一番の被害者は、プロデューサー伊秩弘将!

SPEED、企画自体は通常アイドルグループより下の年代、小中学生の4人、隙間狙いと言えばそうなる。モーニング娘の辻や加護を考えても、この年代をマスコミに出る教育をせずに出すと、こういう結末になるという1つの見本だ。

売れて人気が出た。今井絵理子森田剛島袋寛子は高橋元気と立て続けにオトコを写真週刊誌に撮られ、事務所から「オトコを取るか、仕事を取るか?」と問われた4人は「オトコを取る!」と答えて、解散が決まった。

幼い内に売れて、サッサと辞めた。この4人にとっては何てコトなかったろう。しかし、ICEBOXの中でも一番知られてなかった伊秩弘将にとって、漸くプロデューサーとして名を知られ始めただけに、痛かった。

4人が4人とも、オトコでは上手く行かなかった。今井絵理子は国会議員になっても略奪不倫、上原多香子は自らの不倫で夫を自殺に追い込み、島袋寛子ダウンタウン松本人志を島に持ち帰るも逃げられた。

互いに上手く行ってないと、SPEEDの活動に傾いたのだろう。無敵?オトコ問題が上手く行ったヒトから抜けるのでしょ!

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SPEEDは4人揃うと「もはや無敵」 hiroが明かす、26年分の思いとグループの行方
4/11(月) 18:16 Yahoo!ニュース
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hiro(写真:池村隆司)
 2021年、SPEEDが25周年を迎えた。大きな節目を迎えたグループは誕生から四半世紀経ってもなお、色褪せることなく多くの記憶と記録のもと輝き続けている。そんなSPEEDのメンバーで今も音楽活動を続けている島袋寛子が、hiro名義としては久々となるニューアルバム『0』をリリースした。『0』という意味深にも感じられるタイトルに込められた思いとは? SPEEDのデビューから解散を決断するまでの心境、ソロとして今も活動を続ける意味、そして「4人でやるのはやっぱり楽しい」と明かした“今後のSPEEDの行方”まで、26年分の思いをhiroに聞いた。

【撮り下ろし写真】hiro最新フォトセッション(計7枚)

<「良くなかったら、いつでも沖縄に帰すぞ」と言われていた>

ーー去年SPEEDが結成25周年を迎え、またhiroさん自身も“hiro”名義で約15年ぶりに新曲を発表されました。そこで今回は、どのように26年間の音楽人生を歩んで来られたのかを、じっくりお聞きしたいと思います。まず、SPEEDの出現というのは、その後のガールズグループに大きな影響を与えたと思うんですけど、hiroさんの見解はどうでしょう?

hiro:SPEEDの国民的感というのがどの程度だったのか、当事者の自分は外から見ることができなかったですし、分からないですけど。確かに、10代の若い子たちが歌って踊るガールズグループの先駆けだった気はしますよね。ただ、私の感覚ではSPEED以降も人気のある方達は出てきていると思います。

ーー今はガールズグループと言っても、ダンスグループやアイドルなどジャンルの棲み分けがハッキリしていますが、SPEEDがすごいのは、どちらの要素も一手に引き受けていたことだと思うんですよね。

hiro:それはありますよね。レコード会社の方にも「SPEEDはダンスボーカルとアイドルの要素がある」と言われました。10代特有の子供っぽさを出してアイドル的に見せつつ、歌って踊るときにはアーティストモードのスイッチを入れる。そういう見せ方のバランスは考えていたと思うし、だからこそ親しみやすさもあったのかなって。

ーー初めてテレビに出演されたのが、『THE夜もヒッパレ』(日本テレビ系)で1995年。hiroさんは当時11歳で、にこやかにトークされていましたけど、その裏では結構厳しいことを言われていたとか。

hiro:元々は沖縄のタレント養成所に入っていて、そこで小学生のグループが組まれ、そこから4人が選ばれ東京へ向かいました。東京では『ヒッパレ』の出演に向けて、朝から夜まで毎日レッスンでした。それこそ『ヒッパレ』に初めて出たときは、事務所の方から「良くなかったら、いつでも沖縄に帰すぞ」と言われて。

