宇徳敬子、幸せなのかな。

宇徳敬子と村上遥と渡邉真美で、Mi-Keだったハズ。

夜のヒットスタジオだと思ったが、BBクイーンズシスターズとして、バックコーラスして、次に出た時にはMi-Keになってた。

Mi-Keとしても、宇徳敬子としても、ZAINオールで長嶋茂雄と「果てしない夢を」歌ったりもした。名探偵コナンのOP/ED歌ったりもした。売名スキャンダルもなく、好感持てるヒトだと思ってる。

この画像、今の宇徳敬子?結構、ポッチャリした?昔は、ドラマ「ナースステーション」のOPで想い出の九十九里浜を歌ってた頃が女子大生って言ってたから、年齢未公開でもアラフィフと推定する。このヒト、結婚してるのかな?子供は?どんな家庭?

見始めた時期も、ZARD坂井泉水と似た時期だ。坂井泉水が自殺の疑いある死に方をしただけに、生きてるヒトは幸せであって欲しい。まあ、愛内里菜みたく、W不倫の末に略奪再婚したりしたヒトもいたけど。

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愛車の履歴書──Vol3.シンガーソングライター・宇徳敬子さん(前編)
2021/11/06 21:30 GQ JAPAN10

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気になる人の愛車などに隠された知られざるエピソードとは? 第3回目の前編では、「B.B.クィーンズ」や「Mi-Ke」のメンバーを経て、現在はソロで活動するシンガーソングライター・宇徳敬子さんが、当時の音楽シーンを話す。

想い出のフィガロ、想い出の九十九里浜

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「まさにこのカラーリングのフィガロに乗っていたんですよ!」

シンガーソングライターの宇徳敬子さんは、約20年ぶりに対面した元愛車に目を輝かせる。免許取得後に買ったはじめての愛車が日産「フィガロ」で、ボディカラーは取材車とおなじエメラルド×ホワイトの2トーンだったという。

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「当時、所属していた事務所(スターダストプロモーション)が所有していたフィガロ。詳しい経緯はわからないのですが、事務所が購入権の抽選に当たったので、そこで初めてフィガロの存在を知り、可愛いと思っていました」

フィガロは1991年に登場した4人乗りの2ドア・オープンだ。「Be-1」(1987年)、「パオ」(1989年)など日産のパイクカー・シリーズの掉尾(ちょうび)を飾った。

初代「マーチ」をもとに、内外装をレトロ調に仕立てたのが特徴だった。当初は8000台限定だったが、反響が大きかったため、2万台まで購入枠を拡大している。それでも、購入希望者が殺到したため、抽選で販売された。

『おどるポンポコリン』の大ヒットは予想外!?

宇徳さんはデビュー前、ごくごく普通の短大生だった。

「短大時代に保育士と幼稚園教諭の資格を取得して、地元(鹿児島県)に戻り、ライセンスを活かして創意工夫した幼児教育が出来たらいいなと考えていました」

そんな宇徳さんの人生が大きく変わったのは、短大2年生の夏休みに東京へ遊びに行ったときだ。

「生まれて初めて原宿でショッピングを楽しんでいたら、いくつかの芸能プロダクションの方から声をかけられて……ある事務所は、泊まっていた横浜の親戚の家までついてきてました(笑)」

声をかけた1社であるスターダストプロモーション社が、熱心に宇徳さんを説得し、所属することに。当時、事務所の方針から、芸能ないしはモデルの選択肢で、オーディションで受からないと仕事がないモデルを選んだ。

三軒茶屋ワンルームで東京暮らしはスタートしました。都内は便利なので、電車でどこへでも行けるのですが、でも、いつか免許を取って自分の車があったら素敵かもという憧れはありました」

モデルの活動を始めてすぐ、全日空グループの「エアーニッポン」のキャンペーンモデルに選ばれた。当時、多くのモデルが憧れたというコカ・コーラのテレビCMにも出演した。

