GT-Rコレクター、カネは羨ましいが、全然良いと思わない!

別に、カネあるヒトは好きにすれば良いと思う。トヨタの脇坂なり、ニッサンの松田なり、基本はそのメーカー車両になる。

だけど、ワタシならそんなコトはしない。R35GT-Rは最新の1台あれば良いし、平成スカイラインGT-RならR32GT-R1台で良い。KPGCは1台欲しい。後は、ワタシがカレの立場なら、R30スカイラインRS系とS12シルビアRS系を吸排気や電装系をアップデートして再生産してもらう。ついでに、R31スカイラインGTS-Rも!FJ20やRB20、VVTやら電装系アップデートしたら、どんなクルマになるか、そちらを味わいたい。

日々や週で考えて、クルマに乗る時間はそう多くない。用途使い分け考えても、2・3台で十分なのだ。ワタシ個人、家族や荷物乗せる4ドアセダンと自分の趣味で走る2+2クーペの2台持ち、子供独立したコトで、修理部品なくなる4ドアセダンを2座カブリオレに買い替える。

カレは、一般人より遥かにクルマを使う機会は多いであろう。しかし、2ドアクーペのGT-Rばかり?それは愚集合では?家族や荷物積む実用車として、ステージア260RSとかも持ったら?本来、R35GT-Rの浅薄な造りや存在感はわかっているのではないの?RB26ないし、RBコレクターになった方が、後々楽しいのではないの?

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10年で計11台の「GT-R」を手に入れた! 日産エースドライバー松田次生の「Rライフ」に迫る
8/13(土) 20:11 Yahoo!ニュース
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365日Rで闘いRに癒やされる日々を送った男
 
希少なGT-Rを手にして愛情を注ぐ松田次生選手
『日産NISMO』ワークスのエースドライバーとして不動の地位を築いている松田次生選手。スーパーGT GT500クラスではGT-Rを駆ってシリーズタイトルを2度制覇した経験を持つ。また、プライベートでは全世代のRを所有するという、自他共に認める「Rマニア」であることも有名だ。そこでGT-Rと松田選手の深い繋がりについて迫ってみたい。

【画像】貴重なニスモ400Rも! 松田氏の「GT-R」コレクションを見る(25枚)

(初出:GT-R Magazine157号 2021年2月1日発売号の記事を再編集しました)

ミニカー好きの少年がトップドライバーに上り詰める
 ミニカーが好きになったことがきっかけで、物心ついたころから車名が言えないクルマはほとんどなかった。中でもスポーツカーには目がない子供だったという松田次生選手。中学2年でカートを始めたことがきっかけで平成9(1997)年に鈴鹿レーシングスクール(SRS-F)に入校する。実力が認められ、スカラシップを獲得した後、全日本F3選手権フォーミュラ・ニッポン(現スーパーフォーミュラ)と順調にステップアップを重ね、2000年には全日本GT選手権(現スーパーGT)に「綜警マクラーレンGTR」でGT500にスポット参戦。翌2001年からはフォーミュラ・ニッポンでも所属していたNAKAJIMAレーシングから「Mobil1 NSX」でフル参戦を開始した。

「あのころはホンダの契約ドライバーだったこともあり、マイカーとしてシビックインテグラ・タイプRに乗っていました。当時、カート時代からの知り合いがミッドナイトパープルのR33GT-Rに乗っていたのですが、じつはとても羨ましく思っていました。小学生のころグループAのレースをよく見ていて、星野一義さんがドライブするカルソニックスカイラインの走りに衝撃を受けたんです。それ以来、自分にとってGT-Rはずっと憧れのクルマでした」

 そんな松田選手に大きな転機が訪れたのが2006年。フォーミュラ・ニッポンは闘将・星野一義が監督を務める「チーム・インパル」に、スーパーGTは「NISMO」にそれぞれ移籍することとなったのである。そして、日産移籍2年目の2007年にはフォーミュラ・ニッポンで初のドライバーズタイトルを獲得。翌2008年も連覇を果たし、同年からはGTもチーム・インパルへと移籍した。

日産へ移籍しGT-Rと出会った人生の転換期
「2007年まではフェアレディZでしたが、2008年はR35がGT500クラスにデビューする年でした。日産系チームには『GT-Rの初年度は何としてもチャンピオンを獲る』という強いプレッシャーもありました。そのタイミングで憧れだったカルソニックカラーのGT-Rに自分が乗るということで、何か不思議な縁のようなものを感じましたね」

