そもそも、星野記念館やる価値あったか?

そもそも、星野記念館って必要か?星野は名投手か?同じ岡山なら、平松じゃないの?別に、200勝してもいない。

挙げ句、中日監督で落合獲って優勝したけど、日本一はない。中日時代、立花トレーナーだっけ?痛み止めを使いたがるトレーナーで、明大島岡監督張りの「何とかせい!」、動けないとなると痛み止めを服用させ、ムリヤリ起用した。与田や森田や今中や投手落合、愛甲は暴露本出し、星野黒人脈のヤクザから狙われて一時姿を消した。中日が星野と縁を切ったのも、ホントは事実を掴んでたからでしょ?

何故か阪神監督になり、またカネ遣わせてカネモトらを獲り優勝したけど、日本シリーズではダメだった。次は日本代表監督と栄冠を土産に巨人監督就任を狙ったが、北京五輪でのダルビッシュ有や荒木殴打、相手チーム調査杜撰や中日阪神選手荒使いで、悪評しかなかった。第2回WBCでリベンジを狙ったが、イチローに拒否された。

長く監督やった割に、カネ遣わせた割にリーグ優勝止まりなのは、原辰徳と変わりない。ソコで豊田会長らを仲介に三木谷オーナーに押し込み、楽天監督に。無敗のマー君と則本らのおかげで、リーグ優勝。日本シリーズ原辰徳との愚将対決!戦力は圧倒的に巨人だった。マー君には2戦菅野をぶつけ1つ土をつけ、勝てたハズの原辰徳、村田-坂本の連携エラーで1つ落とし、美馬に稼がせてしまった。星野の栄冠というより、いい駒同士で将棋を打ち合った結果、原の取り零しだった。

名投手でもなく、名将でもなく、明大島岡監督張りに声の大きな乱暴おじさんでしかない。

長嶋や落合には選手時代の栄光があった。星野に作るくらいなら、西本幸雄上田利治川上哲治森昌彦で記念館作るべきなのだ。

ネームバリュー的に、元々ムリだ。

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なぜ岡山倉敷市星野仙一記念館は閉館したのか…所蔵品がファンに伝え続けたこと…最後の1日を追う
12/1(水) 6:36 Yahoo!ニュース
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岡山倉敷市にあった星野仙一記念館が閉館。13年8か月の歴史に幕を閉じ
 これも時代の移り変わりか。中日の現役時代に燃える男で知られ、監督としては中日で2度、阪神で一度、リーグ制覇を果たし、楽天を初の日本一に導いた名将、星野仙一氏のゆかりの品々を展示してきた岡山県倉敷市の「星野仙一記念館」が11月30日、閉館となった。最終日には、200人ものファンが訪れて、閉館を惜しんだ。13年8か月続いた記念館はなぜ閉館したのか、そして記念館が伝え続けてきたものは何なのか。最後の1日を追いかけた。

星野仙一記念館」は、星野氏の生まれ故郷である倉敷の地に2008年3月に開館した。当時の星野氏は阪神のSDで、北京五輪に挑む日本代表監督だった年だ。倉敷市きっての観光地である「美観地区」のど真ん中。白壁の歴史的建築物と柳の並木が美しい同地区には、日本で最初の私設西洋美術館となった大原美術館もそびえている。デニムストリートの一番奥の建物の2階のワンフロアに作られた「星野記念館」は、決して広くはないが、星野氏が年少時代に母親に初めて買ってもらった貴重なグラブなどの野球道具、母校・倉敷商明治大学、プロ入りした中日の選手、監督時代、阪神北京五輪の日本代表、楽天の監督時代に着用した全ユニホームなどが所狭しと展示されている。各種の記念サインボール、沢村賞野球殿堂入りなどの記念レリーフ、著作本からレアな写真、玄関前の銅像などまで合わせると、実に1000点もの所蔵品が集められた。名前が「仙一」だからだろう。
 2018年1月に70歳で他界した「燃える男」「闘将」のファンにとっては、ここは聖地。開館からのべ50万人が来館したという。
 玄関前の案内看板には「誠に勝手ながら当記念館は11月30日を持ちまして閉館することとなりました。開館以来の多数のご愛顧、誠にありがとうございました」と告知されていた。
 最終日となったこの日は平日ながら多くのファンがかけつけ、関係者では倉敷商時代のOB、元監督、倉敷市の伊東香織市長らのVIPに加え、株式会社「星の企画」のスタッフ、元楽天監督で星野氏の教え子だった西武・平石打撃コーチの姿もあった。
 今回の閉館は、星野氏のかねてからの友人で長く運営に携わってきた館長の延原敏朗氏(80)が高齢で管理が難しくなったことから苦渋の決断となった。この日、記者会見を行った延原館長は神妙な表情で、「まずは全国の星野仙一ファンの皆様、そして多くの企業のご支援を頂き、本日まで開館できたことを心から感謝いたします」と挨拶し、「私も80歳を超え、1000点にも及ぶ展示品が不慮の事故にあった場合、守ってくれるのはどこか、と考えるようになりました。今年の5月に理事会を開き倉敷市に全部寄贈するのが一番いいと考え、市の方も快くお引き受けくださいました」と、閉館に至った経緯を説明した。

