スーパーカーブーム、ちゃんとわかってる?

ちゃんとスーパーカーブーム知ってる?

というか、池沢さとし週刊少年ジャンプ連載マンガ「サーキットの狼」をちゃんと知ってる?

連載は75年くらいから、3・4年くらいかな?27巻くらいだったと思うが。79年イメージで、ストーリー打ち切りになったと思う。78年F1から、ストーリーが雑に纏めにかかったし、その後、「ミッドシップ隼」とかは、週刊少年チャンピオン連載じゃなかった?確か、車田正美リングにかけろ!」は週刊少年ジャンプだったが、「聖闘士星矢」は週刊少年チャンピオンじゃない?集英社、扱い結構ヒドかったんじゃない?

サーキットの狼」、公道グランプリ⇒筑波Aライ模擬レース⇒流石島レース⇒富士フレッシュマンレース⇒日光街道レース⇒イギリスF3ブランズハッチ⇒モナコF3⇒78年F1(1戦のみ)⇒79年F1(1戦でストーリー終了)個人的には、四輪ドリフト、パワースライド、ブレーキングドリフト、慣性ドリフト、逆ドリフト、幻の多角形コーナーリング、ジャンピングターンフラッシュと、コーナーリングテクニックが衝撃だった。それが、F1になってから、ハショリまくった。一度別れたハズの谷田部幸雄の神風チーム・ゼロ戦に乗るのも意外だった。同僚の神藤隼人が元サッカー選手。飛鳥ミノルがポルシェF1フォーミュラーターボ7で1台エントリーだった。ゼロ戦007がシャシー剛性不足で、5・6位入賞目前リタイヤで1年出走なく、009で日本自動車メーカー共同で最強マシンにした。(ターボかNAかすら、説明なかったハズ。)風吹と飛鳥、同着チェッカーでストーリー終了した。

F1だったら、「JIN」の作者村上もとか週刊少年サンデー連載「赤いペガサス」で描いた77年F1、スポンサーの横暴やマシン開発やトラブルやコース攻略やタイヤ戦争など、色々描かれていた。登場人物も、当時のスタードライバーやP・フレールやB・エクレストンまで丁寧だった。主人公は稀少血液型ボンベイブラッドの日系イギリス人、赤馬研、グループ5などで活躍したカレがレース中事故で引退、メカニックをやっていたが日本のSVEチームからのオファーを受け、F1復帰。2人の同僚ドライバーが死に、自らもケガを繰り返しつつ、最終戦富士で奇跡の逆転優勝&逆転タイトル獲得というストーリーだった。

それぞれ、続編も書かれた。

池沢さとしは、週刊プレイボーイ連載で「サーキットの狼モデナの剣」を描いた。風吹裕矢は神風チームのゼロ戦しか乗らずF1を引退、飛鳥ミノルのポルシェF1の話はボカされ、神風チームで引退した形。風吹はホンダNSX、飛鳥はニッサンR32スカイラインGT-R開発に関わった設定。剣フェラーリは"飛ばないジャンピングターンフラッシュ"熱血のビクトリーターンを武器に疾走。風吹は早瀬左近の妹ミキと結婚したようだが顔出しNG、若い娘と不倫していた。剣フェラーリに寝取られたが。

村上もとかは雑誌GORO連載で「赤いペガサス・翔」を描いた。赤馬研の妹ユキと死んだ同僚ペペ・ラセールの息子、赤馬翔の話だ。87年国際F3000チャンピオン、88年からソアーズチームでF1デビュー、中盤シルバーストン(82年ココで赤馬研はクラッシュし死んだ。)でブレークした。鈴鹿で更なる進撃を期待したが、同僚はクラッシュし死亡。オーストラリアアデレードで、新テクニック"ペガサスキック"を編み出し、A・セナに勝って優勝してストーリー終了した。

また、山口百恵の歌「プレイバックパートⅡ」の歌詞に「緑の中を走り抜ける、真っ赤なポルシェ」という描写も登場、NHK紅白歌合戦では"真っ赤なクルマ"にされた。ちなみに、池沢さとしサーキットの狼」で、早瀬左近が白いポルシェ911カレラRSが公道グランプリでエンジンブロー後、赤い930ターボに乗り換えた。

池沢さとしサーキットの狼」では、実在の人物を出していた。切替徹は実際、レーシングサービスディノの代表、作品ではマセラティーボーラのドライバーだが、現実にフェラーリF40で常磐道で324キロ出したビデオを売って、警察に書類送検された。"潮来のオックス"関根英次は電飾看板屋オーナー、ミウラを所有していたが、飛鳥ミノルを描いたため、ランボルギーニイオタのドライバーにした。鈴木サトルはカーグラなどにも出て来た、ロータスクラブの会長。色々、面白かった。

