中日福留、恵まれていたろうネ!

PL卒で近鉄ドラ1指名を蹴り、日生から中日ドラ1で入団した。近鉄監督として入団交渉に赴いた佐々木恭介が、中日打撃コーチとして再登場したのも笑えた。

福留、それほど印象になかった。ゴジラ最終年に三冠王ストップかけた印象以外はなかった。

メジャーにも行ったが、5年ムダにして帰って来た。そんな福留をありがたく持て囃したのが阪神、契約釣り上げに横浜にもコナをかけた。その一部始終で、当初「是非、阪神へ!」と思っていたファンも、「もう、横浜行けョ!」とシラケていた。結局、阪神の提示額が高かったから、阪神にした。

阪神で全く打てなかった。カネだけ踏んだ食って期間満了待たずにクビになる、イカサマ外人そのものだった。西岡がFAで入団する頃には、福留の存在すら忘れられていた。

それが、あのライト前打球の福留&西岡衝突で、不幸が入れ替わった。契約最終年のCS、福留は勝ち上がりに貴重なホームラン、西岡は三塁手で復帰し、広島と巨人を破って日本シリーズに進出した。阪神フロントは、和田監督退任を既定路線としていたから、福留のホームランは福留しか救わなかった。

カネモト&矢野体制になり、マトにされたのは生え抜き、鳥谷や大和や藤浪や能見や岩田や榎田ら。年齢も実績もあり、地元ながら外様の福留は"カッコウのアブラムシ"だった。力も価値もなくなってから阪神を追い出したから、中日で何がデキるワケもなかった。

一番最後だけ中日に帰るのは、山崎も福留も一緒だ。

 

 

 

 

 

 

 

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恩師が語る引退発表した中日・福留孝介の知られざる逸話…ドラフト1位指名された近鉄入団拒否と阪神入団の真相
9/9(金) 7:46 Yahoo!ニュース
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PL学園福留孝介近鉄佐々木恭介監督が1995年のドラフト1位で指名したが入団拒否(写真・日刊スポーツ/アフロ)
中日の福留孝介(45)が8日、今季限りの引退を発表、バンテリンドーム内で引退会見を開き、Youtubeで生配信された。1995年のドラフトで近鉄の1位指名を拒否したときの近鉄監督で、のちに中日打撃コーチとしてコンビを組み、22年間、親交を続けてきた現在大和高田クラブ監督の“恩師”佐々木恭介氏(72)に知られざるエピソードを聞いた。

もし近鉄に入団していたら日米3000本安打も可能だった?!
 爽やかな顔をしていた。
 ユニホーム姿で引退会見に臨んだ福留は、引退理由を「気持ちの面が一番大きい」と語り、「さみしさもありますけど、誰しもが通る道。いずれ自分にもこの時が来るのは分かっていたこと」と、現役生活に別れを告げた心境を口にした。
 22年の付き合いになる元近鉄監督、元中日打撃コーチの“恩師”佐々木氏が引退の報告を聞いたのは、ちょうど1週間ほど前だ。
 会見で福留は「お世話になった方々。誰が真っ先にというか思いつく方にすべて連絡した」と語ったが、その1人が佐々木氏だった。
 大和高田クラブで監督を務める佐々木は8月29日に全日本クラブ野球選手権大会で3大会ぶりに優勝。その報告を福留にした際には、引退の話はしていなかったが、その3、4日後に折り返しがあり、引退の決断を聞かされたという。
「一番聞きたくない報告やな」
 佐々木氏は、そう返した。
 佐々木氏は「イチローを超えろ!50歳までプレーしろ」とずっと言い続けていた。それだけの技術があると信じていた。福留はイチローの引退と同じく45歳。
「出番が減ってきて結果も出ない。つらいやろうなと見ていた。ふくらはぎを痛めていたそうだが、どこかでもう1回、1軍に上げてくれるやろうと待っていた」
 数日、涙が止まらなかったという。
 この日の引退会見は、Youtubeのページを検索しているうちに終わっていた。だが、妻に「爽やかな会見だった」と聞かされ、どこかほっとしたという。
 2人は不思議な運命で結ばれている。
 1995年に近鉄の監督に就任した佐々木氏の最初の仕事がドラフト会議だった。PL学園のある富田林に住まいを構える佐々木氏は「凄いバッターが出てきた」と福留が1年生の頃から注目していた。
 だが、スカウト会議では、故・河西チーフスカウトが「福留はパ・リーグには来ません」と報告。指名回避を求めた。だが、佐々木氏は、そこで一席ぶった。
「ちょっと待って下さい。近鉄沿線の富田林にいる最も欲しい選手を避けて通ることができますか?ましてや監督として一発目の仕事です。どんなことがあっても指名します」
 1位での競合が予想されており、佐々木氏は、願をかけて「紅白のふんどし」を締めてドラフト会場に入った。相思相愛が噂されていた中日、巨人に加え、ヤクルト、日ハム、ロッテ、オリックス、そして近鉄の7球団が入札した。運命のクジ引きで、佐々木氏は、当たりくじを引き当て「よっしゃー!」と雄叫びをあげた。4位指名までが終わると、その足で大阪へ帰りPL学園の寮に挨拶にいった。佐々木氏は、結局、計3度、交渉の席に同席して熱弁をふるったが、「孝介は決して目をそらすことなく話を聞き、終始、笑っていた。一枚上手だったんだろうけど、当時は来てくれるという手応えはあったんだ」という。
 だが、しびれをきらした当時の球団幹部が、野球協約違反の“密約“を持ち出したことで話がこじれる。とりあえず近鉄に入団して3年プレーしてくれれば、その後、希望球団にトレードに出すという違法プラン。
「この話をしていいか?」と、当時の幹部に言われた佐々木氏は、「それが球団の方針なら孝介に伝えるのは構いませんが、絶対に報道陣に言ってはダメですよ。野球協約違反ですから」と返したが、交渉後の会見で、その幹部はそれをポロっと漏らし、のちにコミッショナーからクレームが入るなどの大騒動となった。
 「密約」の看板を背負って福留が近鉄に入団できるわけがない。佐々木氏は、その年の球団の仕事納めの時に報道陣に自ら「交渉終結宣言」を出した。
「今考えると中日への憧れがあったんだろうね。故郷は鹿児島で串間キャンプに行って立浪や山崎武司のサインをもらっているんだから。でも、今でも孝介と笑い話をするときがある。“恭介さんと、もし近鉄で3年間やっていたら3000本安打行ってましたね”と。確かに1年目に100本、2年目、3年目に150本は打っていた。でも近鉄に入っていたら、その後どうなったか。運命は不思議なものよね」
 日米通算2450安打。社会人の日本生命に進んだ3年間、近鉄でプレーしていれば日米通算3000本安打も可能だったのかもしれない。

