未完の対局?山口高志vs江川卓!

誰が最も速いストレートを投げたと思うか?プロ野球ファンで、最も原始的に楽しい話題だ。

この問に、ワタシより前のヒト達は、東映の尾崎だと答える。あの当時、野球放送のカメラアングルがバックネットからで、タマ筋を見にくかった。しかし、山口高志のストレート、スゴかった。オールスターでも、王貞治始めセ・リーグの強打者に高めストレートで立ち向かい、ホップフライに斬った。上背も170センチちょいしかなかった。そのカラダをいっぱいに使い、大きく速く回転させ、爆発的にリリースした。江川卓の恵まれた大きなカラダをゆったり使い、素晴らしくスピンの利いたストレートとは別モノだった。

それだけに、江川卓や周囲が、あの当時の阪急ブレーブスをキチンと知ろうとも調べようともせず、頑なに巨人入団を押し通したコトが情けない。山田久志足立光宏の本格派/技巧派アンダースロー山口高志のマサカリストレート、ココに江川卓のピンポン球をホップさせたようなストレートが加わっていたら、阪急ブレーブスもV9以上できたかも知れない。いや、阪急のスカウト、黄金時代を築く情熱はなかったのか?巨人志望を聞かされ、尻込したのか?

達成されなかった、江川卓のNPB高卒入団、コレは三輪スカウト自殺に終わった新垣渚獲得失敗とも並ぶ。コレはNPB全体の未完の対局だったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

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大谷、佐々木よりもスゴイ…プロ野球界が驚愕した「伝説の剛速球投手」山口高志をご存じか
7/1(金) 7:02 Yahoo!ニュース
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写真提供: 現代ビジネス
 半世紀ぶりの全日本大学野球選手権のマウンド。『日本プロ野球史上、最も速い球を投げた投手』と言われる元阪急ブレーブス山口高志さん(72)が、東京ドームで行われた始球式に登場した時、身に着けていた母校・関西大学のユニフォームの胸マークには伝統の「W」の文字が復活していた。

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 山口高志という名前を聞いただけで、昭和のプロ野球ファンには、今でもその剛速球がすぐに蘇ってくる。プロ野球の阪急ブレーブスに入団した1975(昭和50)年の日本シリーズでは、ホップすると言われたストレートで広島東洋カープをねじ伏せ、シリーズMVPに輝いた。

 野球人生の中で最も球が速かったのは、大学時代かプロ野球に入ってからか聞いてみた。

たった一人で46勝を達成
 
1972年全日本大学野球選手権決勝で慶応大学を完封した山口高志氏(写真提供:関西大学
 「プロに入って1年目の状態がいい時。パリーグはお客さんが少なかったので、キャッチャーミットに入った時の音がよく響く。あれで少ないお客さんがワッと言うてくれた時は気持ちが良い。今日もボールに力があるのかなと思った」

 兵庫県の市立神港高で春、夏二度の甲子園出場を果たし、関西大学では4年間で通算46勝、年間個人最多勝利18勝、連続イニング無失点68、通算完封19勝など、50年経った今でも連盟記録として残る数々の大記録を打ち立てた。

 大学通算46勝と聞いてもその凄さはすぐに分からないかも知れない。大学野球はリーグに6チームが所属し、春と秋のリーグ戦で総当たりする。

 各大学との試合は3連戦で先に2勝したチームが勝ち点を挙げるシステムなので、リーグ戦でたとえ完全優勝しても最大で10勝。それを4年間、春秋8回のリーグ戦で勝ち続けたとしても最大80勝。そのうち一人で46勝するということの凄さは分かるだろう。

 特に大学4年生だった1972(昭和47)年の活躍は伝説となっている。春のリーグ戦、全日本大学野球選手権、秋のリーグ戦、明治神宮大会、第1回日米大学野球の全てでエースとして優勝し、前人未到の五冠を達成したのだ。

 日米大学野球では3勝しMVPにも選ばれた。それでもプロ野球各球団からの誘いを断ったのはなぜなのか。今だから話せるその理由を明かしてくれた。

 「黒い霧事件があったので、プロ野球に対して印象が悪かった。長嶋さんが活躍していたが、プロ野球は水物というイメージだった。大学4年の時に五冠を達成したのでやり切ったという感じがありプロを目指さなかった」