 
星野仙一記念館を開設し運営してきた延原館長(右)が倉敷市伊東市長から花束を贈られた。所蔵品は倉敷市に寄贈。管理、展示などを託すことになった
 閉館が発表されたのは10月中旬。延原館長は「(発表してからは)8226人の方がお見えになった。北は北海道から南は沖縄まで。沖縄の人は3日かけてしのんでくれました。見学時間30分のところを2、3時間も見てくれた。全国の人から愛されて…私も本当にやってよかったと思います」と振り返った。
 星野氏を恩師と慕う中日前監督の与田剛氏も、退任決定後、報告に訪れたという。
 13年前に星野記念館がオープンするきっかけとなったのは一枚のユニホームだった。
 延原館長が言う。
「この記念館を作るきっかけは2003年に阪神が優勝してユニホームをもらったことから始まった。お前の記念館を作るよ、とか箪笥の肥やしにするにはもったいないとか、最初は冗談から始まり決意したんですが…。作るからには星野のステータスを第一にする。だから(入場料金が)ワンコイン(500円)でも全国の皆さんに来ていただこうと(観光地の)美観地区に作ったんです」
 延原館長は星野氏と40年来の親交を持っていた。星野氏は、1997年1月31日早朝に夫人の扶沙子さんが天国に旅立つと、真っ先に延原館長に報告した。中日、阪神楽天の監督打診があった際には、必ずといっていいほど延原館長に「どうしたらいいんやろ」と相談するほどの間柄だった。  
 2005年には、巨人の次期監督候補として、当時阪神SDの立場にあった星野氏の名前が浮上。報道が過熱していたが、当時、延原館長は、「星野は絶対に受けない。受けるわけがない。わしが一番彼をよく知っとるから」と断言していた。星野氏は、その後、阪神残留会見を行った。
 星野記念館を開館した年に、北京五輪があり、星野ジャパンはメダルを逃した。星野バッシングも起きたが、乗り切り、昨年は、新型コロナ禍に見舞われたが、黒字経営を維持した。
「星野のブランド、持ち続けてきたプライドや精神を守り、それをより多くの方に知ってもらいたい」との強い気持ちが支えだったという。

「生前に彼は『閉館してくれ』とおっしゃってました。『自分が亡くなったときは必ずつぶれる』と…。でもそんなことはありませんでした。私はできる限り星野というビッグな人の名誉を傷つけないよう一生懸命にやってきた。惜しまれる中で閉館すれば悔いはない。星野はよく『ココは俺の応接間や』といってくれてました。今日の日を天国で見ていてくれているでしょう、『ようやった!』と言ってくれていると思います」
 星野記念館が、ここを訪れる人に伝えてきたものは何だったのか。
 この日、閉館をしのんで訪れたファンの中に家族で兵庫県西宮市から訪れた白野正仁さん(55)の姿があった。星野氏の阪神監督時代の背番号77のはっぴ姿。
「本当にさみしいです。元々、年に2、3回はここに来て生前の星野さんとも会い、声をかけてもらいました。星野さんはアメとムチというかその使い分けがうまく、熱いところが大好きでした。社会人としても見習うところはいっぱいあります」
 夫人の美貴さん(41)も「私たちの家族は命日の1月4日は毎年ここに来てるんです。リーダーとしてどうあるべきかの見本を見せてくれた方でした」という。
 2人は2018年に解散した星野氏の有力後援会「大仙会」のメンバーでもあり、星野氏の殿堂入りパーティーにも出席し、当時まだ身重だった美貴さんのおなかを見て星野氏は「オレの子やな」などよく冗談を言いながら励ましてくれたという。
 神奈川県から、日帰りの“弾丸ツアー”でやってきた会社員の森藤智さん(41)も同会メンバーの出身で「阪神を長い低迷から救った方ですから。弱いチームを何が何でも強くするというその情熱が素晴らしかった」と話した。
 記念館は星野氏そのものだった。“闘将”と呼ばれた星野氏の生き方や情熱に感動して、勇気をもらい、星野氏を愛し続けてきた人々は、このゆかりの場所を訪れることで、星野氏から伝えられ、学んだ熱いモノを再認識してきたのだ。
 記念館は閉館することになったが、その意思は継承される。今後、1000点もの所蔵品は倉敷市に寄贈され、その管理を託すことが決まった。
受け入れる伊東市長は、「(過去に)倉敷市のスポーツ大使を引き受けてくださるなど、文化的にも貢献は計り知れない。星野さんの人生の軌跡を市の貴重な宝物として何としても守らないといけない、散逸しないように、と思っていました。いつも『夢』という言葉を書いていただき我々、大人や子供も大きな力を得ました。今後もファンや市民の方に見に来てもらえるよう検討していきます」と公約した。
 故人となって記念館が消えようとも星野氏が残してくれた偉業の数々は色あせるわけがない。今後、大事な品々をどう活用していくかに注目が集まるが、考えてみればもともと転んでもタダでは起きないのが星野流。Bクラスに低迷すると必ず翌年にやり返してきた“燃える男”である。
「閉館はさみしいです。悔しいです。でも思いを残すことはありません。貴重な記念物が永久保存されるのはかけがえのない思いです。倉敷市の皆さんでこれ以上に大きく復活していただくことを切にお願いします」  
 延原館長は、涙を浮かべながら頭を下げた。
 星野記念館の最後の1日は、復活へのスタートの日だったのかもしれない。
(文責・岩崎正範/スポーツライター

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