ーー相当なプレッシャーをかけられていた。

hiro:子供ながらに「すごく試されているんだな」と感じたし、これがチャンスだということも分かっていたから、一生懸命歌って踊りました。しかも次に呼ばれるかどうかも決まってないので、とにかく結果を出さなきゃいけない。あの頃は、収録に呼ばれると本番の1週間前から披露する曲のレッスンを1日中していて。何回か番組に出演したあるとき、レコード会社の方が現場を見に来られて、収録直後に呼び出されたんですよ。TV局のリハーサル部屋みたいなところに連れていかれ、レコード会社の方の前で曲を披露したら、それがデビューに繋がったんです。ありがたいことに、私たちのスタイルを尊重してくださって「普段の彼女たちを見せていこう」ということで、スニーカーとダボダボしたアメリカンな服装で世に出ることになりました。

ーー1996年にリリースしたデビュー曲「Body & Soul」は累計60万枚を売り上げ、いきなりスマッシュヒットとなりました。この結果をどう受け止めていましたか?

hiro:売上枚数よりもランキングの方が分かりやすかったです。小学生だったし、60万枚と言われてもピンと来なかったですね。というのも、90年代後半の音楽業界ってミリオンヒットがバンバン出ていたので。「Body & Soul」はミリオンではなかったけれど、今考えてもものすごいデビュー曲だったと思います。だって、全部の歌詞がストレートじゃないですか。当時のスタッフさんは30代前半で、かなりの挑戦だったはず。楽曲にしても4人の歌って踊る様にしても「よし! これなら売れる!」と思っていたのかどうか、あのときのスタッフさんに聞きたいですね。

ーー「Body & Soul」は今聴いても尖ってますよね。

hiro:すごい尖ってる! あの頃は先輩に小室哲哉さんがいたり、ロックバンドも流行っている中、〈Body & Soul〉って腰パンでダボダボした服装の子供たちが歌うわけですから。あのやり方はすごいですよ。それで2ndシングル『STEADY』が初ミリオンになって。そこからですよね、状況が目まぐるしく変わったのは。

ーー12~15歳の少女4人が一躍時の人になりましたからね。

hiro:SPEEDに限らず、あの頃はとにかくCDが売れていたし、みんなが同じ曲を聴いて歌って振りも真似して、みたいな。国民全員がヒットソングを知ってる現象って中々生まれないけど、あの頃は割と生まれていたので、すごい時代だったと思います。

<SPEED解散を決断した理由>

ーー先ほど「90年代後半はミリオンヒットがバンバン出ていた」とおっしゃっていましたけど、SPEEDに関してはダブルミリオンとかトリプルミリオンも出していて。街のいたる所で曲が流れていましたよね。

hiro:(頷きながら)本当にそうでした。

ーー活躍は音楽だけに留まらず、1998年にはメンバー主演の映画『アンドロメディア』が制作され、『日刊スポーツ映画大賞』新人賞も受賞されて。

hiro:なぜ映画をやらせようと思ったのか分からないけれど、題材が近未来で監督は三池(崇)さんですし、一つひとつの要素がすごくて、映画の話を聞いたときはとても興奮しました。楽しそうというか、絶対に良い役をやりたいって。

ーー実際“AI”というかなり難しい役を務めましたね。

hiro:理解するのが難しかったですね。今ではネットとか色々なものが進歩しているから身近に感じますけど、98年当時はまだ「コンピューターとは? A Iとは?」みたいな。しかも初演技なのにほぼブルーバックで、誰ともあまり関わっていなくて。でも、演技はすごく楽しかったです。感覚的な部分ではできなかったけど、感情を動かすという面では三池さんが私を信頼してくれているのかなと思えたし、台本にないところで涙が出たりしたんですよ。

ーーその後、グループの大きな変化としては、1999年にそれぞれがソロ活動を始めたことですよね。あのときからSPEEDを終えて、次の人生を歩もうとしていたのかなと思ったんですけど。

hiro:そうではないですね。SPEEDが多くの方々に愛してもらえるようになったから、次のステップとして全員がソロ活動を始めることによって、個々の才能を広げていこうと。解散というよりは、むしろグループの寿命を長くするための展開だったと思います。

ーー翌年の2000年に解散をしますけど、当時の心境はどうでしたか。

hiro:複雑な気持ちでしたね。解散をするのが良い選択なのかどうかは、誰にも分からなかったし、ましてや人生経験の少ない10代の子には想像することも難しかった。だけど喜ぶことじゃないことも、大きな責任があることも十分に分かっていました。私の話で言うと、デビューから3年間はほぼ休みがなくて。朝は学校へ行って、放課後は仕事をして、夏休みになったら秋までツアーがあって。常にスケジュールがぎっしり埋まっていたんですよね。

