妻方の虚飾?尾崎豊の死に方、忘れてないョ!

尾崎豊は奥さんを想っていた?時間が経って、バカな大衆があの当時の尾崎豊の状況を忘れたとでも思ってるのかな?親の名前や曲を使わないと売り出し困難な息子へ、援護射撃のつもりか?

息子生まれた当時、尾崎豊斉藤由貴とヤりまくっていたのを写真週刊誌に撮られ、謝罪会見までしてなかった?生まれたての息子がいても、他のオンナに取られる引力のなさは、戸籍だけの関係だったんじゃないの?

挙げ句、カレの死に方、忘れてないョ!

「奥さんには、オトコがいる。今から現場に踏み込む。」と言って姿を消し、翌日関係ない民家の庭にヤク漬け裸でショック死状態で転がっていた。

尾崎豊はヤク前歴があり、妻も絡んでいる。オトコもそっち絡み、警察は捜査する気はなかったろう。年寄りの尾崎豊両親は、妻サイドに依る他殺を訴えた。しかし、妻サイドに証拠隠滅され、警察も動かなかった。だから、奥さんは息を潜めて、尾崎豊両親が亡くなりホトボリ冷めるのを待った。

この記事のライター、尾崎豊妻サイドから書かされているのは明らかだ。息子も、妻サイドと思うと応援する気はしない。

この程度の虚飾で、何も塗りツブせたりしない。

 

 

 

 

 

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「繁美になりたい」社会に憤りを抱えていた尾崎豊が妻だけに求めた想いと「手紙」
1/30(月) 7:03 Yahoo!ニュース
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写真提供/尾崎繫美
 今も多くの人の心を揺さぶる伝説のロックシンガー尾崎豊さん。先日放送されたテレビ番組でも『2022年 カラオケで最も歌われた昭和の名曲』の第1位に尾崎豊さんの『I LOVE YOU』が選ばれました。亡くなってから30年、妻の繁美さんが長く封印してきた尾崎豊さんへの想いを語る連載です。

【写真】今もカリスマシンガーと言われる尾崎豊さんの妻・繁美さんだけに見せた姿

 前回の9回目では、繁美さんが20歳、豊さんが22歳の1988年5月12日に入籍し、豊さんの実家での新婚生活と新婚旅行、初のテレビ生出演、そして伝説の東京ドームコンサートまでの想い出をご紹介しました。

 朝は豊さんが弾くピアノで目覚め、ギターの音色とともに眠りにつくという、陽だまりに包まれるような優しい時間が流れる新婚生活……。しかし、やがて豊さんは不安と孤独を繁美さんにぶつけるようになります。その要求は繁美さんが受け止めれば受け止めるほど、激しくなり、やがて24時間束縛されることも……。それでも、繁美さんは豊さんを見守り、受け止め続け、豊さんは5万人の観客の前で復活ともいえる東京ドームコンサートを成功させます。

 ところがコンサートが終わると、繁美さんは膀胱から大量出血。それを目撃した豊さんに連れられて入院。「片時も離れたくない」と言って病院にギターを持って泊まり込んでしまい、看護師さんから笑われたことも……。

 当時まだ20歳だった繁美さんは、「10代の代弁者」「若者のカリスマ」と言われた尾崎豊と、繊細で傷つきやすい魂を持つ素の尾崎豊……その心の告白、魂の叫びを受け止めることに、すべてを捧げていたのです。

 連載10回目の今回は、結婚2年目に、息子の裕哉さんを授かるまでのエピソードを前後編で紹介します。

 以下、尾崎繁美さんのお話です。

豊の闇も光も丸ごと受け入れた
 
繁美さんの前では無防備なそのままの姿を見せていた尾崎豊さん。写真提供/尾崎繁美
 豊が私に対して求めてきたことは、やきもちや束縛などという生易しいものではなくなっていきました。ただ豊がなぜそうするのかも何となくはわかっていましたし、何よりも私はそういった​​​​闇の部分と光り輝く部分の両方を丸ごと受け入れていました。

 唯一無二の存在感で強烈な光を放つステージ上の姿、
常にメモを持ち歩き、言葉のかけらを書き留める真剣な横顔、
私が作った餃子を食べ「死ぬほどおいしい」と子どものように笑う無邪気さ、

