GT-R、AE86、NA、ランクル

別に、伝説と言うモノではない。

KPGC10のスカイラインGT-Rがポルシェ906(だっけ?)に並びかけ、一時前を走ったのは、スタイリングからして奇跡に近く、ドラマであり伝説に昇華した。でも、それはあの当時のレギュレーションのせいであり、偶然に近い。

R32スカイラインGT-Rは、グループAレギュレーションのアナを突き、圧勝できる装備を標準化したクルマを投入した。その時点で負けるハズはなかった。フツ~に、大人が赤子の手を捻るように圧勝した。グループAは散会した。感動もドラマもない。レースはスペック設定時点で終わっていた。

AE86レビン/トレノ、ライターは知らないのか?プロダクションレース、土屋圭一や織戸学谷口信輝らのドライビングで、人気を博した。しげの秀一頭文字D」は遥かに後だ。マンガが伝説になど、なりはしない。

NAロードスター、別に伝説もエピソードもない。単に、コレだけを作った。共用する2+2クーペの発想もなかった。長く作り続ける意図はなかった。

ランクル警察予備隊用車両としてのルーツらしいが、ハマー的なイメージ?ランボルギーニチータもそういう始まりじゃなかった?採用されなかったっけ?

 

 

 

 

 

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ただの「いいクルマ」では足りない! 伝説があってこその名車! GT-Rロードスターハチロクランクルが愛される理由
4/28(木) 17:20 Yahoo!ニュース
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愛されるクルマにはストーリーがある
GT-Rは、クルマとは関係ないアイテムとのコラボグッズなども登場しているほど、長年幅広い世代に愛されているスポーツカーの象徴的存在だ。これほどまでに伝説的なエピソードを有しているクルマは珍しい。
 誕生から50年以上経っても、世界中に熱烈なファンがいるGT-R。世界でもっともたくさん量産されたライトウエイトスポーツカーとして、ギネスにも認定されているロードスター。日本には数々の名車がありますが、なかでもトップクラスの熱烈ファンを持つのが、GT-Rロードスターハチロクランドクルーザーではないでしょうか。これらのクルマはいったい、ほかの旧車となにが違うのか、なぜこんなにも愛され続けるのか、その理由を探ってみたいと思います。

【画像】TE71のフロントスタイリング!

 まず共通するのは、どのクルマにも積み重ねてきた歴史があり、ストーリーがあるということ。とくに、誕生秘話などで苦労した末に壁を打ち破って完成したというようなストーリーは、クルマ好きではない人にも勇気を与え、ビジネスマンの胸にも響くものがあります。どのクルマも、その概要だけでなく開発者にまつわる本や漫画などが出版され、広く伝えられているのも特徴。またAE86のように、そのクルマが主人公の愛車として描かれ、さまざまな魅力が拡散されていったものもありますね。

 そしてもう1つ、GT-Rのように勝負の世界で勝つという、多くの人に感動をもたらすドラマがあることも、愛され続けるクルマの条件と言えるでしょう。モータースポーツだけでなく、なにか一つでも「他車に負けないもの」があるということが、人々を惹きつける要素となっているのだと思います。

 たとえばGT-Rは、ポルシェに勝つために生まれたクルマでした。ツーリングカーレースで通算57勝の大記録を打ち立てたハコスカ。豪雨の富士スピードウェイで、高橋国光さん駆るハコスカが2位以下を全車ラップ遅れにして優勝した日本グランプリは、今もファンに語り継がれている伝説です。

 こうしてファンを増やしてきたGT-Rは、1973年のオイルショックや厳しい廃ガス規制などの逆風に遭い、一時、モータースポーツの前線から遠のいてしまいます。ファンたちが待って待って待ち焦がれていたところに、16年ぶりの復活で超絶パフォーマンスを伴って登場したのが、R32GT-R。それはもう、生まれながらにして伝説の存在となることが運命付けられていたような衝撃だったのです。それ以降、R32GT-Rを超えるスカイラインはないと言わしめるほど、熱烈なファンが今も多く存在しています。

