江川卓が怪物だったのは・・・あの20勝の年まで!

江川卓作新学院高時代は甲子園などの放送アングルのせいか、バックネットからではタマのスゴさが見えなかった。ただ、カレのピッチングフォームと打者が空振りしているのしか見えなかった。ただ、阪急-広島の日本シリーズ山口高志のストレートのスゴさは見えた。もし、江川卓が阪急の1位指名を蹴らなかったら、本来、あの場所にカレもいるハズだった。山口高志江川卓、剛速球と快速球、高めストレートの競演を見る貴重なチャンスを当人達だけでなく、阪急、NPB、日本プロ野球ファン、全野球ファンが失ったのだ。

日本プロ野球東京六大学も、野球放送のカメラがバックスクリーンややレフト寄りからに変わって、タマ筋が見やすくなった。その時、江川卓は法政大、既に肩の故障を経験し、カーブを多投するスタイルに変わっていた。

法政大卒業したドラフト、1位でライオンズが指名!当時はワタシは福岡に住んでいて、東尾の後継者をほのかに期待した。もう、クラウンライターから西武への身売りも決まっていて、江川卓は栃木の自宅から軽井沢に通う可能性すらあった。クラウンライターや西武が、本気で口説いたのか?江川卓の将来を本気で考え、阪急やライオンズに入団するメリット検討を親族は考えなかったのか?

結局、ライオンズ指名も蹴って、1年浪人した。デカかったが、ぶよぶよ太っていた。空白の1日に、船田代議士介入の上、巨人と電撃契約⇒金子コミッショナーは却下⇒巨人はドラフト会議ボイコット⇒江川卓阪神が1位指名⇒金子コミッショナー阪神江川卓と巨人選手のトレードを提案⇒阪神江川卓⇔巨人小林繁トレード成立という経緯で、巨人入団デキた。

しかし、入団当初、デビュー戦の阪神戦は140キロも出なかった。真弓やラインバックに放り込まれた。初勝利は広島戦、鼻血で降板してエース新浦がリリーフした。江川に依ると、カーブをタテ/ヨコ2種類持っているが、当時の吉田&矢沢捕手にはタテのカーブした使われず、ストレートとカーブしか持たない江川のピッチングバリエーションを狭めた。

2年目、捕手が山倉になり、江川自身がリクエストし始めた。試合立ち上がりはタテ/ヨコのカーブを多投、クルージングストレートでイニング消化し、走者が二塁に行くとギヤチェンジ、最終回だけは全開ラストスパートのピッチングパターンがデキ上がった。まだ、王貞治を筆頭にして、"江川の登板試合に打たない"巨人で、シーズン最終登板で最多勝を獲った。長嶋茂雄監督は3年優勝できなかったコトを理由に、解任された。

3年目、藤田監督と王助監督体制になった。さすがに巨人も優勝しないとヤバくなり、しかも王がシーズンに向けた山ごもり後に引退発表で、ナインは危機感を持った。投手の柱は西本聖定岡正二以外、江川卓しかいなかった。"江川の試合に打たない"ワケには行かなくなった。確か、この年だけ20勝5敗で、セ・リーグ優勝後、日ハムとの後楽園決戦で日本一胴上投手にもなった。カレの目標は、ほぼ果たされた。先発投手タイトル総ナメにしたが、沢村賞パ・リーグ江夏豊セ・リーグ西本聖だった。江川にとっても、沢村賞は"頑張っても獲れない賞"と見限った。

4年目シーズン中、CM録の際、倒れた機材が江川に当たり、肩を負傷した。以後、江川のピッチングパターンは、最終回打ち込まれ逆転されるコトも増えた。ヤクルト大杉勝男に同点打されたのが境だった。近藤中日に6-2から逆転された試合もあった。横浜大洋銀行にも、同級生遠藤にも、V逸決めたシーズン最終戦まで遅れを取った。

3年目に全てを証明した江川卓にとって、巨人の発信を藤田監督でなく"江川登板試合打たなかった総元締"王助監督がやるコトはガマンならなかった。本来、藤田監督の成果を、スポークスマン王助監督の成果のように報じるマスコミも不満だった。

6年目以降、助監督だった王貞治が監督になった。もはや、チームのために頑張る気はなかった。個人に必要な分だけ勝つ姿勢に変わった。1年目以外は2ケタ勝利、9年間の平均15勝は、歴代(堀内以後200勝はいない。)巨人エースとしても恥じる数字ではないが、日本一は1度、セ・リーグ優勝は3度、期待とは違った。西本聖に勝利数で劣り、開幕投手を剥奪された7年目オフには、王監督自宅に引退申し出に行ったが門前払された。

その後、自分とは違った意味で物議を醸した入団の桑田真澄が2年目頭角を現したトコで、引退する決意は固まった。広島小早川のホームランも、日本シリーズ西武ブコビッチに打たれて負けた最終登板も、ある意味付け足しだった。

 

 

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江川卓こそ「真の怪物」だ! 高校時代を改めて振り返ったらハンパなかった〈dot.〉
6/4(土) 18:00 Yahoo!ニュース
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高校時代は「50年に1人の逸材」との評価を受けた江川卓
 高校球界では、2010年代に大谷翔平、佐々木朗希が“夢の160キロ台”を実現したが、50年近く経った今でも“高校野球史上最高の投手”といわれているのが、作新学院時代の江川卓だ。

