M30型BMW M3、最高のバランス!

個人的に、1気筒当たり500ccを超えるエンジンは好きではない。そして、BMWはF2やF3の直列4気筒王貞治らが乗っていた635など直列6気筒のイメージで、最初の320に使われたF2用2リッター直列4気筒のマーチBMWのエンジンなどは大好きだった。

このM3、3.5リッター直列6気筒から2気筒分カットしたモノか?ベンツの2.3や2.5やポルシェ968の3リッター直列4気筒よりも、レーシーに感じた。

ACシュニッツアーはこのM3以外に、E36車体に6リッターV型12気筒積んだシュニッツアーBMWも走らせてなかった?それ以前は、ダルマセリカをシルエットフォーミュラーに仕立てたイメージしかなかったが。

 

 

 

 

 

 

 

 

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BMW M3(E30型)』ディビジョン2を変えたクラスの最適解車【忘れがたき銘車たち】
12/22(水) 9:54 Yahoo!ニュース
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1987年、BMW M3として初めてJTCへと参戦したオートテック車(写真は1988年)。1993年までに4度のタイトルを獲得している。
 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、E30型のBMW M3です。

【写真】1987年、WTCの1戦となったインターテック戦を走ったシュニッツァーのBMW M3。40号車はタイトルを決めたラバーリアらがドライブ。

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 BMWのラインアップの再編によって、市販車においてはBMW M3といえば4ドアスポーティセダンというイメージが定着している。しかし、Racing onやオートスポーツweb読者のなかには、BMW M3と聞くと“2ドアモデル”を思い浮かべる方も多いのではないだろうか。

 BMW M3の歴代モデルのなかで、もっともモータースポーツのイメージが強く、日本のレースシーンにおいて強い印象を残したモデルといえば、BMW M3の初代、E30型のBMW M3(以下、M3)だろう。初代M3の市販車が登場したのは1985年。当初よりツーリングカーレースへの参戦を意識したスペックを盛り込んだモデルとしてデビューした。

 初代M3の最大の特徴はエンジンで、BMW伝統の直列6気筒ではなく、BMW M1に搭載された6気筒エンジンをベースに2気筒減らし、4気筒に仕立て直した2.3リッターのS14型を採用した。この“あえての4気筒化”は、クランクシャフトの剛性が高くでき、高回転化が可能だったためという理由があったとされる。

 そんなM3がレースに投入されたのは、市販車の登場から2年後の1987年のことだった。この年、1年だけ世界タイトルの冠がついた世界ツーリングカー選手権WTC)、そしてドイツツーリングカー選手権DTM)への参戦を開始すると、WTCでは最大のライバルであったフォード・シエラと鎬を削り、ロベルト・ラバーリアがドライバーズタイトルを獲得。そして、DTMでも未勝利ながらエリック・バン・デ・ポールが王者となった。

 WTCでライバルとなったシエラは、2.0リッターターボであったため、M3にとってシエラは本来クラス上のマシンになるのだが、それと同等以上の戦いを見せるほどのポテンシャルを初年度から発揮した。

 さらにM3は、WTCと同じくグループA規定で競われていた全日本ツーリングカー選手権(JTC)に1987年の第4戦SUGOよりデビュー。欧州での登場と同年に日本のレースシーンへも姿をあらわした。

 日本に持ち込んだのは、JTCをBMW635CSiで戦っていたオートビューレック。BMWの有力プライベートチームとして1988年以降に予定されていたグループA仕様の一般販売に先行して導入した。

 本来、オートビューレックにはWTCなどでシリーズ前半を戦ったマシンがあてがわれる予定だった。しかし、予定していたマシンがスパ24時間レースでクラッシュしたことにより、未使用のワークス車を手に入れることに成功。デビューレースとなる第4戦SUGOへと挑んだ。

 M3は、排気量1601~2500ccが対象のディビジョン2に属しての参戦となったが、クラス的には格上のニッサンスカイラインRSターボやミツビシ・スタリオンを蹴散らし、さらに同じくデビューレースであったMA70型のトヨタスープラ・ターボと同一周回の総合2位、ディビジョン2クラストップでフィニッシュ。日本でも欧州と同様の速さを見せつけた。

 この第4戦SUGOでの優勝後、オートビューレックのM3は世界戦の1戦となったインターTECを挟んで最終戦鈴鹿でも優勝。わずか3戦の参戦ながら2勝をマークして、ディビジョン2のタイトルを獲得した。

 M3の登場までJTCのディビジョン2というのは、スカイラインを初めとする日本車対外国車勢が争っていたディビジョン1、カローラ・レビン対ホンダ・シビックの熾烈な戦いが繰り広げられていたディビジョン3とは違い、プライベーターのエントリーが中心でなおかつ、競争の激化していないクラスだった。

 しかし、そんな状況がM3の登場、活躍により一変した。M3がより一般レーシングユーザーへと広まった1988年以降、日本車勢が姿を消し、外国車ではメルセデス・ベンツ190Eという参戦例もあったが、それもM3の力には及ばず。

 一挙ディビジョン2は、プライベーターの走らせるM3のワンメイククラス化し、M3同士によるバトルが毎戦繰り広げられるようになった。以降、この状況は1990年に『スポーツ・エボリューション』の登場によって、エンジンが2.5リッター化されるなどアップデートも受けながら維持。グループAによるJTCの終焉年、1993年までプライベーターたちのディビジョン2最適解マシンとして、M3はクラスを支え続けたのだった。


[オートスポーツweb ]

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