 R35のデビューイヤーはNISMOチームが戴冠。松田選手は2013年までインパルに所属したのだが、その間に決定的な出来事があった。2011年にマイカーとしてBCNR33を購入。人生で初のGT-Rを手にしたのだ。

「たまたまインターネットで見つけた個体で、埼玉県の店舗まで現車を見に行きました。当時、日産に所属していた先輩の荒 聖治さんもGT-Rに乗っていて、いろいろとアドバイスをもらっていたんです。走行16万kmとそれなりに距離は走っていたものの、いろいろとチューニングが施されているのに価格が手頃だったこともあって即決しました」

 日産に移籍してからはムラーノZ33フェアレディZ、S15シルビアなどに乗っていたが、ついにGT-Rが松田選手のマイカーになった。GT-R Magazineでも連載企画をスタートし、マイナートラブルを乗り越えながら徐々に自分好みの仕様へとモディファイしていく過程を誌面で紹介した。今思えばあのころの松田選手はまだGT-Rビギナーで、ちょっと初々しくもあった。あれから10年。R35GT-R NISMO MY20も所有する現在の松田選手には、どこか貫禄すら漂っている。

「あのときにR33を買ったことがきっかけで、とにかくGT-Rのことをもっと知りたいという気持ちが芽生えました。いろいろと仕様を変更しながらプライベートでサーキットも走りましたし、HKSさんとコラボでサスペンションを開発するなど、貴重な経験もできました。自分にとっては、GT-Rライフの原点と言える一台ですね」

GT-Rに対する探求心で第2世代Rをコンプリート
 2011年にR33を購入したことが契機となり、松田選手は凄まじい勢いでGT-Rにのめり込んで行った。同年、NISMO S-tuneコンプリート仕様の白いR34GT-R V-specを購入。ほどなくしてベイサイドブルーのR34GT-R V-specも手に入れ、早くも3台体制に。

「白のS-tune仕様は程度も素晴らしく、とても良いクルマだったのですが、昔からベイサイドブルーのR34に憧れていたこともあり、いい出物があったので思わず買ってしまいました」

 そして、2012年にはかつてNISMOが新車のコンプリートカーとして販売したR33GT-Rベースの「NISMO 400R」を手に入れる。

「メーカー直系のNISMOがR33をベースに作り込んだコンプリートカーはいったいどんな乗り味なのか。R33オーナーとして気になりましたし、ユーズドベースのS-tuneコンプリートと比べてどうなんだろう。知りたい気持ちがもう抑えられなくなってしまって(笑)」

 居ても立ってもいられなくなり、山口県まで足を伸ばし、実車を見た上で400Rの購入を決めたという。こうなると松田選手の「知りたい気持ち」はもう止まらない。2014年にはR32GT-Rを購入。最初に買った赤のR33とベイサイドブルーのR34はチューニングが施された仕様であり、400RはNISMOが作り上げたコンプリートカー。R32を手に入れて第2世代Rをコンプリートしたいという気持ちに加え、次は「ノーマルのGT-R」を知りたくなったという。

「フルノーマルではなかったのですが、ブーストアップ程度にとどめられており、ホイールなどをNISMOパーツでまとめた前期型を見つけました。この年はインパルからNISMOに戻った初年度でGT500で初めてチャンピオンを獲ったこともあり、自分へのご褒美という意味合いも込めて買いました」と松田選手。向かった先は、大阪の中古車販売店。東京から新幹線で移動し、新大阪駅でレンタカーを借りて店舗に訪れたという。

「必ず自分の目で確かめないと気が済まないんです。どんなに遠くても、時間が取れれば見に行ってしまいますね(笑)」

初めての新車GT-RはMY17のNISMO
 ついに、R32/R33/R34と第2世代GT-Rすべてを所有することになった松田選手は、翌2015年もスーパーGTで2年連続チャンピオンを獲得。国内トップフォーミュラとスーパーGT GT500クラスの両カテゴリーにおいて、それぞれ2連覇を達成するという初の偉業を成し遂げた。

 2011年から2014年までの3年間、矢継ぎ早にRを手に入れたが、その後しばらくは新たにGT-Rを手にすることはなかった。次に動きがあったのが2017年。いよいよ第3世代のR35GT-Rに食指が動く。前年のビッグマイナーでR35がMY17へと進化。2017年8月にMY17のGT-R NISMOをオーダーした。松田選手にとって初めての新車のGT-Rである。