「モデル経験が一切なかったので、はじめはホントに大変でした。コカ・コーラのテレビCMのオーディションは、当時モデルさんの中で、誰もが憧れるCMだったので、受かった事だけでも大興奮でした! 撮影では、ウェディングドレスで踊るというダンス編だったのですが、プレッシャーから、なかなか自然な笑顔がカメラの前では出せなかったんです。監督さんから『カメラがまわっていないときの表情のほうがイイね(苦笑)』と、言われるぐらい(笑)」

雑誌『CanCam』(小学館)のモデルに選ばれた直後、オーディションで、「B.B.クィーンズ」のメンバーに選ばれた。音楽制作会社・ビーインググループ創始者である長戸大幸氏がプロデュースした、8人組グループだ。

「事務所の社長から『歌のオーディションを受けてみない?』と、連絡をいただき受けたのが、B.B.クィーンズのオーディションでした。高橋真梨子さんの『桃色吐息』と中森明菜さんの『AL-MAUJ』の2曲を唄い、合格しました」

1990年4月、B.B.クィーンズは、『おどるポンポコリン』でデビュー。フジテレビ系テレビアニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマだった。

関係者は『おどるポンポコリン』が、ここまで社会現象となるような大ヒットになるとは思ってなかった。だから、オリコンシングルチャートでベスト10入りしたときは皆が驚いたという。

「もともとB.B.クィーンズは“覆面バンド”だったので、テレビやラジオに出演する予定はなかったと思います。振り付けもなければ衣装もなかったんです(笑)。ヒットしたことで『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ系)へのTV出演が決まって、センセーショナルな展開となっていきました」

『おどるポンポコリン』は、幅広い世代に親しまれ大ヒットし、1990年のオリコン年間販売枚数で第1位を獲得。同年の賞レースでは、第32回日本レコード大賞のポップス・ロック部門大賞をはじめ、第19回FNS歌謡祭のグランプリや第23回日本有線大賞の有線音楽特別大衆賞などを受賞し、その年の第41回NHK紅白歌合戦に出場を果たした。

当時はTV出演、レコーディングの日々でライヴ活動は一切なかったものの、常に地元・鹿児島への思いは深く、時を経て、ソロアーティストとして念願の鹿児島でのライヴも実現した。

「鹿児島では父が大好きだった白のトヨタカローラ』に乗って、いろいろな場所へドライブしましたね。私がドライブに興味を持ったきっかけは父の影響かもしれません」

Mi-Keの由来

B.B.クィーンズの活動と並行し、1991年には3人組グループ「Mi-Ke」のメインボーカルとしてデビューが決まった。

Mi-Keの名前の由来は三毛猫の“三毛(ミケ)”からですが、きっかけはテレビアニメの『サザエさん』に出ている『タマ』という猫がいて、“猫”つながりで『サザエさんがタマなら、ちびまる子ちゃんの主題歌を唄った君たちは三毛猫の“三毛(ミケ)”だ』とおっしゃって……そのとき、ちょうど『たま』という4人組のバンドもヒットしていたので、『三毛(ミケ)でいこう!』と、なったように記憶しています。個人的には、猫も好きだし可愛いネーミングが嬉しかったです。実は……私の実家でも三毛猫を飼っていました。たまたまという偶然ではなく、必然という不思議なご縁を感じています」

彼女らが唄ったのは、1960年代のグループ・サウンズのヒット曲を意識した、ユニークな楽曲だった。デビュー曲『想い出の九十九里浜』の歌詞には、グループ・サウンズの曲名が多数散りばめられていた。

「『想い出の九十九里浜』の曲を聴いた時、なんだか懐かしいレトロなサウンドで面白いなと思いました」と、宇徳さんは笑う。

『想い出の九十九里浜』はヒット。1991年の第33回日本レコード大賞のポップス・ロック部門最優秀新人賞を受賞し、その年の紅白歌合戦にも出場した。

「前年の1990年に、私がメンバーのひとりだったB.B.クィーンズの『おどるポンポコリン』が“日本レコード大賞”の大賞を受賞したので、次の年に最優秀新人賞を受賞できたことも驚きでした。大賞を受賞したあとに、新人賞を受賞したケースは前例がなかったみたいです」

