84年モナコ、セナのコトしか語られないが・・・。

84年モナコ、薄っペラいモータージャーナリスト達には、A・セナしか語られない。

1、セナには追い付く可能性も、クラッシュの可能性もあった。

どのレベルのドライバーも、レーシングスピードで走る限り、リスクは高く雨では更にハネ上がる。セナは速いがクラッシュリスクも高い。プロストは雨がキラいだし、遅めでも安全に走っていた。実際セナは、後に88年モナコでも、ドライでブッちぎっていた最中にガードレールに刺さった。

2、A・セナの後方から、セナ以上のペースで追い上げていたS・ベロフ。

A・セナの追い上げは脅威だった。カレの追い越しは、抜かれる側や周囲にも接触道連れのリスクもある。セナ以上のペースで、ベロフが追い付いて来ていた。プロスト贔屓の主催者達、セナにベロフが先に追い付く期待、共倒れを期待したが、同時に追い付かれそうだった。プロストが3位になったら、或は3台共倒れリタイヤになったら・・・先にプロストを保護しようとした。

3、A・プロスト、メリットだけではなかった。

このモナコ、主催者権限でレースストップしたコトで、ポイントカウントが半分にされてしまった。レースの割合として、結構進行していたから、フルカウントでも良かったハズ。84年チャンピオンシップ、このポイント半分のせいで、N・ラウダに逃げ切られてしまった。

他に、F3から一気にステップアップしたドライバーとして

F3から一気にステップアップしたドライバー、マシンが一気にレベルアップするため、セナに限らず体力リスクは高いのだ。J・バトンもウィリアムズからデビューの時、似た感じだった。F3⇒F2やF3000経て徐々にステップアップするより、F3から一気にステップアップする方が、体力ドライビング共急成長覚醒する例も多い。

ちなみに、L・ハミルトンはGP2からの徐々ステップアップ組、F1とGP2の動力差が小さく、パワステやブレーキもF1の方が良かったため、マクラーレンデビューの時、最初からアロンソと近いペースで走れた。

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F1を乗りこなす体力がなかったセナ。伝説は雨のモナコGP"幻の優勝"から始まった
6/23(木) 12:00 Yahoo!ニュース
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ベストカーWeb
 非力なトールマンでデビュー。早々に傷だらけの6位入賞、そしてモナコGPではあわや優勝かと思われた活躍など……、当時チーフメカニックだった津川哲夫氏が間近で見た天才エヤトン(アイルトン)・セナについて振り返ってみたい。

【画像ギャラリー】当時の貴重な写真を公開!音速の貴公子と謳われたかつてのセナを偲ぶ(2枚)

文/津川哲夫
写真/池之平昌信、津川哲夫

悪夢のイモラ、タンブレロコーナー。波乱万丈のわずか10年
 5月になると思い出すのはエヤトン(アイルトン)・セナのこと。もちろん彼がイモラのタンブレロコーナーで命を絶った、その命日が5月1日だから。

 事故当時、現場上空にはいつまでもテレビ局のヘリコプターがホバリングを続け、ピットレーンには鉛の重さが漂い、誰もが口を閉ざし青ざめていた。筆者はこの重苦しい空気感を何度か経験していたので、残念ながら状況が最悪であることを察知してしまった。

 セナがF1を走ったのはわずか10年。1984年にデビューしてこのイモラまで、猛スピードで駆け抜けて行った。驚異の新人、ワールドチャンピオンへの挑戦者、そしてワールドチャンピオン、ライバルとの確執、3度のワールドチャンピオン……。最後、トップランナーとしてイモラのタンブレロに消えるまで、波乱万丈の10年だった。

驚異の新人エヤトン(アイルトン)・セナの登場
 セナのデビューは鮮烈で、84年のデビュー2戦目の南アフリカで新人ながら6位入賞の快挙。しかし彼はまだF1を乗りこなすまでの体力ができ上がっていなかった。ゴール後のパルクフェルメに到着後、消耗しきっていたセナはコックピットでほぼ気絶、自力でおりることができなかった。首はむち打ち症、手の甲は擦過傷、肩は脱臼一歩手前……満身創痍の状態でのゴール。まさに気力だけで走りきり、体力と気力を限界まで使い切っての6位入賞だった。

 レース後の夜、撤収作業中のピットに現れたセナは、ネックガードと腕をつった三角巾、さらに拳は包帯でぐるぐる巻き状態だった。我々の"ウェル・ダン"よくやったね!の声掛けに「とりあえず1ポイントは取れたのだから意味はあったね」とクールに答えていたのが実に印象的だった。つまり"入賞できなければ意味なし"と言い切るのだ、わずかデビュー2戦目の若造が!!

