フィギュアスケート界の課題?そんなコトより・・・

フィギュアスケート界の課題?まだ、このヒトは両親がスケーターだったりコーチだったから、必要なアドバイスも受けていたろう。

高難度化や低年齢化などを問題に挙げているが、安藤美姫が4回転デキたのは中京高の頃、太り出す前じゃなかった?浅田真央トリプルアクセルをミスなく跳べていたのは、ジュニアからシニアに上がりトリノ終わって1年くらいの間じゃなかった?

フィギュアスケート界の課題って、スポンサーに忖度して派遣選手を決めるスケ連の姿勢じゃないの?

浅田真央トリノ前、最年少でGPファイナルを制し、日本国民はトリノ五輪出場を期待した。数ヶ月不足はあれ、特例申請すればGPファイナル優勝者が認められる可能性は高く、最悪でも荒川静香村主章枝安藤美姫の誰かと交替すれば出られた。しかし、スケ連は3人それぞれのスポンサーから莫大なカネを搾り取っており、降ろすワケに行かなかった。だから、浅田真央サイドの口を封じるために、中京高校⇒大学エスカレーターを約束した。このトリノ五輪安藤美姫モロゾフの最初の子供を堕胎した後と言われ、サイテ~のデキだった。安藤美姫モロゾフの子供を2度堕胎して、3度目を言われて別れたと言われている。

コレは浅田真央、両親の生活すら狂わせた。16歳になる前にトリノに出ていたら、あっさり勝っていたろう。その後、3回の五輪への取り組みも変わったろう。

ホストクラブ経営の父親は、スポンサーイメージの問題とスケ連から言われ、母子から遠ざけられた。母親は浅田真央とグレた姉・舞の面倒を一身に背負わされ、寿命を縮めた。

そもそも、トリノ五輪ダメだった時点で、五輪に縁はないと、プロスケーターに転向すれば良かった。外人でもビールマンなど、トシ回り悪い選手は早く転向している。しかし、浅田真央は、スケ連のカネ集めの鵜としてそれから15年以上を過ごした。スポンサー側からも、出したカネがどう遣われたか、ちゃんと確認されれば良かった。スポンサーから出た莫大な額のカネは、スケ連役員ジジババの東京居住費や莫大な額の一等地スケ連事務所の運営費に化け、浅田真央らの選手も他の選手もコーチ含めそう変わりのない待遇でしかなかった。

ボクシング山根会長みたいなコトが、フィギュアスケートに於いてもあったのだ。

 

 

 

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元世界王者・佐藤有香さんが語る日本フィギュアスケート界の課題
1/30(日) 16:15 Yahoo!ニュース
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北京五輪を前に、佐藤有香さんに日本フィギュアスケートの未来について聞いた(撮影=吉成大輔)
 目前に迫った北京五輪で日本選手の活躍が期待されるフィギュアスケート。4回転などジャンプの「高難度化」が進んだことで、とくに女子では「低年齢化」が進んでいる。しかし歴史を振り返れば、日本人女子では2人目となる世界チャンピオンに輝いたのち、引退後はプロフィギュアスケーターとして、その滑りを進化し続けてきた人がいる。佐藤有香さん。演技者のみならず、解説者、コーチ、振付師、アイスショーのディレクターとして、国内外のフィギュアスケート界を様々な側面からけん引してきた。なぜ有香さんは長く滑り続けられるのか。北京五輪を前に『スケートと歩む人生』(KADOKAWA)を上梓した佐藤有香さんに、これまでの歩みとフィギュアスケートの未来について聞いた。

【写真】リンクに立つ元世界女王・佐藤有香さん。カタリナ・ビットやクリスティ・ヤマグチらと競演してきた

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滑っているときがいちばん満たされる
──オリンピックに2度出場し、世界チャンピオンに輝いたトップ選手として。25年間のプロスケーターとして。解説者、コーチ、振付師として。さまざまな形で活躍されていますので、ファンによって有香さん(と呼ばせていただきます)のイメージは異なるかもしれません。フィギュアスケーターの活躍の幅は広がっていますが、有香さんほど多岐にわたって、長く活躍されている人は少ないと思います。

佐藤:私がいちばん満たされるのは、自分が滑っているときです。それからアイスショーディレクションをしているとき。現場であくせく働いているときが、満たされているときなのかなと。ただ、子どもの頃からコーチという仕事を間近に見て育ちましたから(父・佐藤信夫コーチ、母・佐藤久美子コーチ)、コーチという仕事には自然に入っていけたと思います。

