西本聖、巨人に現れたシュートピッチャー!

西本聖、第1期長嶋茂雄監督末期に出現したシュートピッチャーだ。何より、梶原一騎川崎のぼる巨人の星星飛雄馬ばりに左足を高く挙げたピッチングフォームから、パ・リーグ阪急今井雄太郎ばりのシュートボールはインパクトあった。

定岡の同期ドラフト外入団、遅れて入団した江川とは、性格体格ピッチング全て違った。西本は江川にライバル意識を抱いたが、身長で10センチ違い、球威で勝てるハズはなかった。

左足の挙げ方をマイナーチェンジし、コントロールも優れたシュートピッチャーになり、江川、西本、定岡と3本柱で定着した。沢村賞は江川を記者票でうっちゃった。江川を勝ちで上回ったのは確か1度だけだが、江川と違い、デーゲームも中継抑えも、シーズンも短期決戦も強さを発揮した。

パ・リーグ三冠王3回の落合がロッテから中日に移籍し、巨人との開幕戦先発指名されたのは江川でなく西本だった。西本は落合を全球インサイドシュート!山倉は1球違うサインを出したらしいが、首を振ってインサイドシュートで攻め、封じた。

とはいえ、親長嶋派で王監督や皆川投手コーチらと折り合い悪く、トラブルメーカー扱いされた。中日中尾捕手とトレードされた。

江川、西本、定岡と、割と武器の偏った投手を山倉がリードして定着していたせいか、槙原以降の投手では配球が偏って活かされにくかった。定岡と江川がいなくなって、西本だけになったため、ある意味出しやすくなった。

中日で唯一の20勝を挙げた。しかし、さすがに故障も増え、移籍を繰り返しつつ引退した。

 

 

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「ボクは巨人から捨てられた」前年4勝で放出された32歳の西本聖が、新天地で20勝投手になれた理由【逆転野球人生】
10/17(月) 11:02 Yahoo!ニュース
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誰もが順風満帆な野球人生を歩んでいくわけではない。目に見えない壁に阻まれながら、表舞台に出ることなく消えていく。しかし、一瞬のチャンスを逃さずにスポットライトを浴びる選手もいる。華麗なる逆転野球人生。運命が劇的に変わった男たちを中溝康隆氏がつづっていく。

【選手データ】西本聖 プロフィール・通算成績

巨人では“一匹狼”
 
巨人時代の西本。左足を高く上げる投球フォームが特徴的だった
 しのぎを削った同世代のライバルはすでに引退して、オレのポジションは若手選手に奪われた。

 そろそろ潮時かもな……。周囲だけでなく、自分すらもそう思う。かつて、そういう状況から移籍を機に劇的な復活を遂げたベテラン選手がいる。元巨人の西本聖である。74年に長嶋巨人の一期生として松山商からドラフト外で巨人入り。実は明治大への入学が決まりかけており、ドラフト外という低い評価に「裏切られた」という怒りもあったが、周囲の強い勧めもありプロ入りを決断した。当初は甲子園のアイドルで同期のドラ1定岡正二を強烈にライバル視するも、3年目に8勝を挙げて先を行くと、その次は1つ年上の怪物投手をターゲットにする。“空白の1日”騒動で入ってきた江川卓に追いつき追い越せと西本は燃えるのだ。鋭いシュートを投げるために当時は珍しいプールトレーニングで手首を鍛え、電車内では一本歯の下駄を履き続けて下半身強化。いやそれ普通に周囲の乗客に迷惑なんじゃ……と突っ込みたくなる猛練習に明け暮れ、背番号30が投げる日には自チームの試合でも「打たれろ、負けろ」と念じ続けた。

「江川さんというのは、ぼくにとってガソリンだった。ぼくという車は、ガソリンがあるから走れた」

 のちに週べのインタビューで、投手として圧倒的な才能を持つ江川の存在を「自身のガソリンだ」と語った西本は、80年代の人気絶頂の巨人で強力二本柱を形成する。81年には18勝を挙げ沢村賞日本シリーズMVPを獲得。4年連続の15勝以上含む6年連続二ケタ勝利を記録して、球界一と称されたフィールディングで7年連続でゴールデン・グラブ賞に輝き、一時期は江川や原辰徳を抑えてチーム最高年俸選手にまで登り詰めた。しかし、財テクや株に興味を示し「たかが野球、されど野球」と飄々とプレーするライバルとは対照的に、グアムキャンプでひとり浜辺ダッシュする西本のガムシャラさはときにチームメイトからも敬遠される。記者投票で入団時のいざこざから20勝達成の江川が避けられ転がり込んだ沢村賞には、同僚からの祝福の声はほとんどなかったという。チームの和を乱すヤツ、いつからか背番号26にはそんなレッテルが貼られるようになる。『週刊読売』84年3月25日号での中畑清との対談企画では、「オレがお前に言えるとすれば、自分を殺して他の連中の中に溶け込んでいけるような余裕を持ってほしいな」と諭された。

「野球に対する考え方はみんなが見習わなきゃいけない点なんだけど、人間関係になるとみんながもう一つ入っていけないという、何かワクがあるわけよ。プロだから一人でやりゃいいんだ。それは決して間違ってないけど、(ものすごく生真面目な顔になって)ただ、一人では勝てないよ」

