト1位で指名されること計3度。1978年の“空白の1日”事件を経て、小林繁との三角トレードで意中の巨人に入団するまでの一連の騒動は、社会現象にもなった。

 だが、そんな“50年に一人”の逸材の「価値を下げる」とまで言わしめた“伝説の左腕”が、同時期に存在したことを覚えている人は、どれだけいるだろうか?

 男の名は、デレク・タツノ。広島県にルーツを持つハワイ生まれの日系3世は、5歳のときから野球に親しみ、アエオア高時代にレッズの6位指名を受けたが、ハワイ大に進学。日本で一躍その名を高めたのが、1年生ながら地元・米国チームのエースとして出場した77年の日米大学野球だった。

 第1戦で当時法大4年だった江川との“夢の対決”が実現すると、タツノはスリークォーターからの快速球と落差の大きいカーブを武器に、石毛宏典(駒大)、原辰徳東海大)ら強打者が並ぶ日本打線を6回まで被安打4、奪三振10の自責点ゼロに抑えて逆転勝利に貢献。さらに第4戦では、被安打4、奪三振12、自責点ゼロの完投勝利を挙げ、日本チームを率いる駒大・太田誠監督を「フォームが大きくダイナミック。これが1年生投手か。末が恐ろしい」と脱帽させた。この大会でタツノは最優秀投手に選ばれ、“江川に一度も負けなかった男”として注目を集めた。

 翌78年、今度は日本で開催された日米大学野球で、“タツノ旋風”が吹き荒れる。

 第2戦に先発したタツノは、岡田彰布早大)ら中軸を3者連続三振に切って取り、5安打、9奪三振で三塁も踏ませず完封。日本ハムのスピードガンで当時の江川より4キロ速いMAX146キロをマークしたことから、三沢今朝治スカウトは「江川より上となれば、日本なら1億円の声も出るでしょうね」と算盤をはじいた。

 在京スカウトの一人も「すぐにでも15勝は計算できる」と太鼓判を押し、「(ドラフト浪人中の)江川に8千万や1億の値段をつけるのがバカらしくなった」の声も出るなど、海の向こうからやってきた“金の卵”は、江川の価値をも下落させた。

 だが、日米の両コミッショナー間には「相手国の球団がドラフト指名した選手には手を出さない」という紳士協定があり、米ドラフトで翌年の3年生終了時から指名対象になるタツノが日本でプレーするのは、帰化でもしない限り、ほとんど不可能に思われた。

 そんな水面下の“綱引き”をよそに、翌79年7月5日、社会人のプリンスホテルタツノと電撃契約をかわし、世間をあっと言わせた。

 大学3年間で通算40勝を挙げ、3年連続全米学生奪三振王に輝いたタツノは、同年6月の米ドラフトでパドレスに2位指名されたが、「将来のことを考えて」プリンス入社を決意。「一生プリンスにお世話になるつもり。プロ入りの気持ちはありません」と語った。

 一説では、プリンスはパドレスの8万ドル(当時のレートで約1600万円)を上回る契約金6000万円を提示したと囁かれ、将来はマウイ島に建設中の系列ホテルの支配人のポストも用意していたといわれる。

 前記の好条件に加えて、178センチ、79キロと米国人としては小柄なタツノは、スタミナに不安を感じ、米球界で日系人が冷たい目で見られていることなども考慮して、高校時代から抱いていた祖国・日本でプレーする夢を実現する道を選んだようだ。

 当然のように「将来は系列球団の西武入りか?」の憶測も流れたが、今にして思えば、この入団会見が、タツノの野球人生で“最後の華”とも言うべきものだった。

 翌80年1月に選手登録されたタツノは、厳寒期の練習についていけず、3月の社会人野球東京大会、松下電器戦でのデビュー登板も、四球絡みで1回を1失点と本調子にほど遠かった。

 その後も練習方法や登板間隔など日本式の野球になじめず、2年間で通算5勝3敗。ラストシーズンの81年は肩、肘の故障でわずか2試合2イニングの登板に終わり、秋に帰国した。

 そして、翌82年1月の米ドラフトでブリュワーズから1位指名され入団。80年1月のホワイトソックス2位以来、通算4度目の指名だったが、前年6月のドラフトで逸材のほとんどが指名されたあとの“冬のドラフト”で指名順25番目の1位は、かなり微妙な評価だった。

「このことから考えても、タツノ投手の未来にはイバラの道が待っているといえるだろう」(週刊ベースボール82年2月8日号)の予測は不幸にも的中し、1Aからスタートしたタツノは、1年目に2Aエルパソで7勝したものの、防御率6.42と制球難を克服できず、翌83年に解雇。86年にパイレーツ傘下3Aのハワイ・アイランダーズに入団し、再起をかけたが、2年間で3勝5敗、防御率6.16に終わり、メジャー昇格をはたせぬまま引退……。

 かつてタツノとともにスカウトの熱い視線を二分した江川も、同じ87年限りでユニホームを脱いでいることに不思議な因縁を感じさせられる。(文・久保田龍雄)

●プロフィール
久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍プロ野球B級ニュース事件簿2020」(野球文明叢書)。

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