 しかしこの若造は翌ベルギーグランプリでも6位でフィニッシュ。しかし「レースは最低だった」と機嫌が悪い。既に到達している6位にはもはや意味がないと言うわけだ。一見高慢なこの若者は彼の意識が決して強がりでも見栄でもないことを第6戦、雨のモナコで証明して見せたのだ。

これがセナ伝説の始まりとなる雨のモナコ"幻の優勝"物語だ
 
1984年デビューの第5戦からこのトールマンTG184が使用された。ロリーバーンが設計したこのマシンでモナコで2位。第10戦イギリス・最終戦ポルトガルでも3位に入った
 激しい雨のレースで、13番手からスタートをしたセナは、あれよあれよと言う間に、抜けないモナコごぼう抜き、最終的にトップを走るプロストに肉迫。わずか数秒差まで追い上げ、ブレーキに不調をきたしたプロストに迫った。しかしここで競技長は雨足のひどさからレースを赤旗中断と判断。この結果順位は最終ラップでの順位ではなく赤旗が振られた前の周の順位がリザルトとなった。そしてセナは2位に甘んじたのだ。

 レース後パルクフェルメに到着したセナは荒れまくっていた。「勝てたのに、俺は勝てたのに!!」と怒鳴りながら脱いだヘルメットをコックピットに叩きつけていた。

 この赤旗にはいろいろな疑惑が投げられた。モナコはフランス人のプロストに勝たせたかったがゆえに……など、疑惑の赤旗として後世に語り継がれることになった。雨の中で圧倒的な速さを見せたセナ。あと1周でプロストを抜いていたら、セナが勝っていた。勝てなかったのは……などの陰謀論が語られ、物語はセナ伝説の極みを造り出した。

抜きんでた傲慢さをもつF1チャンピオン、セナ
 デビュー当時からセナのレースは波が大きく、その波は彼自身のメンタルからくるものが多かった。特にデビューイヤーは勝ちたい意識が先走り、強引なレースを展開、もちろんアクシデントの数も多かった。その後トップドライバーへと成長はしたのだが、レースの強引さは相変わらずで、速いマシンを得て自分が勝てる状況に入り込むとレース展開にかなりの傲慢さ、自己中心的なレースを展開し、これは93年まで変わることはなかった。

 数多いチャンピオンのなかでも、抜きんでた傲慢さをもつチャンピオンであった。それも天才的かつ繊細な見切りにも秀でていた。だからこそ限界を極め、常人では到達できない"限界超え"を自分の物にしていたのだ。

 ただし最後にはその見切りをも超えて限界の向こうの世界に足を踏み入れてしまったのかもしれない。それはドライブテクニック等ではなく、まさに精神世界の限界という話である。

天才レーサーであることに疑いの余地はないセナだが
 セナの伝説は、10年で3回ものワールドチャンピオンを獲得した"天才レーサーの悲劇の事故死"というキャッチによって誇張されてきたことは隠せない。もちろん天才レーサーであることに疑いの余地はないのだが。本当のセナに対峙することがないままに、奴はあまりにも速く駆け抜けていってしまった。まるでそれが幻想であったかのように……。

 津川哲夫
1949年生まれ、東京都出身。1976年に日本初開催となった富士スピードウェイでのF1を観戦。そして、F1メカニックを志し、単身渡英。
1978年にはサーティスのメカニックとなり、以後数々のチームを渡り歩いた。ベネトン在籍時代の1990年をもってF1メカニックを引退。日本人F1メカニックのパイオニアとして道を切り開いた。
F1メカニック引退後は、F1ジャーナリストに転身。各種メディアを通じてF1の魅力を発信している。ブログ「哲じいの車輪くらぶ」、 YouTubeチャンネル「津川哲夫のF1グランプリボーイズ」などがある。

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