 黒い霧事件とは、1970(昭和45)年に野球賭博に関わったとして西鉄ライオンズの3投手がプロ野球界から永久追放された事件で、野球界に大きな衝撃が走った。

 大学4年の時のドラフト会議では、それでもヤクルトが4位で強行指名したが拒否して社会人野球の松下電器に進んだ。ドラフト指名の翌日にはヤクルトのオーナーが自宅にまで来て、山口さんの父親に金額が書かれていない白紙の小切手を提示したが、本人の気持ちは揺れなかった。

大学生を教えるのはプロより難しい
 
現役時代の王貞治氏(Photo by gettyimages)
 阪急ブレーブスでは入団から4年連続で二桁勝利を達成し、リーグ四連覇、日本シリーズ三連覇に貢献し、ブレーブスの黄金期を支えた。現役8年間でプロ野球通算50勝43敗、44セーブ。新人王、日本シリーズMVP、最優秀救援投手に輝き、オールスターにも4回選ばれた。

 プロ野球時代に最も印象に残る選手を聞くと、すぐに「王さん」という答えが返って来た。世界のホームラン王、王貞治さんだ。

 「王さんはマウンドから見た時のオーラ。そして足を上げたらインコースのキャッチャーミットが見えない。一緒にプレーした中では、福本さんのスライディングの速さ」

 大谷翔平や佐々木朗希など投手の速球が話題になる度に、決まってというほどいまだに山口さんが「日本プロ野球史上、最も速い球を投げた投手」と言われることについて、本人はどう感じているのか。

 「野村克也さんの(『一番速かったのは山口高志』という)一言で、レジェンドとして名前が残っている。それと藤川球児の『山口さんの(指導の)お陰で花開いた』というこの二人の言葉に感謝している。二人の言葉があったから今まで70歳を越えても野球に関われている」

 現役引退後は、阪急、オリックス阪神で投手コーチやスカウトとして33年間に亘ってプロ野球界に貢献した。そして高校や大学野球の選手を指導するために必要な学生野球資格を回復して、2016(平成28)年にアドバイザリースタッフとして母校の関西大学野球部に戻って来たのだ。

 大学に戻って来た理由は、母校愛だった。インタビューの際にもわざわざ去年の秋のリーグ戦で優勝した母校の記念Tシャツを着て現れた。

 「関西大学OBで往年の大スター鶴田浩二さんと桂文枝さんから可愛がってもらって、『恩返し』という言葉を何回も聞いた。鶴田さんは普通の時は私のことを『高志』と呼んでいたが、お酒を飲んで酔ってきたらすぐに『貴様』になる。『貴様がいま頑張れているのは、こうしてOBの人達が応援してくれるからやぞ』と耳にタコが出来るほど言われた」

 学業優先で選手たちが授業に出やすいように野球部の練習は朝、昼、夕方の三部制になっていて、山口さんは朝から夜まで毎日、学生たちの練習に付き合っている。

 大学野球部に指導者として復帰した当時、1年生の部員が4年生の先輩を“ちゃん”付けで呼んでいるのを聞いて「気分が悪くなって戻しそうになった」そうだが、現役部員の山口さんへの接し方について聞いてみると「おじいちゃん的な感覚でいるのでは」ということだった。

 長年プロ野球の選手たちを指導してきた山口さんに、アマチュアの学生への指導について聞くと「プロに教えるより大学生に教える方がはるかに難しい。大学生は、殆どのレベルが、今までやってきたことの間違いを元に戻してから色付けしていくから」と教えてくれた。

「野球人生の集大成が近づいてきた」
 
大学で指導する山口氏(撮影:関西大学野球部)
 指導する際に大切にしていることは「『継続は力なり』『限界の先に成長あり』『妥協の先には後悔ばかり』『栄光への近道はなし』これ全部、自分がやってきた野球人生の中で感じたことで、この4つを個人にあてはめて指導している」という。

 関西大学野球部では入部を希望する学生は基本的に受け入れており、部員は180人を超えている。その中には、子供の頃から野球をやりたかったが勉強のため諦め、大学でやはり野球がやりたいと初めて野球部に入ってくる学生もいるという。そういう学生たちにはどんな野球を教えたいのかと聞いてみた。