 縁のなかった2人は、2001年にプロ3年目を終え、打率.251と壁にぶちあたっていたホープと1軍打撃コーチという関係で中日で再会することになる。
「星野さんの後を継いで監督に就任する山田久志さんから、福留を再生してくれと打撃コーチを依頼されたんだ。山田さんに声をかけてもらわねば、孝介という才能にあふれた選手と出逢うこともなかった。本当に感謝だよね」
 そのシーズン西武の打撃コーチを務めていた佐々木氏は、当時の西武ドームにロッカーの方付けに出かけたが、翌日にコスモスリーグという若手の試合が西武第二球場であり、福留も帯同するという。佐々木氏は、1日、帰阪を遅らせて、その試合を観戦した。バットを寝かせて構え、こじんまりとまとまり、ドアスイングとなってインコースが打てず、福留の良さが消えてしまっていたという。試合後、会話を交わした。
「なんでそんなバッティングになってしまったの?PL学園時代のフォームへ戻そう。オレの言う“一言一句”を信じて頭に叩き込み、ついてくるなら2億円プレーヤーにしてやる」
 佐々木氏は、そう約束した。当時の推定年俸は4200万円である。
 秋の浜松キャンプから二人三脚の打撃改造がスタートした。
「バッティングは積み木。軸で打てるように下半身の土台作りからやっていこう。バットは楽に傘をさすように持つ。グリップを柔らかく、肘は伸ばさずに体の傍におき、体に巻きつけるように」
 その後、メジャーリーグへ飛躍することになる福留打法の原型である。
 フォームを固めるため1日3000本のスイングを1か月間、課した。春季キャンプに入っても2月15日までは、そのペースを守らせた。あまりに過酷な練習量に山田監督が、「こんなに振らせて潰れやしないか」と心配して佐々木氏に声をかけたほどだった。だが、福留は耐え抜いた。
「ご両親から授かった体が強かった。45歳までできた理由だろうね」
 その2月15日が明けた、沖縄キャンプ中の紅白戦か、シート打撃で福留は苦手としていたインコースにバットが上からトンと出て右中間に凄まじいライナー性のホームランを叩き込んだ。「できたと思った」という佐々木氏は、山田監督に「今年は絶対打ちます」と約束した。その年、福留は、初の首位打者タイトルを取ることになる。最後は巨人の松井秀喜氏と熾烈なデッドヒートを繰り広げた。
「孝介がゴジラ3冠王を阻止したんだけど、最後の最後に苦しんでね」
 佐々木氏には忘れられない一打がある。
 9月27日から東京ドームで巨人と最後の直接対決の3連戦があった。福留は1戦目、2戦目とノーヒット。中日投手陣も松井氏と勝負して抑えていたが、福留はプレッシャーに押し潰されかけていた。迎えた第3戦。走者一塁の場面での第2打席に山田監督はヒットエンドランのサインを出した。
「祈ったね。ストライクがきてくれと。低めのボールだったが、一、二塁間を破るヒットになってね。一気にふっきれた。山田さんのファインプレー」
 福留は、その後、阪神、広島、横浜2連戦と続く4試合で固め打ちをしてゴジラを突き放した。打率.343で首位打者を獲得、ベストナインにも選ばれ、そのオフに年俸は1億円を突破した。

