あの時がピーク、宮沢りえ写真集!

ヒトには、誰が見てもピークやボトムなどがある。何をやっても当たったり、ソレでもデキなかったコトあったり、突然何をやっても掠りもしなくなったりする。

宮沢りえ(48)の場合、91年写真集サンタフェ発売の時、約31年前、つまり17歳、カラダ的には最高の時期だった。三井のリハウスポカリスエットらのCM始め、南野陽子「追いかけたいの!」で石田純一の妹役やったり、映画「ぼくらの7日間戦争」ヒロインやったり、何をやっても話題になった。本人のクオーター独特のかわいさやプロポーションも然ることながら、りえママのプロデューサーとしての発想や展開の速さも作用した。しかし、勢いに任せて小室哲哉プロデュースでCD出したが、当たらなかった。以後、小室哲哉は出入禁止だとか。その数年後には例の商法のおかげながら、大プロデューサーになる前だが。

写真集サンタフェは、そんな時期のりえママ展開の1つ。1卵生母子と言われたくらい、よく似た母子だった。つまり、やたら肥る体質も。それらを見通し、先行してヌード写真集までを展開した。

ワタシも新聞巨大広告で知り、会社のFAXでメモリー送信でオーダーした。当時は、個人家庭用電話機にFAXはなく、メモリー送信でないと、受付できないくらいの話題性だったから。

何をやっても当たったのがりえママのおかげなら、以後の失態もりえママのおかげだった。宮沢りえに当時大人気力士だった貴花田とのスキャンダルを仕掛け、一時は婚約会見までやって、マンションの一室でりえ貴花田三浦カズ&りさ子4人パーティーまで報じられた。

しかし、りえママは相撲部屋若女将の肩書を更なるりえの芸能活動展開拡大に使おうと考えていたため花田母親と相容れず、最後は貴花田とりえママ言い争い中にゲームにふけるりえに「愛がなくなってしまった」と、婚約解消記者会見した。

以後は、本来芸能活動による話題はない。激肥り⇔激ヤセ、当時中村勘九郎市川右近とのスキャンダルにリストカット。結婚しても離婚し、今は森田剛

 

 

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伊藤英明 大ファンだった大女優の衝撃の写真集に「崩れ落ちて…」「3日間ぐらい、学校を休みました」
3/18(金) 13:27 Yahoo!ニュース
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伊藤英明
 俳優の伊藤英明(46)が17日放送のNHK「密会レストラン」(木曜後10・00)にゲスト出演。かつて大ファンだった女優の宮沢りえ(48)がヌード写真集を発売したことに高校を3日間休むほどのショックを受けたことを明かした。

【写真】変わらぬ美しさ…伊藤英明がかつて大ファンだったという女優の宮沢りえ

 一軒のレストランを舞台に、魅力あふれるゲストたちが大人の恋愛トーク番組。自身の意外な弱点を明かす中で「サンタフェショック」を挙げた伊藤。もちろん、1991年に宮沢が発売したヌード写真集「Santa Fe」のこと。

 伊藤は「僕ら同世代ではスーパーアイドルですよ。宮沢りえさん大好きで、僕の彼女だ、僕の奥さんなんだ、未来の。自分は追い詰められていた。部屋も当時、ポスターだらけ、宮沢りえさんの。毎朝、毎晩、部屋にいる時はそのポスターと目を合わせて、『いつ会えるの?』って(話しかけていた)。もう追い詰められていたわけですよ。小学校6年生から、ふんどしのカレンダーがあったわけですよ。空前の大ブームです。エロスを通り越して芸術だったんですよ。まっすぐに宮沢りえさんに追い詰められていたわけです」と宮沢への当時の思いを熱弁した。

 さらに「どうしても会いたくて、(宮沢が主演した)『ぼくらの七日間戦争』あったじゃないですか。それの『2』にオーディションを受けて」と宮沢に会うためにオーディションまで受けた過去を告白。「(オーディションは)当然落ちましたけど、僕が俳優を志したのは宮沢りえさんがきっかけだったかもしれません」と明かし、驚かせた。

 そんな中、1991年に宮沢が世間に衝撃を与えた写真集を発売。新聞に全面広告を出して、大きな話題となった。「何の予告もなしに、高校1年生ですよ。学校に行って、友だちが新聞らしきものを持って近づいてくるわけですよ」と回顧。「(新聞広告を)見た瞬間、崩れ落ちて。新聞持ったまま、自転車を引いて、そこから記憶がない。3日間ぐらい、学校を休みましたもん」とその衝撃を振り返り、「あの時、俺が10億円持っていたら、全部のお金をはたいて、買い占めた。だけど、大人になってわかったのは増刷するんだなって。良かった、お金なくて、みたいな」と苦笑した。

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