名将でもダメだった球団

名将でもダメだった球団として、

野村克也阪神

三原脩のヤクルト

森昌彦の横浜

を挙げている。

三原脩のヤクルトは、サイン盗みなど、「侍ジャイアンツ」などでも出たくらい、色んなコトをやったが、あの頃からオーナーが巨人ファンだったコトもあり、成果は出なかったのだろう。

森昌彦の横浜は、横浜フロントも森監督もチームとしての横浜を見誤って、全く合わない野球を強いるコトになり、チームとしても空中分解してしまった。

野村克也阪神は、ヤクルトで苫篠弟や長嶋や栗山らを干したように、坪井や今岡らを干した。今岡は、星野監督時代に活躍できた救いはあったが、坪井はトレードされたり散々だった。

他にも、近藤貞雄古葉竹識の横浜も、全然前のチームのように変わらなかった。

 

 

 

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名将も打つ手がなかった球団は? “弱いチーム”の再建に失敗した一流監督たち〈dot.〉
9/18(日) 18:00 Yahoo!ニュース
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西武時代の森祇晶監督
 優勝実績のある監督がその手腕を買われ、弱いチームの再建を託されることがある。西本幸雄監督のように、かつては弱かった阪急や近鉄を熱血指導で優勝に導いたエピソードはよく知られている。その一方で、歴戦の名将をもってしても、チームを強くできなかった例もあった。

【写真】現在YouTubeが大人気の名将といえば

 代表的なのが、阪神時代(1999~01年)の野村克也監督だ。

 南海プレーイングマネージャー時代(70~77年)の73年、最下位だったチームを4年で優勝させたあと、ヤクルト時代(90~98年)には万年Bクラスのチームをリーグ優勝4度、日本一3度に押し上げ、楽天時代(06~09年)にも球団創設から2年連続最下位のチームをCSに進出させている。

 だが、それほどの実績を持つ名将でも、直近5年間で最下位3度と“暗黒時代”の阪神だけはどうにもならなかった。

 当初は野村監督も「阪神でもヤクルトと同じように指導すれば、数年である程度の結果は出せるだろう」(自著「阪神タイガースの黄金時代が永遠に来ない理由」宝島社)と考えていた。就任会見でも「3年後にはAクラスか、それ以上のチームにして、『阪神も変わったな』と言われるチームに育てたい」とキッパリ。ヤクルトの再現を期待した虎党も多かったはずだ。

 ところが、監督が替わってもチームは一向に強くならず、3年連続最下位に沈んでしまう。

 チームを変えられなかった理由について、野村監督は「阪神は弱くても人気があり、周囲にチヤホヤされるから、選手に甘えの体質が染みついていた」と回想している。野村ID野球を浸透させようとしても、「ミーティングで選手がろくに話を聞いてくれなかった」という。

 戦力面でも、トレードや外国人などの補強がことごとく失敗したばかりでなく、主力との確執や助っ人の造反劇もあり、彼らにやる気をなくさせたこともマイナス材料になった。

阪神に行ったのは大失敗だった」と退団後もボヤきつづけた野村監督だが、在任中に井川慶が一本立ちし、自ら“F1セブン”と命名した俊足野手たちの中から赤星憲広藤本敦士星野仙一監督時代の03年の優勝に貢献するなど、次代の主力を育てたという意味では、チームの再建に少なからず寄与したと言えるだろう。

 次は西鉄時代(51~59年)に3年連続日本一を達成した“知将”三原脩監督だ。

 西鉄退団後も、60年に大洋を最下位から優勝させ、近鉄時代(68~70年)にもV争いを演じるなど、行く先々で“三原魔術”を見せたが、最後に指揮をとったヤクルト(71~73年)では、手腕を発揮しきれなかった。

 最下位に沈んだチームの強化を託された三原監督は、かつて日本シリーズで巨人を3年連続で下した実績から、娘婿の中西太ヘッドコーチとともに、“西鉄師弟コンビ”による巨人の独走ストップも期待された。

 だが、翌71年は6位、72、73年はいずれも4位と3年連続Bクラスに終わった。

 ただし、最後の73年は、新外国人・ペピトーンがまったく働かず、中心打者の荒川堯も左目の障害で8月に離脱と戦力ダウンしたなかで、V9を達成した巨人に4.5ゲーム差の4位と健闘している。現在のショートスターターの走りともいうべき異色継投で阪神の天敵になるなど、“魔術”も健在だった。

 翌74年も指揮をとるはずだった三原監督だが、中西ヘッドコーチを2軍に降格するフロント主導の人事を「無理がある」として自ら退団。直後、日本ハムの球団社長に就任した。もし続投していれば、翌年のヤクルトの通算2度目のAクラス入り(3位)は、三原監督の指揮で実現していたかもしれない。

 また、監督就任直後の70年のドラフトでは12球団最多の16人を指名し、この中から若松勉渡辺進杉浦亨らが78年のV戦士になった。

 西武時代(86~94年)にリーグ優勝8回、日本一6度の常勝軍団をつくり上げたのに、3年契約の2年目で解任されてしまったのが、横浜時代(01~02年)の森祇晶監督だ。

 98年に38年ぶりの日本一を達成した横浜は、99、00年も2年連続3位とAクラスをキープ。パ・リーグで一時代を築いた名将に、日本一奪回の使命を託した形だが、守護神・佐々木主浩がメジャー移籍、中心打者・ローズも退団し、戦力は低下していた。

 就任会見で、投手陣の強化を急務に挙げた森監督は、まとめ役の捕手・谷繁元信を「もう一度叩き直す」と宣言。“マシンガン打線”についても、「ピストルで大砲に向かっていくなかで、大砲を持っているかのような錯覚がある」と犠打の重要性を説き、巨大戦力の巨人に挑戦者として立ち向かう意気込みを示した。

 だが、1年目は4位・広島に1勝差で何とかAクラスを死守したものの、オフに谷繁が森監督との確執から中日にFA移籍し、求心力も低下。翌02年は5月に13連敗を記録するなど、最下位から浮上できず、球団内で続投に反対する声が高まったことから、シーズン中の9月に解任された。

 自由奔放が売りだった権藤博前監督と180度異なる緻密な野球を推し進めたことが、両監督の野球をミックスした采配を期待していた選手に受け入れられなかったといわれる。

 就任1年目のドラ1・内川聖一が退団後に主力になったことが、数少ない収穫のひとつだが、後任監督4人もチームの再建に苦しみ、横浜は02年からの10年で最下位8度の低迷期に突入する。(文・久保田龍雄)

●プロフィール
久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍プロ野球B級ニュース事件簿2021」(野球文明叢書)。

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