 第2世代R全車と現行のR35、しかもフラッグシップのNISMOというなんとも羨ましいラインアップを形成。だがこの年、もう一つ動きがあった。ある日、筆者の携帯に松田選手から連絡が来た。

 その内容は「初期型R35」に関するものだった。GT-R Magazineではスタッフカーとして2007年式の最初期モデルを所有していることもあり、トラブルについての質問を受けたのだ。聞けば「新車のNISMOでサーキット走行を楽しむのは気が引けるので、初期型を買って練習したい」というではないか。アドバイスが効いたかどうかは定かではないが、実際にニスモに続きMY08も増車。こうなったらもう止められない。翌年、初代GT-RのKPGC10が加わり、R35GT-R NISMO MY14「Nアタックパッケージ」も入手している。

「まさかハコスカが手に入れられるとは思っていなかったのですが、縁もあって個人売買で購入することができました。MY14のNアタックはもともとNISMOのデモカーで、そろそろ売却するという話を聞いて『だったら僕が買います!』と言ってしまいました(笑)。ちょうどMY17にNアタックのキットを組もうかどうか迷っていたところだったので、絶好の機会だと思い増車したんです」

全世代Rを手に入れエースの挑戦は今後も続く
 さすがに「コレが最後」と思ったそうだ。がしかし、2019年にR35 MY20が発表。カーボンセラミックブレーキやカーボンフェンダーなどで大きくアップデートされたMY20のNISMOを目の当たりにし、またしても手に入れたい気持ちが芽生えてしまったという。

「さすがに増車は無理なので、MY17を売却してMY20を購入することにしました。まさかNISMOがこれほど進化するとは思っていませんでしたし、メーカーが市販するクルマとしてはもはや究極レベルです。カーボンになって大型化されたブレーキキャリパーとホイールのクリアランスなんてミリ単位ですし、そういうところにも萌えてしまいました」

 MY20のNISMOが正式発売される前の2019年9月には、富士スピードウェイで開催された「R's Meeting」で土屋圭市氏と共に同車でデモランも実施。初ドライブでMY17からの進化度も体感した。また12月には『筑波サーキット』で1分を切るというタイムアタック企画のドライバーに指名され「59秒361」を叩き出し市販車最速タイムを達成。筆者も現場でその瞬間に立ち会い、まるでスーパーGTの予選時のような鬼気迫る緊迫感と、タイムを出した後の松田選手の安堵の表情を目の当たりにしている。

 そして2020年3月。松田選手はもう一台のRをコレクションに追加することとなる。じつはMY20を購入後、ベイサイドブルーのR34を手放していたのだ。

「とても気に入っていたのですが、フルチューンで650psということもあり、普段乗るにはパワーがありすぎて持て余していました。そのうちノーマルに近いクルマを探そうと思っていたところ、ある方の紹介でミッドナイトパープルIIIのR34を手に入れることができたんです」

 GT-R Magazineでは初公開となるミッドバイトパープルIIIの松田号。前オーナーがとてもキレイに乗っており、すでにNISMOパーツで固められていたことも決め手になったという。2011年からスタートした松田選手のGT-R道。きっとこれから先にもその道は続いていくのだろう。

「2008年からGT-RでGT500を戦い、2回チャンピオンを獲得することもできました。レースで頑張って結果を出し、それを形として残したいと思っています。ある意味、契約金がGT-Rに姿を変えていますね。それもNISMOのドライバーとしてやってきた証です。それがあるからこそ頑張れますし、モチベーションにも繋がります」と言う松田選手。

 2021年1月18日に2021シーズンの日産チームのGT500の体制が発表となった。松田選手は2021年もロニー・クインタレッリ選手とコンビを組み、23号車の「MOTUL AUTECH GT-R」をドライブすることが決まった。

「ロニーと組んで23号車に乗るのは8年目。2020年シーズンは2勝しながらもチャンピオンには届きませんでした。2021年は3度目のタイトルを目指すのはもちろん、次に勝てばGTでの最多勝利数を『23』に更新することができるので、シーズンが始まったら早い段階で勝ちを狙いたいと思っています」と力強いコメントをもらった。23勝と3度目の戴冠を達成した暁には、その証として「松田コレクション」にまた新たなGT-Rが加わることになるはずだ。
GT-R Magazine 野田航也

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