 「一回だけでもいいから、関大の練習試合用のユニフォームでもいいから着させてあげたい」

 自らも超一流のプロ野球選手として活躍し、プロ野球大学野球での指導にも関わって来た山口さんに、日米の野球界で大活躍している人気選手たちについても聞いてみると、その答えは明解だった。

 Q.オリックスでコーチとして一緒にやったイチローはどういう選手でしたか? 
 「試合が中止になった時に室内練習場で(イチローの打撃練習用に)よく投げた。どんなボールが行っても芯で捉える。アメリカであれだけの数字を残せる、あれだけ長くやれるとは思っていなかった」

 Q.大谷の二刀流はずっと続けたほうがいい? 
 「出来るものやったら。いつ二刀流を諦めるのかなと。(その時が来たら)ピッチャーを諦めたほうがいい。バッターなら毎日、お客さんが見られる。ピッチャー大谷よりバッター大谷の方が凄い」

 Q.佐々木朗希は大谷翔平を抜くか? 
 「ボールの速さは抜けないのではないか。今のままでは線が細い」

 大学野球界でもレジェンドである山口さんに、全日本大学野球選手権での始球式の依頼が舞い込んだ。全日本大学野球連盟では、選手権で優勝を経験した大学のOBに始球式をお願いしており、これまでにも東海大学の上田二朗氏(元阪神タイガース)、亜細亜大学山本和行氏(元阪神タイガース)らが始球式のマウンドに立っている。

 女性アナウンサーやタレントなどに始球式をさせるプロ野球に対して、OBに敬意を払う大学野球の取り組みは素晴らしいと思う。

 始球式で良いボールを投げるために、山口さんはグラウンドで投球練習を重ねた。そんな山口さんの意気込みに応えるために、野球部は昔の胸マークのユニフォームを作り、山口さんはそのユニフォームを着て始球式に臨んだ。

 そのユニフォームの胸には「KWANSAI」という伝統の校名が入っていた。現在では、大学体育会の各チームの表記名を統一するために「KANSAI」となっているのだが、後輩たちは敢えて「W」を付け加えた大学時代の背番号11の伝統のユニフォームを山口さんに贈ったのだ。

 「俺が『W』を入れてくれと言った訳ではないが、野球部のスタッフが『KWANSAI』という昔の『W』が入ったユニフォームを作ってくれた。やっぱり我々の世代に近いOBには『W』に思い入れがある」

 そして、伝説の“五冠達成”から半世紀ぶりのマウンドへ。その意気込みを聞くと

 「72歳になって、ボールも怖くなって来た年齢で、もうぼちぼち野球人生の終焉が近いのではないかな。幕引きに向かっていく段階かな。(始球式の依頼が来て)有難くて、嬉しかった」

 東京ドームに観戦に来ていた年配男性2人の会話に耳を澄ますと、「今日は山口高志が始球式をするらしいな」「そうらしいなあ」という声が聞こえて来た。その脳裏には、あの剛速球が蘇っていたのだろう。

 「KWANSAI」のユニフォームを着た山口さんの投球フォームは、全盛時を思い出させるものだったが、本人は投球がワンバウンドしたことをとても悔しがった。

 「色気を出したら行けない。(自己採点は)30点。マウンドに上がった時、すごく近く見えた。強いボールを投げられるような気がして、一瞬早くなってしまった。練習では大学のブルペンではずっと、一球勝負の時はゆっくり足上げてゆっくり出て行こうと言っているが、実践できませんでした」

 自ら「野球人生の集大成が近づいてきた」という山口さんに、大学野球部の監督になる気はないのですかと聞いてみた。

 「ずっと俺はナンバー2が似合っている。(プロ野球でも)一軍のピッチング・コーチをしたけど、チーフ・コーチは1年だけ。ナンバー2が似合っている」

 今後について聞くと、「大学に帰ってから春(の大学野球選手権出場のため)に東京へ来られてないから。(今度は)みんなでチームと一緒にまた来たいと思った」

 「山口さん、まだまだ野球で頑張りなさい」という野球の神様の声が聞こえた様な気がした。
春川 正明(ジャーナリスト)

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