BMW M1、何故ランボルギーニに?

悲運?そんな言葉で片付けて良いのか?そもそも、何でランボルギーニにエンジン開発を委託したのか?

76年シルエットフォーミュラー、最後はポルシェに逆転されたが、終盤までリードしていた。マシンの戦闘力、ドライバー含めて、対抗できた。改善開発でも、十分77年以降も対抗できたハズ。

急ぎミドシップ開発して間に合わせようという発想は、ドイツ人らしからぬ安直さだったし、歴史的にもアテにならないイタリアのメーカーに任せたコトが拍車をかけた。

通常、直4や直6をキチンと作れる会社なら、V8やV12を作れる。また、ターボによる大馬力化の対応もデキた。自社で十分に開発デキる能力はあった。

元々、M1に対して、直4ターボや直6ターボ、V8やV8ターボのプランを持っていれば、問題なかったハズ。

アテにするべきでないイタリアをアテにしてしまって、自ら頓挫させた愚のレガシーだった。

 

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ランボルギーニに振り回された悲運のスーパーカーBMW M1とは
12/12(日) 18:09 Yahoo!ニュース
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ランボルギーニが開発したBMWミッドシップスーパーカー
 
ミッドシップスポーツを作りたいが、ノウハウがないBMWランボルギーニに協力を仰いだ。「これで安泰」と思いきや、これが波乱の幕開けだった。
 1970年代初頭、BMWはそのスポーツ性を最大のセールスポイントとすることを、プロダクションモデルの販売戦略の核としていた。そのためにもっとも有効な手段は、もちろんモータースポーツでの活躍ということになるのだが、当時、BMWがサーキットに投じていたスポーツカーは、3.0CSL、あるいはその排気量拡大版ともいえる3.5CSL系のモデルで、それらは最大のライバルであるポルシェ934/935に対して、残念ながら十分な対抗力を持つものではなかった。

【写真】BMW M1のリヤスタイリング!

 そこで考えられたのが、E26の開発コードを与えられた、対ポルシェを直接の目的としたミッドシップ・スポーツであり、それには後に現在にまで続く「M」の血統の始祖にあたる「M1」の車名が与えられた。

 実際にM1は、1978年秋に開催されたパリ・サロンで正式に発表されるが、それは当時のグループ4の認定を目的としたホモロゲーションモデルだった。BMWは、ここから1980年の末までに800台のM1を生産し、途中でホモロゲーションを得ることを計画していたのだが、それはある事情によって大きな遅れを生じてしまうことになる。

 BMWにとってM1のようなミッドシップスーパースポーツは、これまでほとんど未知の分野だった。そこでその開発と生産を他社に委託する計画が新たに立ち上がり、その相手先として選ばれたのが、かのランボルギーニだったのである。当時のランボルギーニといえば、すでに創業者のフェルッチオ・ランボルギーニはその経営から撤退し、新たなオーナー、ジョルジョ・アンリ・ロセッティの支配下に置かれていた時代。カウンタックやウラッコまでを生み出した天才的エンジニアのパオロ・スタンツァーニもランボルギーニを去り、さらにジャン・パオロ・ダラーラはそれ以前にデ・トマソへと転職、その後はランチア道路建設機械の製造会社に籍を置いていた。

 ロセッティは新たなチーフ・エンジニアとしてフランコ・バラルディーニを指名し、さらにコンサルタントとしてダラーラを起用。一方ボディデザインはジョルジョト・ジウジアーロ率いるイタルデザインへと委託。M1の開発はこうした体制で始まったのである。M1が現在でも非常に魅力的なアピアランスとパフォーマンスを感じさせるモデルであるのも、この事情を知れば理解できよう。

 だが、この頃のランボルギーニには、同時にアメリカの軍用車メーカー、MTI(モビリティ・テクノロジー・インターナショナル)がコンセプトを決定した不整地用の4輪駆動車を設計、生産するというビジネスの打診もあった。しかしながら、この計画は軍から正式採用されることはなく、ランボルギーニの経営はここで一気に窮地に追い込まれることになってしまう。その影響が、今度はBMWのM1プロジェクトにも波及してしまったのだ。

生産の遅れにより活躍の場を失ったBMW M1
 
3.5リッター仕様の直列6気筒DOHC24バルブエンジンは当時としてはかなりパワフルな272馬力を発生。しかし、このパワーがレース現場などで猛威を振るうことはあまりなかった。
 そのような中でも、M1の基本設計は着実にその歩みを進めていった。高剛性な鉄管スチールフレームのミッドには3.5リッター仕様の直列6気筒DOHC24バルブエンジンを搭載。これはもちろん3.0CSLのレーシングエンジンが基本で、圧縮比は9.0に、さらにクーゲルフィッシャー製の機械式フューエルインジェクションの装備などによって、ロード仕様でも272馬力の最高出力が得られていた。

 実際に限られた舞台ではあったものの、ル・マン24時間などのレース仕様車では、500馬力級の最高出力が得られていたという。サスペンションは前後ともにダブルウイッシュボーン。M1はサーキットの新たなヒーローになるはずだった。

 だが、すでに企業としては経営破綻の状態に近かったランボルギーニでは、このM1の開発のみならず、生産も含めたBMWのリクエストに応えることはできなかった。BMWは、一時ランボルギーニの買収も考えるが、従業員の組合や下請け業者はそれに反対。ランボルギーニは、このM1プロジェクトも手放すほかはなかったのだ。

 結局、M1の生産はイタルデザインの下請け工場でボディパネルの製作を行ったあと、シャシーコンポーネンツを装着、その後ドイツのバウアー社でBMWモータースポーツ社から送られてくるエンジンなどのメカニカル・コンポーネンツを搭載し、再度それをBMWに送り返し最終検査を受けるという複雑なプロセスを強いられることになってしまう。1978年のパリサロンで発表されたM1は、こうして誕生したモデルだった。

 1980年末までに800台をセールスするという計画も、高価だった影響もあり、実際にはその半分程度(450台前後が一般的に語られる数字とされる)にとどまり、グループ4のホモロゲートが完了したのは、皮肉にもFIAがそれまでのグループ分けを全廃し、グループA/B/Cに再編した1981年のことだった。行き場を失ったM1は、ワンメークレースのプロカー・アソシエーション・シリーズなど、ごく限られた舞台でのみ、その雄姿を披露するにとどまったのである。

 とはいえこのM1の苦難のヒストリーは、決してM1の価値を貶めるものではない。コレクターズ・カーとしての大きな価値は、これからも一切変わることはないだろう。
山崎元

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