──現在はアメリカのデトロイトを拠点にコーチをされている有香さん。フィギュアスケートにのめり込んだきっかけは、競技よりも、アイスショーへの憧れだったんですね。

佐藤:あのキラキラした世界に憧れて、自分もあそこに行きたいという夢を抱きました。そこに行き着く過程として、競技会に出たり、選手として頑張ったという感じです。

──世界チャンピオンに輝いた1994年の演技をよく覚えています。美しいスケーティングに裏打ちされた疾走感あふれる演技に、スタンディングオベーションが止まらなかった。その直前のリレハンメル・オリンピックで力を出し切れず、次は「勝ちに行く」という意識で臨んだ大会だったと本で明かしています。その後の活躍にとって、世界チャンピオンという結果は大きかったですか?

佐藤:あの大会から30年近くたつんですが、今も自分の体のなかに鮮明な記憶が残っています。一瞬ずつ覚えているというんですかね。とくにフリースケーティングは、準備の段階から、公式練習、本番と、非常に鮮明な記憶があります。優勝したことに関しては、確かにそのあとにつながるキーになりました。ですが、自分自身としては、あまりこだわりはないんです。

スケート人生でいちばん辛かったこと
──「ここ一番」という試合でどうやって力を出すか。「練習のチャンピオン」として頑張り続けても結果が出なかった有香さんは、単身カナダに留学し、「80%~100%の練習を継続」することによって、徐々に手ごたえをつかんでいきます。勇気ある自己変革は、他のスポーツや仕事にも参考になると感じました。

佐藤:コーチや選手によってトレーニングのやり方や考え方はもちろん異なると思います。そして100%や120%の力で練習を続けられるならそのほうがいいのですが、私にはそれはできなかったので、可能なかぎり確実に、コンスタントに、効率よく続けるラインが80%~100%だったということです。80%は低く聞こえるかもしれませんが、それ以下であってはいけない。シーズンを通して調子のいいときは100%近く、悪くても80%の力を出せるような練習を続けることで、自信を得ていきました。

──21歳で現役を引退し、プロに転向されます。しかし念願のスターズ・オン・アイス(SOI/サラエボ五輪の金メダリスト、スコット・ハミルトンが設立した人気アイスショー)のレギュラメンバーになるまでに6年かかりました。

佐藤:スケーターとしていちばん辛い時期でした。当時のSOIの女子シングルの枠は3人で、カタリナ・ビットさんやクリスティ・ヤマグチさん、ルーチェン(陳露)さんといったスターがいましたから、私の入り込む余地はなかったのです。人生には運とタイミングというものがあります。ただ、幸運なことに、当時はアメリカでフィギュアスケート人気が高く、プロスケーターの仕事はたくさんあって、様々な経験を積むことができました。

──SOIという華やかで競争の厳しい世界で得たものは何でしょうか。

佐藤:選手によっても、国によっても、トレーニング方法やフィギュアスケートへのアプローチ方法は違います。たとえばカタリナ・ビットさんは旧東ドイツ出身の選手ですが、他にも旧ソ連といった共産圏の選手たちのものの考え方やアプローチの仕方は、私たちとは微妙に違うんですね。厳しいトレーニング環境を勝ち抜いてきた底力を感じる一方で、フィギュアスケートを愛する気持ちは共通するものがありました。そういった様々な国の一流スケーターと共演させていただいた経験が、私の宝になっています。パフォーマーとして成長できましたし、その後の指導者の仕事にもつながったと思います。

アボット、シズニー……記憶に残る芸術的スケーターのコーチとして
──コーチとしては、元全米チャンピオンのジェレミー・アボット選手や、アリッサ・シズニー選手を育てられました。二人とも美しかった! 記憶に残る選手でした。

佐藤:残念ながら五輪のメダルには届かなかったのですが、素晴らしい才能の持ち主たちと一緒に練習できたことは、本当に幸運でした。ジェレミーアリッサ・シズニーといった世界で活躍する選手を教えるのは目標が高く、スリルがあってやりがいのある仕事ですが、一方で、子どもとか、若い選手を教える面白さも実感しています。基礎的なスピンやジャンプができるようになるという、小さな進歩を喜べるのは人として大切なことだと思いますし、これからのスケーターを育成していくために必要な課題は、やはり若い選手を教える中で見えてくると思うんですね。そういう経験なしに、立派なコーチにはなれないのだと、日々感じています。

