別に、上原浩治に限った話ではない。

別に、上原浩治に限った話ではない。先発でローテを担っていた投手を抑えや中継に専念させるにら、それなりの状況の変化がある。状況の変化とは、その投手の故障や不調であり、抑えないし中継の需要であり、先発で代わりを務めた投手の定着である。それら全てが整わないと、投手起用ローテと中継抑え起用ルーティンはデキあがらない。

上原浩治は、大阪体育大で頭角を現した投手、東海大仰星高ではエース建山の控えで、殆ど実績はなかった。それは、肩ヒジとして使い減りしていないというコトだが、鍛練もされていないというコトだ。しかも、何の実績もないから、進学には受験するしかなく、勉強してないカレは1浪した。その1浪期間中に勉強合間に集中的トレーニングをしていたらしいが、高校野球エースが甲子園目指して鍛練するのとは、シビアさが違う。

大体大に入学したトコで、投手に専念デキるようになった。環境的に、高卒でプロに行ける投手はプロへ行き、一部指名漏れたり上位者は有名大学や社会人に行く。大体大や関西には殆どいない、割と横一線の中、独特なオーバースローとコントロールとテンポ良さが目立った。

キューバや外国との対抗試合でも、アマチュアプロ通じて無敗だった。

巨人に裏ガネ逆指名入団、その数年間×2名は逆指名と引き換えに数億を分割払になっている。清武元GMが暴露した。恐らく、巨人に様々なコントロールを受ける弊害がある。(例えば高橋由伸は、原辰徳が愛人問題口止料をヤクザに支払った件の追及逃れで退任する際、巨人フロントに強制引退させられた。メジャーから巨人に戻った上原は、故障で手術を受け、有無を言わさず自由契約扱いになった。阿部慎之助一塁手と言われれば、仕方なく従った。)

大学でもプロ入団後も、ノースロー含め完全マイペーストレーニング調整を認められていたが、イヤなトレーニングを敬遠し、弱いトコや悪くなるトコは決まって左太腿裏肉離れだった。

ソコをプロ入団後やらかし、故障の治療離脱から戻る過程で、第2期監督の原辰徳から抑え起用を言われ、イヤとも言えなかっただけだ。裏ガネの件もあるから。

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15年前、原巨人はなぜ上原浩治を“守護神”に指名したのか? 試運転のつもりが、驚異の32セーブ…制球力はメジャー時代を上回っていた
4/7(木) 6:01 Yahoo!ニュース
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2007年に上原浩治が挙げた32セーブは当時の球団新記録。20勝を挙げて、30セーブを記録した投手は江夏豊に次ぐ史上2人目の快挙だった photograph by Sankei Shimbun
原巨人の第2次政権で初のセ・リーグ制覇を達成した2007年、その立役者となったのは抑えに回ったエースだった。数年後、メジャーで世界一のクローザーとなった男が隠れた適性を見出された15年前の転機を回想する。Sports Graphic Number1024号『20年目の原巨人。』(2021年4月1日発売)より『絶対的守護神誕生の舞台裏 上原浩治「先発復帰の試運転のつもりだった」』を配信します(肩書きなどは掲載時のまま)

【貴重写真】ヤンチャそうな張本18歳の学ラン姿。17歳時の原と菅野が超そっくり。ブレザー姿の坂本、不敵に笑う中田翔や投手だった丸・岡本…名選手120人超の高校球児時代

 1995年に巨人のユニフォームを脱いだ原辰徳が、メディアでの仕事を経て、一軍野手総合コーチとして球団に復帰したのは99年のことだった。

 その年、上原浩治は巨人に入団。ふたりの人生が交錯し始めた。

 上原はルーキーでいきなり20勝をあげ、セ・リーグ最多勝をマークするセンセーショナルな活躍を見せたが、当時の原を次のように振り返る。

「原さんの担当は野手だったこともあり、管轄はちょっと違ったんですが、コーチ時代から選手と話すことをとても重視していたと思います。その姿勢は、2002年に監督になられてからも変わらなかったですよ。日本とアメリカ、いろいろな監督の下でプレーしましたが、間違いなく『対話型』の監督だと思います。選手とコミュニケーションを取ることで、チームの雰囲気作りを重視していたんじゃないですかね」

