木内監督、取手二でも常総でも!

甲子園で、複数校で優勝するヒトはそう多くない。上甲監督か木内監督くらいではない?沖縄の栽監督は優勝に届かなかった?

倒した相手がスゴい!

桑田&清原2年夏のPLを取手二で、ダルビッシュ有が投げた決勝で常総は打ち切った。

とにかく、気持ちで負けない、向かって行く姿勢と言うは簡単だが、難しい。それを小細工なしで向かわせた。

よく、好投手に対する時、反対方向を意識して引き付けて・・・と指示し勝ちだが、球威ある投手には食い込まれやすい。大差大勝増えたPLのエース桑田のストレート&カーブのコンビネーションや、東北ダルビッシュ有の高速シンカー対応には、正対して打ち返すセンター返しは的確だったし、実際打ち崩した。特に、「ヒット打てたら、孫の代まで自慢できるゾ!」と明るく送り出すトコが、素晴らしい。

上甲監督も木内監督も、練習はもちろん厳しかったろうが、選手達が力を出すべきグラウンドでは穏やかに笑って選手達を見ていた。

素晴らしい監督だった。

 

 

 

 

 

 

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高校野球 名将の言葉(2)元常総学院監督・木内幸男氏】「甲子園は最高の教育の場」
8/6(土) 9:00 Yahoo!ニュース
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03年、夏の甲子園を制し、深紅の大優勝旗を手に笑顔の常総学院木内幸男監督
 名将であり、名物監督だった。茨城弁丸出しのインタビュー、そして「マジック」と称された采配。元常総学院監督で、一昨年11月に他界した木内幸男氏が生前、いつも言っていたことがある。

 「甲子園は最高の教育の場なんだよ。何しろ子供たちがすんごく素直になっから」

 木内氏の野球は、選手たちにその考えを教え込み、理解させ、実行に移す。同時に、選手1人1人の性格を把握し、全能力を引き出していく。奇抜な作戦も選手たちが理解しているからこそ成功する確率が上がる。「出したサインに“えっ”て選手たちが思ったら成功しないんだよ」。それが甲子園という舞台では、選手たちが自然とみんな同じ方向を向き、何も言わなくても前に進む。「木内マジック」はそうして奇跡を起こしてきた。取手二では84年の夏に桑田、清原のKKコンビのPL学園(大阪)を倒し、常総学院でも03年の夏にあのダルビッシュ(現パドレス)擁する東北(宮城)を打ち破って優勝。いずれも下馬評を覆しての見事な日本一だった。

 その03年の夏。この大会限りで監督を退くことになっており、甲子園を前に当時の松林康徳主将(現野球部長)がベスト8を目標に掲げた。理由を聞くと「ベスト8に入ると秋の国体に出場できて監督とそれだけ長く野球ができるから」と答えたという。「うれしいこと言ってくれるなあ」と感激した木内氏は、目標のベスト8を決めると「ここからはお前たちの好きにやっていいぞ」と伝えた。すると、松林主将が飛んできて「監督、サインを出してください。4番のバントでも何でもやります」。木内氏の野球を最後まで貫きたかったのだろう。

 迎えた決勝戦。相手はダルビッシュの東北だった。そこで、木内氏は前日ミーティングでこう言った。「お前たち、ダルビッシュを打って勝て。そしたら将来、子どもに自慢できっぞ」。右足を痛めていたダルビッシュをバントで崩すのではなく、強攻策を指示。見事に攻略した。もちろん、バントさせない采配に「えっ」と思う選手はいなかった。

 甲子園で日に日に成長していく選手の姿がうれしかったという木内氏。「最高の教育の場」で挙げた40勝は最高の宝物だった。

 ◇木内 幸男(きうち・ゆきお)1931年(昭6)7月12日生まれ、茨城県土浦市出身。土浦一で外野手として活躍し、卒業後も指導を続けて53年から監督に就任。57年に取手二へ監督として招かれた。84年夏に初の全国制覇。同年秋に常総学院監督に就任し、01年選抜で優勝。03年夏の日本一を花道に一度勇退したが、07年に復帰。11年夏を最後に現場を退き、20年11月24日に肺がんのため死去した。

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