 さて、同じ“走りの頂点”でも、峠を舞台にした走りの頂点として人々を魅了したのが、AE86ことカローラレビン/スプリンタートレノ。販売チャンネルが複数あった関係で、ほぼ同じクルマでもカローラ店トヨタオート店で名前がちがいましたが、どちらもAE86型として熱烈なファンを持つ1台です。1983年の発売当初は、安価な価格でもそれなりにパワフルな走りが楽しめるFRとして、走り好きな若い世代に人気でしたが、それほど大ヒットしたわけではなかったのです。それが爆発的人気となったのはやはり、漫画『頭文字D』の影響。主人公と同じように、ボディを白と黒に塗り分けたハチロクをあちこちで見かけるようになり、ドリフト練習場などでも一気にその姿が増えたのです。

 ただ、もともとそれほど販売台数が多かったわけではなく、とくにスプリンタートレノの方は希少車と言ってもいいほどですが、プラットフォームを共用するTE71カローラの部品が流用できたり、自分で安価にいじって楽しみたい人のオモチャ的なクルマとしてもぴったりなクルマ。今では、コツコツといじりながら大事に乗るという、大人の趣味グルマとして定着しています。

ロードスターの「人馬一体」は初代から受け継がれている
 
マツダロードスターは、「人馬一体」の四文字が象徴するライトウェイトスポーツの鏡だ。また、マツダの顔的な存在でもあり、メーカーが初代ロードスターのレストアプログラムを用意するほどで、どれだけ愛されているかよくわかる代表例だ。
 モータースポーツの世界ではなくても、他のクルマには負けないものを持っている、という大きな魅力があるのがマツダ・ロードスター。それは30年以上経過しても変わらない、「ライトウエイトスポーツ」であり続けることに尽きるでしょう。マツダ社内では今でも、その頭文字であるLWSという単語が日常的に使われているそうです。また、1989年に初代ロードスターが誕生するまでの経緯には、数々のストーリーがあり、そのどれもが人々の胸を打つものです。

 例えば、今も受け継がれている「人馬一体」という言葉。これは初代ロードスターの開発主査を務めた平井敏彦氏が、クルマと人の一体感、クルマを操る適度な緊張感、Fun to Driveな走り感、打てば響くダイレクト感、これらを統合したものが人馬一体であると表現して、ライトウエイトスポーツの開発テーマとして用いたものです。

 そして平井主査はその実現のためなら手段を選ばない、まさに前例のない開発を進めていったと言います。1つのエピソードとして、200万円以下のクルマに高コストのアルミボンネットを設定したり、社内規定より車高を下げたり、といったことを納得させるために、平井主査は野球のバットを持って各部署を回ったと言います。周囲は「殴り込みか?」と慌てたところそうではなく、バットは太い方を前にして振ると重くて回しにくいが、細い方を前にして振ると簡単に回せる、ということをやってみせて、説得したということでした。こうしたエピソードがいくつもある初代ロードスターは、やはりいつまでも特別な存在として愛されているのだと思います。

 そしてそれは、ランドクルーザーにも通じるものがあります。ルーツとなるトヨタBJ型は、当時の警察予備隊に向けたオフロード車として誕生。走行試験で、なんとトヨタBJ型は自動車として初めて、富士山6合目までの登坂に成功しています。

 1951年7月のこの日から、数々のランクル伝説がスタートしたと言ってもいいでしょう。「行きたいときに、行きたいところに行け、必ず帰って来られる」というユーザーの願いを叶えるため、現地現物を基本として要望を聞き、状況を確かめ、ひたすら改良を続けるという真摯な開発を繰り返してきたことそのものが、ランクルの歴史となっているのです。その結果、絶対的な信頼性はもはやライバル不在とさえ言われる存在に。以前、モロッコサハラ砂漠でツアーコンダクターをしている現地の男性に聞いたところ、「ランクル以外に乗る人の気が知れない」と言われたことがあり、それほどの信頼性なのだと衝撃を受けました。日本の自動車メーカーが、このような誇らしい存在として世界のあらゆる道を走る人たちを支えていることは、本当に素晴らしいことだと思います。

 ということで、愛され続けるクルマにはそれ相応の理由がありますね。そのエピソードや歴史を伝えていくことも、私たち日本人の役割なのかもしれません。
まるも亜希子

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