【写真】令和の「怪物」といわれる選手はこちら

「高2の秋が一番速かった」といわれ、「150キロ以上」とも推定されている江川の球は、数字には表せない凄みがあった。特に高めにホップしてくる速球は、ほとんどの打者がボールとわかっていても振ってしまう独特の軌道を描き、地方大会では当たり前のようにノーヒットノーランを連発。打者がバットに当てただけで、スタンドからどよめきが起きるなど、木製バットの時代という条件を差し引いても、まさしく“怪物”だった。

 江川の“剛球伝説”は、背番号17でベンチ入りした1年夏の栃木県大会から始まっている。

 1971年7月18日の2回戦、足尾戦、4回からリリーフした江川は、5イニングを7奪三振のパーフェクトに抑え、8回コールドの参考記録ながら、継投によるノーヒットノーランで公式戦デビューを華々しく飾った。

 さらに公式戦初先発となった7月22日の3回戦でも、足利工大付を8回3安打6奪三振の無失点に抑えたあと、翌23日の準々決勝、烏山戦では、2日連投の1年生が、なんと、栃木県大会史上初の完全試合を達成した。

 高校時代の江川の凄さを物語るエピソードのひとつとして知られるのが、正捕手・小倉偉民(現亀岡姓。衆議院議員)が故障で休み、控え捕手がマスクをかぶった試合だ。

 5回まで無安打に抑えた江川は「6回から本気で投げてもいいか」と声をかけ、第1球を投じた。

 ところが、江川の球に慣れていない控え捕手は、高めに伸びてくる球を捕球できず、ボールは球審のマスクを直撃。球審はむち打ちになり、急きょ「座っているだけでいいから」と小倉が駆り出されたという。

 だが、そんな「50年に一人」の逸材も、甲子園とはなかなかご縁がなかった。

 1年夏は県大会準決勝で宇都宮商に延長11回の末、惜敗。2年秋も不運に泣いた。関東大会1回戦の前橋工戦、江川は1回2死から10連続奪三振と付け入る隙を与えなかったが、1対0とリードした5回の打席で頭部死球を受け、そのまま入院。チームも逆転負けを喫した。

 さらに2年夏の県大会も、ノーヒットノーラン完全試合ノーヒットノーランと3試合続けて快投を演じたが、準決勝の小山戦では、9回まで無安打に抑えながら、延長10回に初安打を許し、0対0の11回にスクイズで無念のサヨナラ負けとなった。

 そんな不遇の日々を経て、江川が高校3年間で最大の力を発揮した2年秋がやって来た。

 県大会4試合で29回を無失点に抑えた江川は、関東大会でも1回戦で東農大二を6回1安打13奪三振無失点。甲子園出場がかかった準決勝の銚子商戦では、被安打1の20奪三振に切って取り、4対0の快勝。銚子商の各打者は、バットを短く持って食いつこうとしたが、打球は前に飛ばず、バントで揺さぶろうとしても次々にファウルになった。

 江川自身も「銚子商戦が私の最高の出来でした。あの一戦だけは落とせなかったものですから。センバツのためにも」と振り返っている。決勝でも横浜を4安打16奪三振で6対0と下し、“横綱相撲”で関東の覇者となった。

 そして、翌春のセンバツ、甲子園のマウンドに上がった江川は、全国のファンの前で、そのベールを脱ぐ。

 1回戦で北陽を2安打19奪三振完封、準々決勝の今治西戦も1安打20奪三振完封と、噂どおりの怪物ぶりを発揮。準決勝で広島商の機動力野球に敗れたものの、通算60奪三振は今も歴代トップで、まさに江川のためにあったような大会だった。

 だが、チームメイトが本塁打を打っても、騒がれるのは江川ばかり。いつしかチームはバラバラになり、打線もつながらなくなった。加えて、センバツ後は、全国から招待試合や練習試合の申し込みが殺到し、基礎練習や投げ込みもほとんどできないほど多忙なスケジュールに追われた。

 チームワークも体調も万全にほど遠い状態で、高校最後の夏を迎えた江川だったが、県大会で連日“異次元”の快投を見せる。

 初戦の真岡工戦は、21奪三振1四球でノーヒットノーラン。3回戦の氏家戦でも2試合連続ノーヒットノーランを記録も、捕手からの送球を一塁手がベースの前で捕球した結果、振り逃げの走者を許し、惜しくも完全試合を逃している。

 その後も、準々決勝の鹿沼商工戦、準決勝の小山戦のいずれも1安打無失点に抑え、決勝の宇都宮東戦では、高校通算9度目のノーヒットノーラン完全試合2度、ノーヒットノーラン7度)を達成したが、2つのエラーがなければ、パーフェクトだった。

 だが、県大会5試合で被安打わずか2と無双しまくった江川も、甲子園入り後は、別人のように球の切れを欠き、2回戦の銚子商戦で延長12回、雨中の押し出しサヨナラ四球という思わぬ形で敗れ去った。

 話は1球前に遡る。フルカウントになって、内野手がマウンドに集まってきた。「真っすぐを投げたい。それでいいか?」と尋ねる江川に、ふだん江川と口を聞かなかった選手も含めて、「お前の好きなボールを投げろよ。お前がいたから、ここまで来れたんだ」と声を揃えた。

 結果は大きく高めに外れるボール球になったが、最後の最後でチームがひとつにまとまったことに安堵した江川は、爽やかな気持ちでマウンドを降りたという。(文・久保田龍雄)

●プロフィール
久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。

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