山本昌広、サイドとスリークオーター、どちらが良かった?

中日山本昌、誰でも知ってる。中日にプロ入り当時は、左の(アンダー気味の)サイドスローだった。あの当時、吉森みき男「しまっていこうぜ!」や水島新司野球狂の詩」などで、左のサイド/アンダースローが描かれていたし。

それが、アメリカ留学してオーバースローというか、スリークオーターにチェンジして帰って来た。当時は、デカいがスピードあるワケでもなく、左からのタマ筋とスクリューボールが切り札だった。以後、使える変化球を増やし、同僚今中らより遥かに長く現役を勤めた。あのカクカクフォームのせいか、故障も多くて、稼働年数は工藤公康に近かったが。

しかし、山本昌、左サイドスローのままだったら、日本に帰らずメジャーでデキたのではなかった?ただ、あの当時はストレートがそれほどでもなく、左サイドからのカーブが武器だったハズ。先駆者村上雅と接点なかったのか、或はR・ジョンソンと接点あれば、サイドからの強いストレートとカーブとスライダーで、とんでもないサイドスロー投手がデキていたのではないかな?

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山本昌氏 現役時代にメジャー球団からのオファーがあったことを告白「とても出れる雰囲気じゃなかった」
5/22(日) 10:52 Yahoo!ニュース
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山本昌
 中日ひと筋に50歳までプレーした伝説の左腕投手で、野球解説者の山本昌氏(56)が22日放送のフジテレビ「ボクらの時代」(日曜前7・00)に出演。現役時代にメジャー球団からの誘いがあったことを明かした。

【写真】1988年8月30日の広島戦、マウンドで中日の星野仙一監督からゲキを飛ばされる山本昌。この日、中継ぎでプロ初勝利を挙げる

 この日はタレントのヒロミと、親しい間柄だという騎手・武豊トークを展開。ヒロミから「メジャーは考えなかったんですか」と問われると、山本氏は「これね、あまり言ったことないんですけど、僕97年に最多勝獲ってるんですよ。その年に、お声がかかったんです。裏から。ちょうどFAだったんです」と告白した。

 だが「当時の監督が星野仙一さんだったんで、とても出れる雰囲気じゃなかったと。それで終わっちゃうんですけど、話」と苦笑。武から「どうですか。行きたかったなあって感じ?」と聞かれると、「どうかなあ」と考え込んだ。

 「僕、もっと前に、88年にアメリカ留学してて。日本に帰って来る前に実は大リーグから誘われてるんですよ」とも明かし、「僕じゃなくて、(その後)野茂(英雄)くんがパイオニアとして活躍してくれて本当に良かった」と山本氏。「僕だったら“日本のピッチャーこんなもんか”と言われちゃったかもしれないんで。野茂だから新人王獲って、オールスターでも投げて、ノーヒットノーランやってって。“日本のピッチャー凄いな”っていうのがあったんですけど、最初が凄かったんで」と脱帽した。

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