ーー生活の全てがSPEEDだった。

hiro:小さい頃からの“歌手になる夢”が叶って嬉しかったけど、人としての経験とかプライベートな時間というのは全くない。デビューした年齢が12歳と幼かったから、全てにおいて物事を考える基準がほとんどできていない。あと、「人気がずっと続くわけではない」と当時から4人とも言っていて。そういう色々なことを考え始めたタイミングでソロ活動が始まり、1人で考える時間が増えたことで「これはどこに向かっているんだろう?」と冷静に考えるようになったんです。

ーー夢が叶って嬉しかったけど、他に考えることが生まれた。

hiro:そうです。このままで自分は良いのか? この状況はいつまで続くのか? 続いた先はどうなのか?って。ある程度大人になったら、うまく心のバランスを保つことができると思うんですけど、子供だったこともあって全部管理されていたので。そこにちょっとした危機感が生まれたり、不安みたいなものが芽生えていたのかなと、私個人は思っています。だからと言って、他の3人の意見とか、会社や色々な人の考えもあるわけで。社長を含め、みんなで話し合いをして「解散」「休養」「休止」と選択肢がある中、最終的に解散を選んだ。すごく考えた上での結論でしたね。

ーーもしあの時解散していなかったら、どうなっていたんでしょう?

hiro:それは分からないです。ただ、あんなに恐ろしいことは後にも先にもないですね。あれだけ大きなものを止めるというか、手放すというのは、トラウマになるくらいの出来事でした。解散発表をしてからは、毎日がすごい緊張感に包まれていたし、ずっと重圧を感じていて。だから2000年3月31日の『ミュージックステーション』(テレビ朝日系)でのラストパフォーマンスが終わった翌日は、全身の力が抜けたのを覚えています。

ーー4大ドームツアーを開催したり、アルバム『Carry On my way』のリリースがあったり、『Mステ』でのパフォーマンスまで本当に多忙でしたよね。

hiro:感情も麻痺していたと思います。あれだけ忙しいと、ちょっと鈍感にならないとできないこともあるので。“SPEEDの島袋寛子”を横に置けた瞬間は少し楽になったんですけど。だけど、私は今でもSPEEDだし、島袋寛子だし、いくつになっても一緒に生きていくものであることは変わらない。そうした思いは時間が経たないと分からなかったことだと思います。

hiroが語る、SPEED再結成時の戸惑い「気持ちがついていかなかった」
 
hiro(写真:池村隆司)
<ソロへの意欲とSPEED再結成がもたらした戸惑い>

ーー解散後はどう過ごしていたんですか。

hiro:当時は16歳で、自分のやりたいことをやれるようになったんです。髪の毛を染めてみるとか、ショートヘアにしてみるとか、今までとは正反対のことをやり出した。それがすごく楽しくて。それと一時はお母さんを沖縄から東京に呼んで、一緒にスーパーへ行ったりもしました。グループの頃はそんな時間もなかったから、そういう普通のことが嬉しかったですね。

ーーそしてソロ活動が始まり、2001年に1stアルバム『BRILLIANT』をリリースしました。「AS TIME GOES BY」「LOOK BACK ON THE TIME」「Close My Eyes」など、楽曲の随所に“別れと旅立ち”を感じたんですけど、やっぱりそういう思いがあったんですか?

hiro:プロデューサーの伊秩弘将さんからのエールというか、「これが人生だよね」と言ってくださっているような楽曲ばっかりで。『BRILLIANT』には、皆さんからの励ましの気持ちがあったと思うんですよ。「前へ進むエネルギーだけは止めないで欲しい」というメッセージを感じますね。その一方で10代の「これから何が起こるんだろう」というワクワク感だったり、新しい何かが始まり出した感覚が詰まっている作品だと思います。

ーー2002年に出した2ndアルバム『Naked and True』は、タフなサウンドの表題曲もあれば、「しあわせの道」のようなデリケートな世界観の曲もあって。よりアーティストとしての幅広さを感じたんですけど、hiroさんにとってはどんな作品ですか?