──アボット選手がソチ五輪シーズンのフリーで使用した「エクソジェネシス交響曲」は忘れがたい名プログラムです。あの曲、その後、使う選手が増えていますよね。

佐藤:いい曲ですものね(笑)。アボット選手は日常的にも芸術家で、突然、ひらめきが降りてきたりするんです。ただ、気持ちがのらないと自分の力を出せないこともあるので、そういうときにコーチとしてどう声をかけるか、どう見守るか、いつも考えていました。

──振付師としてもご活躍です。例えば有香さんが振付されたハンヤン(閻涵)選手のラ・ラ・ランドは、ハンヤン選手の色気と憂い、そしてぐんぐん伸びるスケーティングにぴったりでした。

佐藤:選曲をしたのはご本人で、実は私は、最初、反対したんです。ラ・ラ・ランドで滑る選手が多かったので、ハンヤン選手のようなスペシャルなスケーターが、みんなが使う曲をあえて使わなくてもいいんじゃないかと。でも、あらためてアルバムを聞き直したら、これならいけるかもしれないという瞬間がありました。ピアノの音色と、彼の滑りのタッチがぴったり重なりあう瞬間が見つかったというのでしょうか。

 じゃあやってみようとスタートしたら本人はノリノリで、テクニックのある選手と仕事をするのはすごく楽しかったですね。スケート靴をはいているにもかかわらず、ブロードウエイのショーを見ているような、夢の世界に連れてってくれるような感動がありました。もう少し手直しの機会があればもっといいものになったんじゃないかと思っていて、その点は残念でしたね。

15歳くらいの年齢ではちょっと若すぎる
──女子選手も4回転やトリプルアクセルを跳ぶ時代になり、北京五輪では若いロシア選手の活躍が予想されています。フィギュアスケートは歳を重ねて上手くなっていく面もあると思うのですが、女子選手の低年齢化に関してはどう思われますか。

佐藤:フィギュアスケートという競技おいて、テクニカルな技術の向上は、素晴らしいことだと思っています。一方で、滑る技術とか、演技をする技術・表現力といったものは、15歳くらいの年齢ではちょっと若すぎるような気もします。練習や経験を重ねることで、人を感動させられる演技、成熟したパフォーマンスができるようになると思いますから。そのためには競技者として引退しても、その後、長く継続して滑っていける環境が必要ですし、観客やファンは、成熟したスケーターの成熟したパフォーマンスを見ることで、フィギュアスケートの見方が変わっていくと思います。

── 一度引退した高橋大輔さんがアイスダンス選手として現役復帰したり、浅田真央さんが自身のアイスショー・サンクスツアーを立ち上げて全国を回ったり。10代の若い選手の活躍とともに、長く滑り続けるスケーターの存在がフィギュアスケートを豊かにすることを実感しています。

佐藤: 今、ロシアでは様々なアイスショーが開催されていて、アマチュアとしての現役を引退したスケーターたちのプロ活動の場が増えています。「スケート靴を履かない仕事」だけでなく、「スケート靴を履く仕事」が非常に盛ん。選手として頑張っているスケーターたちが行く場所があることが、ロシアのフィギュアスケート界をさらに盛り上げていくのではないかと興味を持って見ています。

 アメリカでSOIを立ち上げたスコット・ハミルトンさんが言ってたことなのですが、アマチュアとプロの世界がうまく接続しているスポーツは、マーケティングバリューを長く失わない。アメリカで盛んなスポーツ、野球やバスケットボール、テニスやゴルフなどは、すべてそうですよね。今、日本やアメリカのフィギュアスケートは、アマチュアの世界は強いのですが、その後がつづいていないことが課題だと思っています。ただ、日本でもアイスショーの需要は増えていて、私自身も、美少女戦士セーラームーンを題材にした「プリズム・オン・アイス」の演出の予定が控えています。次世代のスケーターが憧れる場を増やしていけるよう、私もできることをやっていきたいと思っています。

【プロフィール】
佐藤有香/さとう・ゆか/1973年東京都生まれ。フィギュアスケート選手で種目は女子シングル。フィギュアスケートのコーチをしていた佐藤信夫、久美子夫妻の間に生まれ、趣味でスケートを始める。ジュニアの頃から実績を残し、1994年のリレハンメル・オリンピックでは5位入賞、同年の世界選手権では優勝し、伊藤みどり以来、日本人二人目の世界女王となった。その後、プロに転向し、プロフィギュア選手権等多くの大会で優勝。表現力に磨きをかけ、プロとしても評価されている。現在は日本国内外の選手のコーチや振付師として活躍中。

取材/砂田明子

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