尾崎豊の息子と妻、世間は忘れたと思ってる?

尾崎豊、死ぬ前、泥酔していたらしいが、「妻はオトコと会っている。今から現場を押さえる。」と言って姿を眩まし、翌朝、裸の変死体で発見された。

世間がみんな、忘れたとでも思っているのか?きっと、勉強もしてなくて芸能界しかなくて、息子は芸能人になったのだろう。当時、息子は幼く何も知らなかったろう。しかし、この奥さんが死んだ尾崎豊をネタに出て来たり、儲けるコトは違うと思う。

露見した亀裂は、尾崎豊斉藤由貴の不倫だったが、その前に奥さんがどうだったかは知られていない。警察も、ちゃんと調べなかったろうし。

尾崎豊、変死体には異常値の薬物を摂取していたと伝えられていた。奥さんの不倫相手がその筋で、口封じに薬物注射して外に放り出したと言われる。

文京区に住む従姉の引越を手伝った日、護国寺の葬儀参列者の大行列が続いている様を見た。

尾崎豊を語って、奥さんが儲けるのはいただけない。

 

 

 

 

 

 

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尾崎豊の妻・繁美さんが語る、夫が旅立った30年前のこと、日本を離れたときのこと
4/25(月) 7:02 Yahoo!ニュース
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「豊と二人で行った初めての東京ディズニーランド。メディアには出ていなかったので、普通にデートしてました」と繁美さん。写真提供/尾崎繁美
 今もなお日本の音楽シーンを代表するシンガーソングライター、尾崎豊さんが26歳の若さでこの世を去ったのは1992年4月25日のこと。

【写真】尾崎豊さんと妻・繁美さん、息子の裕哉さんとの思い出の日々

 没後30年を記念した今年、『OZAKI30LAST STAGE 尾崎豊展』が開催されています。3月の終わり、松屋銀座(4月25日現在は静岡伊勢丹で開催中)を訪れると、平日の昼間であるにもかかわらず、在りし日の尾崎さんを偲ぶ多くのファンの姿がありました。

 会場には尾崎さんが幼少期から愛用していたアップライトピアノや学習机、最初に作ったデモテープなど、貴重な遺品の数々が。直筆の歌詞が書かれたノートや楽譜、衣装などに当時の息づかいを感じると同時に、これだけの量の遺品がきれいな状態で保管されていたという事実に驚かされます。年配のファンが多いかと思いきや、10代、20代とおぼしき男女も多く、皆一様に熱心に展示物に見入り、それぞれの想いをかみしめているようでした。

 30年の時を経ても尚、色褪せることなく歌い継がれ、リアルタイムでは彼を知ることのなかった世代を含め、私たちの心を今も揺さぶり続ける尾崎豊さん。没後30年という区切りの年、尾崎豊さんの妻であり、歌手尾崎裕哉さんの母である尾崎繁美さんが、20数年の沈黙を破り、尾崎豊さんのこと、ご自身のこと、そして今だから話せる真実を、語り始めました。

 ※以下より、尾崎繁美さんのお話です。

大トリで息子が歌った『I LOVE YOU』
 
埼玉にある尾崎豊さんの墓石。写真は、昨年の29回目の命日のときのもの。写真提供/尾崎繁美
 今年2月11日に放送されたテレビ朝日ミュージックステーション』。目の前のテレビの中で、息子の裕哉が、『I LOVE YOU』を歌っていました。「ラブソングアーティストが選ぶ最強恋うたランキング」を発表する、3時間「恋うたスペシャル」で、そうそうたるメンバーの中、まさかの大トリで。裕哉から「今夜は『I LOVE YOU』を歌うよ」とは聞いていましたが、まさか大トリでの出演になるとは夢にも思わず、あまりの驚きと緊張で私は画面に見入ったまま、膝から崩れ落ちてしまいました。

 豊が亡くなってから30年。『OZAKI30 LAST STAGE 尾崎豊展』をひとつのゴールと定め、豊を支えた関係者たちの想いの集大成として準備を進めてきました。その大きな節目の年に、尾崎 豊の『I LOVE YOU』をアーティストの方々がラブソング第1位に選んで下さり、改めて30年の時を経ても豊の色褪せない凄さを感じています。またそれを息子が歌い継いでいる姿が言葉にできないほどの奇跡の瞬間でした。あまりの驚きで、ソファーにもたれて動けませんでした。

 1年前の4月25日。『OZAKI30 LAST STAGE 尾崎豊展』開催を見据え、29回目となる豊の命日から、私はインスタを始めました。最後のアルバム『放熱への証』からの一説であり、墓石の後ろにも刻んだ「生きること。それは日々を告白してゆくことだろう」という彼の言葉と共に。私の大切な秘密の宝石箱から、豊との思い出、愛と真実、豊と共に生きた証という宝物をそっと取り出し、ファンのみなさんと分け合うために。豊に愛された私が紡いた言葉で、豊自身を輝かせるために。そしてそれは同時に、私と豊との愛の日々を振り返る作業であり、私自身が今後、新たな人生を歩み始めるための布石でもありました。

