江夏豊、あの2年連続の修羅場と優勝請負。

江夏豊阪神の頃から急激に太り翳りが見えた頃、田淵の西武行きと同じく、阪神から南海にトレードされた。南海で、広島から移籍し医師免許を持つG・ポプキンスが江夏の異常を指摘し、試合を中断したコトもあった。抑えに転向したのも、この時期だった。太ってはいても、キチンと投げ込み、ランニングはしていた。

広島にトレードされ、勝ち試合は殆ど投げた。オーバースローをスリークオーターにチェンジし、高低内外緩急を操るスタイルに変わった。3点以上差があっても、7回から出た。あの近鉄との2年連続日本シリーズでは、吹石一恵の父親、吹石に何度もホームランを打たれ、最終戦最終回に2年連続無死満塁をゼロに切り抜けた。

ただ、北別府や山根や福士や金石や大野など、若手の完投能力ついた投手陣とソリが合わなくなり、日ハムにトレードされた。

日ハムに入ると、捕手や投手育成にも力を尽くした。具体的には大宮のリードと、工藤のアンダーハンド⇒サイドハンドへのチェンジ。実際、後期優勝、プレーオフに落合が台頭したロッテを破り、巨人との日本シリーズ後楽園決戦も実現した。ただ、翌年も後期優勝したが、工藤の負傷もあり、西武とのプレーオフに刺客太田卓司に打たれ、片平にレフト前バントを決められ、敗退した。

日ハムが大沢監督から植村監督に変わり、不満分子として、西武にトレードされた。広岡監督とソリが合わず、自由契約になった。

江夏はメジャーのキャンプに参加し、それなりの結果は残したが、年齢面もありメジャー枠に入れなかった。

 

 

 

 

 

 

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トレードで「よそ者だと思われても」両リーグ2チームで3年連続リーグ優勝に貢献した左腕は【プロ野球はみだし録】
1/18(火) 11:00 Yahoo!ニュース
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「優勝のために」の期待に応え
 
広島移籍2年目の79年、チームを日本一に導き胴上げ投手になった江夏
 3年連続でリーグ優勝を経験する選手は少ない。それもトレードで移籍した2チームで3年連続となると、グッと数が限られてくる。南海(現在のソフトバンク)で野村克也が監督を解任、退団に追い込まれたことで移籍を志願した左腕の江夏豊は、そんな選手の1人だった。

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 最初の移籍は阪神から南海への大型トレードだった。阪神のエースとしてV9巨人に牙をむいていた江夏は、追われるように南海へ。新天地でリリーバーとして再生した江夏が広島へ金銭トレードで移籍することになったのは1977年のオフだった。広島を率いていたのは、現役時代は南海で野村とチームメートとなったこともあった古葉竹識監督で、調整法を江夏に任せてくれたこともプラスに働く。2度目の移籍となる江夏は「よそ者だと思われても周りに媚を売るようなことはしない。グラウンドで結果を出せば周りの人間が自然に判断して受け入れてくれる」と自分のペースを守り、それでも衣笠祥雄らチームメートとも意気投合していった。

 移籍2年目の79年に広島はリーグ制覇。プロ1年目から奪三振王となった歴戦の左腕は、13年目にして初めて優勝を経験する。そのまま広島は初の日本一。近鉄との日本シリーズ第7戦(大阪)では“江夏の21球”と語り継がれる名場面もあった。翌80年も広島はリーグ連覇、2年連続で日本一に。このとき動いたのが日本ハム大沢啓二監督だ。

 
大沢監督[左]の下、日本ハム移籍1年目の81年も優勝に貢献
 大沢監督に「優勝のために」と言われてオフに高橋直樹との交換トレードで移籍した江夏は、その期待に応える。チームが日本ハムとなってから優勝のない日本ハム。当時のパ・リーグは前後期制で81年に日本ハムは後期を制すると、プレーオフではロッテを撃破、初のリーグ優勝に輝いている。引き続きリリーフエースとして貢献した江夏は広島での79年に続いて2度目のMVP。両リーグMVPはプロ野球で初めての快挙でもあった。

 翌82年には通算200勝にも到達した江夏だったが、その83年オフには退任する大沢監督から「お前もやめろ」と言われ、最終的にはトレードで西武へ。ここでは広岡達朗監督と衝突、退団となり、最後はメジャーに挑戦もかなわず、引退している。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
週刊ベースボール

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