当時、Mi-Keの音楽制作を手がけたビーインググループには、B’zZARD大黒摩季などがいた。いずれもミリオンセラーのヒット曲を連発し、巷では“ビーイング・ブーム”とまで言われたほど。そうしたなかにあって、Mi-Keは、ある意味、画期的なグループだったという。ほかのアーティストがメディアにほぼ出演しないなか、Mi-Keだけは積極的だった。

Mi-Keというグループはワンクール(3カ月)に1枚のCDをリリースしていた事もあり、TV出演や賞レースにも参加しました。逸見政孝さんが司会だった『ザッツ・宴会テイメント』(日本テレビ系)には“レギュラー・ゲスト”という不思議な肩書きで毎回出ていました(笑)。でも、いくつものオファーがあったテレビCMだけは、プロデューサーの許可が出なくて……Mi-Keは、プロデューサーの中では、『ギリギリアーティストというポジションは譲れない』という思いがあったみたいです」

結局、Mi-Ke活動中に出演したテレビCMは、雪印の1本のみ。このCMで起用されたMi-Keが唄うイメージソング『サーフィン・JAPAN』のプロモーション・ビデオは若き日の岩井俊二氏が監督を務めた。

宇徳さんは、B.B.クィーンズMi-Keの活動にくわえ、さまざまなアーティストのバックコーラスやデモテープの制作にも携わっていた。

ミリオンセラーを記録した、中山美穂WANDSの『世界中の誰よりきっと』(1992年・183万枚)やB’zの『LOVE PHANTOM』(1995年・186万枚)など、コーラスとして参加した曲は多岐にわたる。Mi-Keに対抗して結成された日本テレビの女性アナウンサー(永井美奈子さん・藪本雅子さん・米森麻美さん)のグループ「DORA」のデモテープ制作にも携わったそうだ。

ちなみにMi-Keは、1993年にリリースされた『Please Please Me, LOVE』を最後に、活動休止中だ。

そんな宇徳さんが免許を取得したきっかけや愛車とのエピソードは後編に綴る。

【愛車の履歴書 バックナンバー】
Vol1.俳優・市毛良枝さん 前編/後編
Vol2.俳優・野村周平さん 前編/後編

【プロフィール】シンガーソングライター・宇徳敬子(うとくけいこ)
鹿児島県生まれ。1990年に国民的大ヒット『おどるポンポコリン』のB.B.クィーンズのメンバーとしてデビュー。翌年、ユニットMi-Keを結成『想い出の九十九里浜』でメインボーカルとしてデビュー。NHK紅白歌合戦3年連続出場。1993年に『あなたの夢の中 そっと忍び込みたい』でソロデビューを果たし、1st.アルバム『砂時計』はオリコンチャート1位となる。2021年12月18日には東京・渋谷でXmas Liveを開催する。また、ラジオパーソナリティーとして、ラジオ日本「宇徳敬子の♡ハッピー愛ランド♡」レギュラーコーナーを担当。現在、毎週土曜日はツイキャスradio配信中。
https://berock.jp/

【衣装】
ジャケット ¥53,900(MICHAEL Michael Kors/マイケル・コース ジャパン)
トップ、スカート、ベルト(すべてスタイリスト私物)
ブーツ ¥130,900(Sergio Rossi/セルジオ ロッシ カスタマーサービス)
ハット ¥27,500、サングラス ¥42,200 (ともにNanushka /ヒラオインク)
イアリング ¥22,000(IOSSELLIANI/アッシュ・ペー・フランス)
チェーンネックレス ¥39,600、フリンジネックレス ¥39,600(ともにDELPHINE CHARLOTTE PARMENTIER/アッシュ・ペー・フランス)

【衣装問い合わせ先】
マイケル・コース ジャパン 03-5772-4611
セルジオ ロッシ カスタマーサービス 0570-016600
ヒラオインク 03-5771-8809
アッシュ・ペー・フランス 03-5778-2022

文・稲垣邦康(GQ) 写真・安井宏充(Weekend.) ヘア&メイク・奈良裕也 スタイリスト・間山雄紀

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