先発復帰のための“試運転”だった
 監督1年目の原は、上原を開幕投手に指名。このシーズンの上原は好調を維持し、17勝を挙げて2度目の最多勝投手となり、レギュラーシーズンの優勝に貢献。西武との日本シリーズ第1戦でも松坂大輔と投げ合って勝利投手となり、このシリーズ、巨人は西武を4タテで下して日本一に輝いた。上原はシーズンを通して巨人の屋台骨を背負った。

 この後のシーズンも上原は開幕投手を務め続けたが、転機を迎えたのは、原体制2期目の2年目、07年のことだった。3月15日に左太もも裏、ハムストリングを痛めて開幕絶望となってしまったのだ。

「原さんからは『あまり気にしないで、しっかり治してから一軍に戻ってきて欲しい』と言われてました。どうにかゴールデンウィークのあたりに復帰のメドが立ち、ファームで試運転してからという話もあったんですが、僕は二軍で投げても気持ちが入らないタイプだと見抜かれていて(笑)。『どんな形であれ必要だから、先発できるようになるまで、ブルペンで投げて欲しい』ということで、最初は1イニング限定で、一軍で登板することになったんです」

 上原がブルペンに回ったのは、あくまで先発に復帰するまでの試運転の意味合いだった。シーズン最初の登板となった4月30日のヤクルト戦、5月1日の中日戦とセーブがつかない状況で9回に投げた。続く2日の中日戦は、延長戦にもつれ込み、11回表に巨人が勝ち越すと、その裏には上原がマウンドに上がり、プロ初セーブをマークする。この勝利はちょうど、巨人が球団創設以来5000勝となる記念すべき試合でもあった。

 先発にこだわってきた上原だったが、自慢のコントロールを武器に、不用意な四球もなく、クローザーとして安定した投球を披露していた。5月下旬にはそれまで抑えを務めていた豊田清が8回、上原が9回に回る体制となり、この月だけで5セーブをマークした。

「5月中旬に、たしか監督室に呼ばれて、『ウエ、オールスターまでは後ろでやってくれないか』と頼まれたんです。僕としては、監督からそう言われたら、分かりました、と答えるしかないですよね。ちなみに巨人では、みんなから『ウエ』と呼ばれてました。『コウジ』と呼ぶのはメジャーの人たちと、桑田(真澄)さんだけです(笑)。この話し合いまで、ブルペンから出ていくのは先発復帰までの試運転のつもりだったので、5月2日以降は連投しないことになっていたんですが、ここからは連投もOKということになりました」

オールスター以降も「守護神」として
 そして5月26日の楽天戦、27日のオリックス戦と上原は連投し、名実ともに巨人の「守護神」となった。約束となっていたオールスターまでに14セーブをマークしたが、結局、先発への復帰は見送られることになった。

「チーム事情というものがありますからね。クローザーとして負けがついたのはひとつだけでしたし、原さんとしてもいい流れを維持したいこともあり、後半戦も後ろで、ということになったんでしょう」

 シーズンを通して落合博満率いる中日との鍔迫り合いを繰り広げた巨人。最終的には1.5ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たす。この年から導入されたクライマックスシリーズではその中日に3連敗を喫し、日本シリーズ進出は逃したものの、シーズンを通しての上原の投球内容は圧巻だった。

 55試合登板、62イニングを投げ、4勝3敗32セーブ、防御率1.74。特筆すべきは、奪三振は66を数える一方、与えた四球はわずか4つだったことだ。スタッツの先進国、アメリカで重視される三振と四球の比率は16.5対1。上原はメジャーリーグに移籍してから、12年のレンジャーズ時代に14.33、レッドソックスに移籍した13年に11.22の数字を残しているが、それを上回る制球力を見せていた。

