ミドシップフェラーリの系譜

ランボルギーニがTP400やミウラを発表した頃、フェラーリデイトナを出す時期だった。ル・マンフェラーリ330PはフォードGT40に負けたが、フォードが市販ミドシップを出すワケでもなく、エンツオは気にも留めてなかった。

しかし、イタリアでエンツオがフェラーリを追い出したエンジニア達(ピッザリーニやダラーラやスタンツァーニら)がランボルギーニに雇われたり技術参画して、フェラーリに対抗するクルマを作り始めたコトで、ムカムカし始めた。

そんな時期に、ランボルギーニが当時のF1で採用された横置ミドシップV12を市販に出したコトで、焦りを感じた。横置ミドシップ自体は、亡き息子アルフレッドからも進言があり、V6/V8ディノや308GTBらも作ったが、12気筒はなかった。ソコで、デイトナ後継車種として、ミドシップ12気筒を急ぎ作るよう命じた。

当時のフェラーリにとって、レースで培った技術でない横置V12をやる気はなかった。かと言って、デファレンシャルとミッションとエンジンを直列に並べるとレイアウトが厳しく、ミッションとエンジンを2階建にした。フツ~にV12だとエンジン高が高くなるため、水平対向(180度V)12気筒にした。

こうして誕生したBBは、フロントラジエーターで12気筒エンジンを縦置した以外、前後カウル分割まで、ランボルギーニミウラ的だった。その時期、ランボルギーニはフロントを薄くするために、エンジン斜め上にラジエーターを置くサイドラジエーターにした。

フェラーリは後継モデルたるテスタロッサでサイドラジエーターにし、512TR⇒512Mへと引き継いだ。

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ランボルギーニがエンツォの心に恐れを産み付けた! フェラーリ「V12ミッドシップ車」の誕生秘話
4/30(土) 17:31 Yahoo!ニュース
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ミウラの存在がなければ誕生しなかったかもしれないフェラーリ
 
365GT4BBはミッドシップフェラーリとして世に放たれた、同社にとって革命的なモデルだ。この1台が登場した背景にはランボルギーニの存在があるという。
 それまで12気筒のロードカーにおいては、頑なにフロントエンジンの基本設計を貫き通してきたフェラーリ。そのフェラーリが一転、365GT4BBでミッドシップへと大幅な意識改革を行った理由。それを遡っていけば、たどり着くのはおそらくは1965年のトリノ・ショーで、ランボルギーニが出品したV型12気筒とベアシャシーのみのプロトタイプ、TP400に行きつくのではないだろうか。

【写真】フェラーリ512BBのフロントスタイリング!

 エンツォ・フェラーリの胸中が穏やかなものではなかったことは想像に難くない。一方のランボルギーニとて、このTP400をベースにどのようなモデルを製作するのかさえ、まだその具体的な像は見えてはいなかったが、あるいはモータースポーツへの進出さえ狙うかの如き、その不気味な姿は、エンツォの目には驚異の存在だっただろう。

 かくして新型12気筒ミッドシップの開発をスタートさせたフェラーリだが、それでもそのプロジェクトの立ち上がりは1969年春のことだったというから、この時すでにランボルギーニミウラは市場にあった。そのミウラよりも美しく、そしてもちろん高性能なミッドシップスポーツを生み出すためにまず必要とされたのは、新型エンジンの開発。

 バンク角を180度まで開いた12気筒エンジンは、見た目には水平対向12気筒にも見えるが、実際には「Boxer」というネーミングが与えられているものの、対向するシリンダーでクランクピンを共通するV型12気筒エンジンである。当時フェラーリは、F1においてもフラットタイプの12気筒エンジンを搭載していたから、それはフェラーリにとってもっとも大きな宣伝効果を生み出した。

 最初のBB、すなわち365GT4BBが正式に発表されたのは1971年のトリノ・ショー。軽量化やエアロダイナミクスにおいても多くの新しい技術を導入して製作されたこのモデルは、ランボルギーニミウラがそうであったように、当初は限定販売を前提とした実験車的な役割を果たすモデルとしてフェラーリでは考えられていたようだが、トリノ・ショーでの評価は非常に高く、実際には1973年から1976年までに387台が生産されるに至っている。