 落ち込んでも、弱さを見せられても、怒った顔も……すべて。

 豊はそんな私の全身全霊な想いを知っていたからこそ、不安を私にぶつけ、さまざまな要求をしたのかもしれません。

豊の猜疑心……No Pain No Gain
 「10代の代弁者」と言われるように、彼の歌は大人や社会との摩擦や葛藤を表現しているものが多く、「自由」という名の「不自由さ」を感じながらも本当の自由や真実を求め歌い続け、その姿が多くの人と時代の共感を得て広がっていきました。

 そして、その憤りは彼自身の経験からきているものでした。

 お母さんが病気がちだったため高山に預けられた幼少期の寂しさ、自主退学を余儀なくされた高校との軋轢、3枚のアルバムがオリコンチャートを独占すると手のひらを返したように群がってくる人々、豊を商品としてしか見ていない面々……。

 豊はそういった出来事にあうたび、自分は騙されているのではないか、搾取されているのではないか、そして「誰からも愛されていないのではないか」という思いを抱えるようになり、それが日々大きくなっていったように思います。

 当時は煌びやかなバブル期でもあり、表面では理解者のようでも内心は異なっている二枚舌の人や、腹黒く、図太い人間たちも確かにいて、社会に出たばかりの豊にとっては「それも社会の一部分」とは割り切れなかったのでしょう。豊はそういった人たちを見抜く力も持っていたにも関わらず、人を信じたい気持ちが誰よりも強かったので、裏切られたときの傷みは、かなり大きかったと思います。

 「豊のために」といって、取り繕った笑顔で近寄ってくる人たちの内面が見え隠れするたびに、彼の繊細な心が傷ついていくようでした。当時、アーティストとしての地位も築き、大人びてみえていたものの、豊はまだ23歳。彼がその悩みと苦しみを抱えながら生きることは、いくら多くのファンや支えによって癒されたとしても、その傷跡を常にえぐられるような痛みだったのだと思うのです。

 ですが、皮肉なものでこの繊細な感性が、豊の音楽や言葉を生みだす源になっていました。聴く人の孤独に手を差し伸べ、一緒に怒り、哀しみ、励まし……それは「豊が魂を削った彫刻」でもあるのです。私はともに暮らし、豊が魂を削りながら楽曲が生まれる瞬間、削ぎ落とされて磨かれていく過程を傍で見守り、時には寄り添いながら間近で見てきました。

 20歳のときにしばらく滞在していたNYから帰ってきた豊は、「No Pain No Gain」という言葉を私に教えてくれました。NYでの経験から、「痛み失くして得るものはない。痛みから得るものは、その大小に関わらず自分の身になり前進していくものなんだ」と、彼は実感したようでした。

 豊は、曲を創るときはいつも自分だけの世界に浸り、それが形になると「繁美、聴いて」と歌ってくれる。言葉が生まれ、メロディと一体になることで、常にその感性にハッとさせられました。そして同時に、包み込まれるような温かさ、突風のような激しさに、心が揺さぶられて自然に涙が込み上げてきたことが何度もありました。それでも豊はすぐには妥協せず、創り上げた曲を壊したり、磨き直して、ひとつの作品に仕上げていくのです。

 一緒に暮らしてから、結婚してから創った楽曲を聴くたびに、あの時の匂いや光、息づかい、鍵盤をたたく指先、ギターの流れるような旋律、ラジカセのスイッチの音など、瞼を閉じるとすぐそこに豊がいるように、想い出の細部まで鮮やかに……今も蘇ります。

どこまで許されるのか、限界を試そうとする豊
 表では、まばゆいばかりの光を放つ若きロックシンガーとしての尾崎豊でしたが、傷ついた想いや、傷そのものを私には丸ごと見せていました。

 そのひとつの形が、私に対する嫉妬や束縛だったのかもしれません。豊は心が傷つくたびに、「繁美も自分の周りにいる大人と同じなのではないか」と、私を何度も試そうとし、その行為は徐々にエスカレートしていきました。

 その一例を挙げると、「家から出るな」「友達と会うな」と行動を制限されたり、一緒に外に出れば「俺のほうか、下を向いていろ」と言われたり……。当時ロングヘアだった私に「髪をかき上げるな、切れ」と言ってきたり……。要求に驚愕し、戸惑うこともありました。