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当時の少年はみんな夢中になった! カー消しにマンガ 1970年代の「スーパーカーブーム」って覚えてる?
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6/29(水) 20:00配信


マンガ『サーキットの狼』がブームに火をつけた
 1970年代後半、「スーパーカーブーム」と呼ぶ旋風が日本を駆け抜けました。  フェラーリランボルギーニロータス、ポルシェなど欧米のハイパフォーマンス・スポーツカーが「スーパーカー」と呼ばれて大人気となったのです。 【画像】あのころ夢中になった「スーパーカー」を画像で見る(41枚)

ランボルギーニカウンタック
 その呼び水となったのが、1975年(昭和50年)より週刊少年ジャンプ誌にて連載が開始された漫画『サーキットの狼』です。  同作品は、主人公の風吹裕矢がライバルと公道やサーキットで競うという内容です。“一匹狼”的にひとりで戦う主人公の強さ、登場するスーパーカーのカッコよさで、小学生や中学生などの子どもたちは、すぐに作品の大ファンとなります。  そこでポイントとなったのは、登場するクルマのほとんどが、リアルに存在するモノであったこと。  主人公の愛車となったロータス「ヨーロッパ」やフェラーリ「ディノ」をはじめ、ランボルギーニミウラ」、「イオタ」、「カウンタック」、「ウラッコ」、デ・トマソ「パンテーラ」、ランチアストラトス」、ポルシェ「911」など、登場するクルマは、当時の欧米のハイパフォーマンス・スーパースポーツそのものだったのです。  ファンになれば、その対象自体をより知りたくなり、より見たくなり、欲しくなるというもの。そのため、そうしたスーパーカー輸入車を販売する都市部のカーディーラーに、カメラを抱えた子どもたちが大挙して押し寄せる事態となりました。  また、人気にあやかり、『対決!スーパーカークイズ』といったテレビ番組や実写版『サーキットの狼』の映画なども制作されます。  子ども向けには、スーパーカーをかたどった「スーパーカー消しゴム」などの関連商品が多数登場します。当時、ビンのコカ・コーラの王冠(フタ)の裏にスーパーカーを描いた「スーパーカー王冠」も子どもたちの収集アイテムのひとつとなりました。  ちなみに「スーパーカー消しゴム」は、ノック式ボールペンのパチンと飛び出るノック部で、消しゴムを飛ばして競うという遊びが大流行します。

スーパーカーブームの1970年代後半ってどんな時代だった?

ロータス「ヨーロッパ」。マンガ『サーキットの狼』で主人公・風吹裕矢が乗るマシンとして有名になった
 また、リアルなスーパーカーを見られる展示会も、あちこちで開催されました。  1977年5月に東京・晴海で開催された「スーパーカー・世界の名車コレクション’77」には、4日間で約46万人が駆けつけています。  現在と比べれば、1970年代後半の日本では、クルマはまだまだ高級品です。とくに輸入車の数は多くないため、こうしたイベントでもなければ、漫画や書籍に登場するスーパーカーを近くで見ることはできませんでした。
 ただし、翌1978年以降、ブームは沈静化に向かいます。  あれほど大人気であった漫画『サーキットの狼』も1981年には連載を終了。振り返ってみれば、「スーパーカーブーム」は1976年から1977年の2年間をピークに、わずか3~4年で終わってしまったのです。  ちなみに、1976年から1977年にかけての日本の話題には、以下のようなものがありました。  政治では、「ロッキード事件田中角栄元首相の逮捕」が大きな話題となりました。芸能関係では、ピンクレディがデビューし、ペッパー警部」「SOS」「カルメン’77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド」「UFO」と大ヒット曲を連発。この時代の小学生は、皆こぞってピンクレディの踊りをマネしていました。  その一方、キャンディーズが「普通の女の子に戻りたい」と、涙の解散コンサートを当時の後楽園球場でおこなってます。  また映画では、アニメの『宇宙戦艦ヤマト』『八墓村』が公開されます。  八墓村のCMでの「たたりじゃ~」というセリフは、子どもたちにも大流行となりました。スポーツの世界では「アントニオ猪木VS.モハメッド・アリ異種格闘技戦」がおこなわれ、巨人軍の王貞治選手はホームラン世界新記録765号を達成しています。  ちなみに富士スピードウェイで日本初のF1が開催されたのも、この時代でした。 * * *  1950年代から1960年代へとつづいた高度経済成長期の後、2度のオイルショックで足踏みを強いられたのが1970年代前半の日本でした。  しかし1970年代後半になると、日本経済はショックを克服して成長へ。そしてバブルの好景気の絶頂となる1980年代へ向かって加速をしていきました。  そんな、力強い日本でブームになったのが「スーパーカー」だったのです。
鈴木ケンイチ************************************