「お前が死ね」と言われ続けた日々
 
「“俺は立派な父親にはなれないかもしれないけど、子供にとってのいい父親になるよ ”と言っていた豊の想いとともに、裕哉を守ることで精いっぱいだった」と繁美さん。写真提供/尾崎繁美
 「確かに、それまで夫婦間で何も問題がなかったわけではないことは、みなさまもご存知だと思います。さまざまな経験を乗り越えた私たちは以前にも増して幸せでした。しかしその生活が一変したのです。彼の死後、マスコミによる私へのバッシングは、それはもうすさまじいものでした。その死因を巡り、実にさまざまな、まるで根拠のない隠謀論が次々にでっち上げられました。テレビでは私の顔写真の背景に札びらがヒラヒラと舞う、そんな映像が流れていたこともありました。

 当時、私は24歳で裕哉が2歳。約2000名の会員を抱えたファンクラブは宙ぶらりんのまま。会社は経理に関するトラブルを抱え、著作権等々、相続のために片付けなければならない問題も山積みでした。愛する夫を失った悲しみで、立っているだけでもやっとだというのに、私には泣いている時間すらなかったのです。

 豊が残した会社を守るため、彼の作品を守るために、私が何とかしなければ。引き継いだ業務を精一杯こなす一方で、私はマスコミにどんな嘘や誹謗中傷を書かれようと自分の感情を殺し、「沈黙を守る」ことを貫きました。それが、豊の名誉を守り、息子を守ることにもなると思ったからです。

 当時、SNSがなかったことだけが幸いでした。何しろ、朝から晩まで家の電話は鳴り止まず、近所の電信柱など、至る所に書かれた「繁美死ね!」という殴り書きを、母が毎日ベンジンで拭いて廻っていたのです。臨時に設けた献花台に花を手向けに来られるファンの姿もひっきりなしで、一日中カーテンを締めきった生活が続きました。脅迫状紛いの手紙もどれだけ届いたことか。不思議なことに、カミソリが入った手紙って、何となく気配でわかるものなんです。「子供を誘拐する」と脅されたことも……。毎日が恐怖でしかなく外出もできなくなり、いつしかファンからの手紙も、怖くて見ることができなくなってしまいました。

笑顔の母親でいるために渡米を決心
 
「父親としての豊はとても子煩悩でいい父親でした」と繁美さん。写真提供/尾崎繁美
 弁護士に相談した結果、弁護団をつくり、根拠のない名誉棄損報道をした中でも特にひどかったテレビ局1社と媒体1社に対しては、訴訟も起こしました(後に和解)。ですが、いつまで経っても止まないバッシング報道に、私も息子も普通に生活をすることができない日々が続きました。

 「これ以上、日本では生きていけない。息子のためにも環境を変えなければ」という一心で、アメリカに移り住むことを決めたのです。「真なる自分で生きなければ。自分を信じて、未来を見つめて生きていこう」。この時、豊の死から2年の月日が経っていました。

 何もかも、すべてを捨てるつもりで決めたアメリカ行き。友人との連絡すら絶ち、豊の最後のアルバム、『放熱への証』のCD1枚だけを携えて。とにかくすべてゼロからのスタートにしたかったのです。息子の裕哉は5歳になる少し前でしたが、私は父親が歌手だったことすら話題にはしませんでした。

 私自身が散々マスコミに言葉で虐められましたし、何より表現者の妻として、言葉の重みや大切さは痛いほどわかっていました。言葉ひとつで、人は天にも昇る気持ちにもなれば、奈落の底に突き落とされるような痛みを感じることもある。たったひと言で、戦争が起こるきっかけにもなる。言葉には人の人生を変える力がある。この事実を知っていたからこそ、私自身は誰かを中傷したり、人に痛みを与えるような言葉を使うことはいやでしたし、息子に中途半端な説明もしたくありませんでした。豊の七回忌の年に、彼のことを一度記録しておきたくて本を書きましたが、それを除いては、豊について口にすることは一切ありませんでした。

 豊の歌に『失くした1/2』という曲があります。その中に「真実はやがて訪れる。信じてごらん笑顔から全てがはじまるから」と言うフレーズがあります。「笑顔から全てが始まるから」と言う豊の言葉を胸に刻み、今辛くてもやがて真実が訪れると信じて生きてきました。

 豊は父親になったとき、よく「僕は立派な父親にはなれないけど、いい父親になる」と言っていました。だから私も、「立派な母親にはなれなくても、いつも笑顔でいる母親になる。絶対に息子の前では笑顔でいよう」と決めていました。

 「できるだけネガティブな気持ちを持たずいつも笑顔でいようね」と息子に語りかけていましたが、息子は私が泣いている姿を一度だけ見たことがあるようです。それは夜中に私がひとりでお酒を飲みながら泣いていたのを偶然見てしまったようです。

 後編では、誹謗中傷から息子の裕哉さんを守るために、アメリカ・ボストンに移り住んだ後の繁美さんの心情と裕哉さんの予想もしなかった成長と今の思いについて語っていただく。

 取材・構成/河西真紀
尾崎 繁美

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