hiro:これまでの島袋寛子とは違う、hiroの世界観を作っていきたいと思いました。それをどうやったら良いのかわからなかったんですけど、様々なジャンルの曲を聴いたり、やりたい歌い方を模索したりして。とにかく自分の中でカッコいいと思うものや、やりたい音楽をやろうと。とはいえ、その挑戦すら良いのか確信がないから、迷いや不安定さもありました。今聴くと少し笑っちゃいますけど、素直にやりたいことが出せているなと思います。

ーー2004年にはジャズプロジェクト・Coco d’Orココドール)が始動したり、2013年には沖縄音楽に特化した『私のオキナワ』をリリースしたり、さらに柔軟性が加速していきましたね。

hiro:ソロになってから「あなたのジャンルは何なんだ?」とたびたび聞かれるようになったんですよ。だけどジャンルって、そんなに大事なのかなと。好きなジャンルが1つに絞れていたら良いんですけど、私は歌うこと自体が好きだから、だから何でも歌いたかった。歌謡曲も好きだし、ロックやジャズだって好き。だから活動する上で曝け出し続けるしかないんですよね。自分の人生の中で、心が向いたもの、心に触れたものをやっていくだけ。Coco d’Orを始めたきっかけは、昔からジャズが好きで、自分も歌いたいと思ったからなんです。『私のオキナワ』に関しても、古謝美佐子さんの「童神」に救われて、ライブでカバーをさせてもらった流れから「沖縄のアルバムを作って、自分が育った島のことを深く知ろう」というアイデアが生まれた。そうやって自分のやりたい音楽を開拓している途中で、SPEEDの再結成があって。

ーーそこですよね。新しいことをやろうとしているときにSPEEDの再結成が決まり、戸惑う気持ちもあったと思うんですよ。

hiro:それはあったし、Coco d’OrからSPEEDのモードに戻すのは相当手こずりました。再結成となれば、今までソロに注いでいた力をSPEEDに向けるわけじゃないですか。今のSPEEDがやったらカッコいいサウンドは何だろうと模索していたら、またもやSPEEDの活動がストップして。

ーー心を揺さぶられ続けていますよね。

hiro:今だったら「なるほど! じゃあ、こっちだ」とか「こういうことなんだな!」とフレキシブルに対応できるようになったけど、当時は突然動きが変わると「どういうこと!?」って。気持ちがついていかなかったですね。

ーー3歳で歌手を志した幼少期、SPEEDで活動していた少女期、ソロ活動とグループの再結成を経験した青年期。これまでの歩みがあった上で、今回の『0』という最新アルバムを作ったと思うんですけど。

hiro:常にリセットしたい欲があったんですよ。もちろん過去があっての自分だし、過去があっての今だし、そこに対する感謝は変わらない。やってきたもので今の自分があるのは変えられない事実なので。

ーーリセットしたくても、そう簡単にはできない。

hiro:色んなことがあったけど、それをなかったことにはできない。だから「ありがとう」って思わないと進めないタイミングだったのかもしれないですね。今、SPEEDで歌って踊ってるのが私1人しかいなくなった状況で、ソロもそうだけど、グループを応援してくれるみんなに何をしてあげられるだろうと考えていたんですよ。どこかでずっと戦っていた。それで、2021年にSPEEDが結成25周年を迎えて、初めてのBOXとかトリュビュートアルバムが出たりして。もっとリラックスして良いんじゃないかなって思えたんです。どこかでずっと戦っていた自分に、良しと言ってあげても良いんじゃないって。

ーー背負っていた物を下ろすことができたからこそ、再びソロ作品を作ろうと思えた。

hiro:あとはコロナ禍になったのも大きいです。時間ができて私がやりたいことを考えて最初に浮かんだのが、アルバムを作ることだったんですよね。実は『私のオキナワ』から『0』の制作はしていたんですけど、なかなか流れに乗れなくて、作品という形まで行かなかった。そんな時期に、レコード会社の担当が変わって、その方に「私はアルバムを作りたい」と言ったら去年8月に配信した「Something Great」が生まれた。他にも「いつか私が歌うときのために取っておきたい」とストックしていた曲もあるし、ライブでずっと歌わせてもらっていた「Sympathy」があったり、この2年の間に送られてきた楽曲も入っています。流れができるときは、ちゃんと形になるんだなと思って。このタイミングでできるということは、今の私にはその力があるってことだから信じようと。