 アメリカでは「稀有な制球力の持ち主」と称されたが、07年のクローザー時代にその萌芽は見えていた。

 上原の現役時代、制球力について質問すると、ボールの縫い目にかけた指を数ミリ動かし、「これだけずらすと、打者の手元での軌道はこれだけ曲がります」と説明してくれたことがある。上原には軌道がイメージできるだけでなく、実際にその通りに投げられるのだ。指先の感覚においては、世界でも指折りの繊細さを持っていたが、原はシーズンを勝ち抜くため、上原の制球力を抑えで生かした。

 原は選手起用に関しては、クリエイティブな指揮官だった。このシーズン、打線では高橋由伸を1番に起用して覚醒させ、中軸には阿部慎之助小笠原道大イ・スンヨプと並べると、この4人が本塁打を30本以上と量産した。上原がブルペンに回った先発陣は高橋尚成内海哲也木佐貫洋が10勝以上を挙げたが、9回に上原が控えている安心感が大きかった。間違いなく、原のアイデアの勝利である。この1年、クローザーとして活躍した上原は、先発と抑えの違いについて、こう感じていた。

「僕は引退するまで先発にこだわって野球をやってましたけど、原さんにクローザーの適性を見つけてもらったことになります。ワールドシリーズで優勝投手(13年レッドソックス)になれたのも、巨人時代の経験がつながっていたのかな、と思いますし。同じ投手といっても、先発と抑えではまったく職種が違うというか。先発は週に一度、緊張感をもって常に100%の力を発揮しなければいけませんけど、抑えはみんながつないできたものを勝ちに結びつける責任感がハンパないです。それに抑えようと、打たれようと、次の日までに気持ちも切り替えなきゃいけません」

「1イニングの考え方が変わった」
 クローザーは疲労の蓄積とも付き合わなければならなかった。

「疲れ方も別物ですよね。シーズンが進んでいくと、なかなか疲れが取れない。それでも、抑えなきゃいけない。僕からすると、クローザーの仕事は、『たかが1イニング、されど1イニング』という考え方でした。たった1イニングだけれど、ものすごくしんどい。原さんからクローザーを任せてもらって、1イニングについての考え方が変わりました」

 続く08年、上原は先発に戻ったが開幕から4連敗を喫し、一時は二軍行きを命じられる。上原は、原巨人の特質はドラフトとFA補強によって豊富な陣容を構築したうえで、内部の競争力を高めることにあるという。

「実績よりも、実力優先主義ですよね。いい選手を集めて競争をさせれば、チームは強くなる。プロのチームは、人柄でレギュラーが取れるわけじゃありませんから、とにかく結果を出さなければいけない。原さんは『アメとムチ』の使い分けがハッキリしていました。こう言ってしまうとネガティブな印象があるかもしれませんが、これは結果を求められるプロでは当たり前のことです。どれだけ実績を積み重ねていたとしても、開幕から白星がなければ、二軍に落とされるのは当たり前。それに取って代わる選手も巨人にはいましたし。原さんはプロの世界は結果がすべてという、当たり前のことを徹底し続けています。だから、巨人は安定した成績を残せるわけです」

「原さんは変わっていない」
 その後、上原は18年に巨人に復帰すると、2年目の19年には三たび、原が監督として巨人に戻ってきた。が、上原はシーズン途中の5月20日に引退を表明する。

「結果的に、プロ入りしてから、引退するまで関わったのは原さんだけです。20年分、原さんも僕も歳を重ねたわけですが、原さんは変わってない。若々しいままだし、対話路線も変わっていないでしょう。いまはグラウンドのことだけでなく、編成面も含めて理想のチームを作ろうとしているんじゃないでしょうか。球団内でそれだけの実績を積み重ねてきたと思いますから」

 第3次政権がスタートして、セ・リーグでは連覇を達成しているが、日本シリーズではソフトバンクの前に2年で8連敗と、歯が立たない。

「どうやったら日本一になれるのか、必死に考えていると思いますよ。セ・リーグのDH制導入についても積極的に発言しているのは、セ・リーグを活性化するというか、野球界を盛り上げていくための方法を考えているからでしょう。原さんは昔も今も、野球が日本のナンバーワンスポーツであり続けるため、使命感を持ってユニフォームを着ているはずです」
(「Sports Graphic Number More」生島淳 = 文)

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