 ミッドに搭載されるエンジンは、前で説明したとおりバンク角180度のV型12気筒DOHC。組み合わされる5速MTの直上にそれを搭載するという、きわめて特徴的なレイアウトが採用されていた。それによる重心高の高さが、コーナリング時に与えた影響はやはり大きかった。

 1976年になると、フェラーリはこの365GT4BBをマイナーチェンジし512BBへと進化させる。ミッドのV型12気筒エンジンはそれまでの4.4リッターから5リッターに拡大され、軽量化のために使用されていた高価な素材も、一部では一般的なスチールやアルミニウムに置き換えられた。

 365GT4BBで380馬力を掲げた最高出力は360馬力にダウン。この時代、年々厳しさを増す排出ガス規制に、スーパーカーの世界は翻弄されていくなか、929台が生産された。さらに1981年には、ボッシュ製のKジェトロニックを搭載した512BBiが誕生。

 5リッターエンジンの最高出力は340馬力に抑えられたものの、それでも最高速度の公称値は280km/hと、当時のスーパースポーツとしては第一線の実力を誇った。生産台数は1984年までに1007台とされている。

V12ミッドシップというレイアウトはテスタロッサに継承された
 
未だに語り継がれる名車「テスタロッサ」も12気筒エンジンだ。それも、180度V型12気筒というかなり凝った仕立てとなっている。
 そしてBBシリーズで、180度V型12気筒エンジンのミッドシップを実現したフェラーリは、1980年代に入る頃から、その後継車の企画、開発に入ることになる。基本設計はもちろんミッドシップのままで、搭載エンジンも5リッター仕様の180度V型12気筒。これに、やはりKジェトロニックを組み合わせたヨーロッパ仕様では390馬力の最高出力を達成した。それがテスタロッサだ。

 エクステリアデザインの特徴は、もちろん左右のドアからリヤフェンダーにかけてのスリット状のエアインテーク。サイドミラーはファーストモデルでは左側のAピラーセンターにひとつ装着されえていたのみだったが、それは1986年には左右のピラーの根本にレイアウトと数が変更されている。センターロックホイールを持つのもファーストモデルを見分ける特徴のひとつである。

 そのマイナーチェンジ版である512TRは、フェラーリが重心高の高さや前後重量配分など、スポーツカーとしての基本的な設計を見直した意欲作だった。最大の特徴はスペースフレームを一体式に改めることなどによって、エンジンの重心高を低下。同時に前後重量配分もリヤに59%とする改善を行うなど、よりスポーツカーとしての操縦安定性を高める仕様変更を行ってきた。

 エンジンは最高出力で428馬力。タイヤは18インチ径となり、ハンドリングはテスタロッサから驚くほどに高まった。ちなみにフェラーリは、この512TRで313.8km/hの最高速を公称している。

 180度V型12気筒エンジンをミッドに搭載した最後のモデルはF512Mだ。M=モディフィカータの文字が物語るとおり、512TRのマイナーチェンジモデルとして誕生したF512Mは、前後の灯火類やボンネット上のNACAダクトなどが外観上の特徴。エンジンは5リッターのままだが、バルブスプリングは追従限界が1万rpmというバリアブルピッチのものに、またコンロッドなどにはチタンが使用されるなど、その内部での進化は着実に進められている。

 最高出力は440馬力。365GT4BBの380馬力で始まった、フェラーリの180度V型12気筒エンジンは、途中パワーダウンなどの憂き目に遭いながらも、最終的にはここまでの進化を遂げるに至ったのだ。

そしてフェラーリは、このF512Mの後継車、すなわち次世代のV型12気筒2シーターを、ミッドシップではなく、再びFRの基本設計でデビューさせることを決断する。

 1970年代から1990年代までを生きた、そしてスーパーカーの象徴ともいえるフェラーリのV12ミッドシップ。現在ではF50、エンツォ、ラ・フェラーリといったスペチアーレの象徴ともなっている設計だが、世界的に電動化の方向に舵を切りつつある今、フェラーリV型12気筒エンジンを使ったスペチアーレを、将来生み出してくれるだろうか。それもまた我々の大きな興味の対象なのだが。
山崎元

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