 だが、福留は満足していなかった。19本に終わった本塁打を「増やしたい」「バットを長くしていいですか?」と佐々木氏に訴えたのだ。
 引退会見で「うまくなったから楽しいではなく、うまくなりたいという気持ちを持って野球をやっているのが楽しかった」と語ったが、このあくなき向上心が福留の原動力だった。
 佐々木氏は、せっかく作りあげた打撃が崩れるのを恐れたが、「34インチ,34半インチの2本をピッチャーのタイプで変えたらどうか」と提案。左投手との対戦時にバットを長いものに変え、その年、2年連続の打率3割をクリアし、本塁打は34本に増えた。佐々木氏が約束した年俸2億円を超えたのはそのオフだった。
 佐々木氏が言う。
「福留の真似できない部分は、腕の柔らかい使い方。力で飛ばすんじゃなく、コンパクトにストンとコンタクトしてフォロースルーが伸びる。あの美しいフォロースルーは教えられない。そして逆方向に流し打った際にヘッドが下がらない。それができるのはイチローと孝介だけ。やっと出てきた3人目がヤクルトの村上宗隆だけどね」
 佐々木氏は美しいフォローとヘッドが下がらない打法が福留の凄みだという。
「頭がスマートなんだよね。対戦した投手の配球は全部覚えている。そして投手のクセを盗むのがうまいし早い。オレも早かったけど孝介はそれ以上」
 だが、福留に次なる試練が待ち受けていた。
 2008年にシカゴ・カブスに入団。夢だったメジャー挑戦を果たすが、世界最高峰リーグの洗礼を受けた。開幕戦でホームランを打つなど、序盤戦の滑り出しはよかったが、その後、壁にぶつかった。佐々木氏は、福留に呼ばれアメリカへ飛んでいった。
「審判の判定が、ヨソ者の日本人にはボール一個から一個半ほど外角に広くなる。そうなると外のボールを追いかけるようになってバッティングが崩れた。イチローは動きながらでも外に対応できる幅がある。大谷や松井にはリーチがあるが」
 佐々木氏は、1年目は自費でシカゴへ通ったが、そのオフに福留が球団にかけあい、公式の臨時コーチの立場となり、背番号「53」のユニホームを来て打撃指導した。 福留のメジャー生活は、5年で終わりを告げ、2013年から阪神に凱旋することになる。水面下で争奪戦が繰り広げられ、阪神と最後まで争ったのが、中畑清監督が率いる横浜DeNAだった。
 佐々木氏は、てっきり横浜DeNAに行くものと思い込んでいた。自らも阪神の打撃コーチを務めたことがあり、阪神が置かれている特殊な環境を知っているからこそ、相談を受けた際に「阪神だけは大変。やめておいたほうがいい」と意見していた。
 だが、福留が選んだのは阪神だった。
「ビックリしたね。冗談だと思った。でも、それが孝介の生き方。常に厳しいところに自分を置き勝負していく」
 福留は、阪神では1年目は、ヒザの故障に苦しんだが、日米通算2000本安打や最年長記録を次々と更新。2020年オフに戦力外となったが、古巣にカムバック。最後は、原点の地でユニホームを脱ぐことになった。
 佐々木氏が福留に託す次なる夢がある。
「福留監督を見たいよな。若い選手へ説くバッティングや守備の心構えを近くで聞いているだけで指導者の素質があると思う。どんな監督になるか」
 まずは球団を離れネット裏から勉強することを薦めたいという。
 引退試合は9月25日のバンテリンドームでの巨人戦が予定されており、佐々木氏は、最後の勇姿を目に焼き付けるつもりだという。
「涙でよく見れないだろうけどね。でも、まだご苦労さんとも、お疲れさんとも言っていない。孝介に贈る言葉はありがとうやね」
(文責・本郷陽一/RONSPO、スポーツタイムズ通信社)

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