 
西本にとって「自身のガソリン」と言うほど江川[右]をライバル視していた
 いわばチームリーダーからの公開説教だ。連続二ケタ勝利が途切れた86年前後から、“一匹狼”西本への批判記事やトレード予想がメディアでは目立つようになる。さらに皆川睦雄投手コーチとの確執が表面化して、球団批判で罰金200万円が科せられた。その両者の険悪な関係を修復させようと、球団から“和解ゴルフ”を準備されるも、王監督の前では理解ある大人を演じ続ける皆川コーチの姿に怒りを通り越して呆れる背番号26。両者の関係はもはや修復不可能だった。87年限りで、王巨人の初Vを置きみやげに、その年13勝を挙げたライバルの江川が電撃引退。32歳の西本も88年はたったの4勝に終わり、桑田真澄槙原寛己ら若手も台頭してきた。世界の王は去り、復帰した藤田元司新監督は新世代の投手王国を作ろうとしている。なぜもっと投げさせてくれない? オレの働き場所はもうないのか……。もはや反骨の右腕・西本のハートの炎は消えかかっていた。

中日で野球人生のリスタート
 だが、男の運命なんて一寸先はどうなるかわからない―――。88年オフ、同リーグの中日ドラゴンズへの移籍が決まるのだ。巨人で通算126勝を挙げた西本に加茂川重治を加えた、中尾孝義との2対1の交換トレードだ。一瞬、同期の定岡のように「移籍拒否しての引退」も頭をよぎった。巨人への愛着と未練があった西本は藤田監督の元を訪ね、「来年は二ケタ勝つ自信があります」と訴えるも、「チームには実力のあるキャッチャーが必要だ。過去に(ライバル球団間で)これだけの大型トレードはなかった。球界の発展のためにも分かってくれ」と理由を説明された。しかし、頭では理解できても、感情の整理がついていかない。西本は中日入団発表を終えた直後に収録された週べ88年12月26日号のインタビューで、古巣への本音と新天地での手応えを語っている。

「はっきりいって14年前に18歳で巨人に入団したときよりも、緊張しましたね。ボクは巨人から捨てられたわけですよ。藤田さんはボクの力を必要としなかったわけです。ところが、星野監督は評価してくれた。これから、野球を続けていく上で、このときの気持ちを大切にしていきたい」

「まだまだいけますよ。今年一年、ずっと鍛えてきましたからね。そりゃ、2年くらい前だったら、ヒジもあまりよくなかったし、自信なかったですよ。でも今はベスト。今年の後半なんて、ものすごくいいボールを放ってたんですから」

 
中日移籍1年目の89年、20勝を挙げた西本
 いざ、「打倒江川」から「打倒巨人」へ。西本はライバル江川不在の心の空白を、自分を出した巨人を見返すという新たな目標へと切り替えた。闘将・星野仙一は、87年の開幕戦で自チームの落合博満に対して、臆することなくシュートで内角を抉り、3本の内野ゴロに抑えた西本の気迫を買っていた。巨人ではワガママと揶揄されたキャンプでの自己流調整も中日では許可される。そして、なにより“一匹狼”と呼ばれた西本自身にも変化があった。選手会長宇野勝から「ニシやん、明日のゴルフ、参加するんやろ」とゴルフに誘われたら気分よく付き合い、巨人時代はまったくやらなかった麻雀もチームに溶け込むために覚えた。「チームに入っていくためにどうしようか考えてる時期に、向こうから来てくれたんで、助かった」と西本は新しい同僚たちに感謝。自身が変われば、周囲も変わる。試合中のベンチでは若い選手が「ニシさんを見殺しにするな」と声を出していた。32歳で体験する名古屋での単身赴任生活で、野球人生のリスタートを切ることに成功する。

ボロボロになるまでユニフォームを着て
 89年シーズンの西本は久々にローテの中心で投げ続けた。7月には5連勝で月間MVPを受賞。7月14日、地元ナゴヤ球場の大洋戦で通算136勝目となる10勝目を挙げると、「いい区切りになった。江川さんが引退してからはひとつの夢だったからね」と怪物投手の通算135勝超えを素直に喜んだ。その頃、野球評論家の江川は念願のニューヨーク旅行を実現させ、メトロポリタン美術館を見て回る充電生活中だ。何を優先させて生きるのか、そこに正解はない。人生いろいろである。

「巨人時代はコンディション作りでいまいち、うまくいかないところがあった。18勝を挙げた時(81年)より、いまの方が充実してますね」なんて笑う中日の西本の快進撃は続き、移籍初年度に対巨人戦5勝をマーク。自身初の20勝を記録し、斎藤雅樹(巨人)と最多勝のタイトルを分け合い、トレード相手の中尾孝義とともにカムバック賞にも選ばれた。巨人ではあくまで大黒柱の江川を追う二番手だった右腕が、いわば15年目で初めて「エース」と認められたシーズンでもあった。『週刊宝石』89年12月21日号で対談した小柳ルミ子とは、「他人になんと言われようと、最後はそういう人が勝つんですよ。やっぱり、一生懸命コツコツとやってる人が。私も西本さんと同じですよ。私は、かなりプロ意識が強いほうですから、いまの芸能界では……、早い話がはみ出し者ですね」なんてニシとルミ子が意気投合。契約更改では年俸4400万円から、ほぼ倍増の推定8500万円でサインした。まさに33歳にして実現させた「逆転野球人生」である。

 
93年はオリックスのユニフォームを着た
 その後、移籍2年目の90年も11勝を挙げるが、91年には椎間板ヘルニアを患い引退の危機に。だが、35歳の西本はロサンゼルスへ飛び、失敗したら車椅子生活というリスクの高い手術を受けての復帰を選択するのだ。中日からオリックスを経て、最後は恩師の長嶋監督が指揮を執る巨人へテスト入団。文字通りボロボロになるまでユニフォームを着続け、94年限りで現役生活に別れを告げた。

 20年間にも渡った完全燃焼のプロ生活。それはわずか9年で余力を残して去ったライバル江川卓に対する、男の意地のようにも見えた。なお、西本聖の通算165勝は、ドラフト外入団では史上最多である。

文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール

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