ーーアルバムを作る上で大事にしたことは何ですか?

hiro:つい過去に戻ったり先に行きすぎたりしてしまうけど、今の場所を楽しんだり感じることを大事に考えて作りました。だから、これまで話してきた今までの26年間があっての『0』です。私の歌手人生が始まってからの全てが詰まっていますね。

<4人揃うと完全体のエネルギーになる、もはや無敵なんです>

ーー『0』というアルバムは、hiroさんが何も描いていない真っ白なキャンバスを持ってきた、ということじゃなくて。油絵のようにこれまで歩んできた人生という絵の上に、白い色で塗り潰して『0』にした作品じゃないのかなと思ったんです。だからリセットして全く違う道を歩き始めたんじゃなくて。これは感覚の話ですけど。

hiro:いや、きっとそれですね。真っさらな、ピュアなものじゃなくて、今までがあった上で「さあ、ここからどうする?」と。『0』だけど終わりと始まりが交差しているアルバムかもしれないですね。作っている最中は苦しいこともいっぱいあるんですけど、これから自分はどんな歌を歌うのだろうとか、どこに行き着くんだろう、みたいにワクワクしている自分がいる。歌だけじゃなくて人生とキャッチボールをするように、何か変化があると歌が変わっていくし、それを楽しみながら「これを踏まえて、どんな歌を歌うんだろう?」と思うんですよ。

ーー苦しさも含めて、楽しんでいますよね。

hiro:なぜ、そうまでして続けているんだろう、って感じですよね。音楽は好きだけど、もちろん好きなだけじゃない。ただ、自分が人生を通して、どこへ行き着くんだろうと常に考えてる。まだ違う自分がいると思ってるんでしょうね。それが実験をしているみたいで楽しいんです。だから何でもやってみたくなっちゃう。

ーーこれからの活動はどう考えています?

hiro:hiroの活動は次の展開も考えていて、具体的にスタッフさんとも話しています。とはいえ、Coco d’Orもやりたくなったりして。かといってオーガニックサウンドとか生音でアルバムを作りたいとも思うし。やりたいことが山ほどあるんですよね。SPEEDについては「またライブをやってほしい」とみんなが言ってくれますけど……もちろん私もそう思います。私もSPEEDを見たいと思うけれども、それぞれの今があるから、そこは尊重したい。私はずっと歌って踊り続けているので、いつか流れが生まれたらおもしろいなと思います。

ーー再びSPEEDが動き出す、その日を待っていると。

hiro:4人でやるのはやっぱり楽しいですよ。そんな中、どれだけSPEEDが始まった頃の自分から、色んな経験をして面白い人間になっていけるかだと思うんですよね。いつもそこと戦ってる。だってSPEEDとして世に出てきたときが最高に面白かったじゃないですか。

ーーあまりに幼すぎましたからね。それだけでインパクトもあったし。

hiro:10代でエネルギーに満ち溢れていて、何の迷いもなくて。子供はそういう力が強いから。そこに戻ることは出来ないけれど、どうやって前へ進んでいくのか。とあるジャズボーカリストの方が「10代のときに最初に録ったテイクが一番いい。そこは超えられない」と話していたんですけど、私もそう思う。それとは戦わないように人生経験を積んで、面白い歌が歌えるようになったら良いなと思います。とにかく面白い人になりたい(笑)。

ーー面白い人(笑)。それこそ他の3人が強烈ですからね。

hiro:私よりも3人の方が魅力的だし、磨きがかかっているはずなので、絶対に楽しいと思うんですよね。やっぱり2人になるとエネルギーがブワッとなるのが分かるんです。3人になるとさらにエネルギーが倍増して、4人揃うと完全体のエネルギーになる、みたいな。もはや無敵なんです。あの感覚はSPEEDじゃないと味わえない。

ーー色んなことが整理されて、今が一番充実されている感じがしますよ。

hiro:お話していて、自分って幸せな人生だなと思いました。これだけ協力してくれる人が身近にいて、活動を待ってくれている人がいて、本当に幸せ者。それと、今回改めて自分が作品を作るのが好きだと分かりました。MVもレコーディングも、色々考えるのが本当に好き。どれだけ誠実に取り組めたか、どれだけ挑めたかを基準にやっていきたいですね。
真貝聡

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