 ある日、某アーティストのレコードを持ってきて、「このジャケットに写っているのは繁美だろう。背中のホクロの位置が同じだ」と激怒したのです。当然、別人ですし、物理的に豊とほぼ24時間一緒にいるのに、なぜそう思い込んだのかはわかりません。ただそう思ったら、誰にも豊を止められない。これは後からわかったことですが、プロの調査員にこのジャケットのモデルが私かどうか調べさせたというのです。

 どう見てもモデルは私ではないのに、それすら疑心暗鬼になっていたのは、豊が闇を抱え始めていたからでした。このような彼の行動や行為は想像できないことかもしれませんが、豊は愛を歌うアーティストであり、稀有な才能や感性を持つ人ですから、人とは違うのは当たり前のことで、常識は通用しない。そして、私はそんな彼を受け入れながらも、なぜ豊がこういった想いを抱くのか、いつも俯瞰して考えるようにしていました。

 豊がゴールも正解もない猜疑心に取りつかれてしまったのは、おそらく、所属事務所との間にさまざまな問題があったからだと思います。

 学校を放り出された、まだ18歳の孤独な少年が、バブル景気に浮かれる1980年代の音楽界にたったひとりで入っていったのですから、そこには夢と現実の葛藤があったのではないかと……。そして当時、アーティストはスターとしてもてはやされる反面、対事務所の立場としては決して高い地位とは言えませんでした。

 私が出会う前のことですが、豊は青山学院高等部を中退後、ファーストアルバムを出してから2年も経たないうちに、圧倒的な人気を得て、早すぎる伝説を作りあげていきました。レコードの売り上げ数や、増え続けるファンの数だけでなく、時代を動かす10代の代弁者と称されるようになります。すると、その時代の多くのアーティストがそうであったように所属事務所がレコード会社を立ち上げる、という流れの中で、一度は信じてついていったものの、豊と事務所の間には考え方の違いが徐々に現れてくることになり……。それまで頼っていた大人たちへの信頼感が揺らぐようなきっかけにもなっていったのです。それは単に人や事務所を変えればいい、辞めればいい、という話では済まされなくなっていました。

豊は憤りを感じながら常に葛藤していた
 豊は目の前の自分を取り囲む状況に悩みながら葛藤を続けていました。側にいる私は、豊の心の痛みを常に感じていました。私に無理難題を押し付けるのは、「お願いだから俺を信じさせてくれ」という心の叫び……。そして、当時豊は23歳、私は21歳と豊の方が少し年上ですが、私は聖母マリアのような存在として豊を包み込むことを求められていました。私は求められることすべてを受け入れ、吸収して、それをエネルギーに変えて、彼に返していたように思います。

 この当時の誕生日に豊から贈られた手紙があります。
「真実の愛のために生まれた僕の親愛なる妻 繁美へ」というタイトルで綴られたものでした。

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1989年3月12日、お誕生日おめでとう。
僕の妻になってから初めての誕生日おめでとう。これからもずっと仲の良い夫婦でいようね。僕らの生活を取り巻く状況がどんなに辛くなっても頑張っていこうね。

僕は最近ようやく僕にとっての新しい愛の生活の道を繁美との夫婦生活の中で見つけた様な気がする。信じることをもう一度君にぶつけられる様な気がしている。だからどうか僕が繁美を信じる気持ちを、その胸で受け止めてほしい。

愛とは強く二人で育むものだと僕は思う。だから我が儘なものかもしれない。
でも、それはとても輝く筈だ、僕たち二人の人生を輝かしてくれる筈だ。そしたら周りの冷たさにも耐えていける。きっとそうだよね。

君だけのことをずっと今まで見つめて来て本当によかったと思う。そしてこれからもずっと君だけを見つめさせてほしい。そして君も僕だけを見つめて欲しい。なんだかようやく僕にも繁美との愛が分かりかけているんだ。

優しくして下さい。信じさせて下さい。どうか心を僕に傾けて下さい。
心から信じ合い喜び合い助け合いわかち合い、それを強く守るのが僕の愛なのだと君に教えておこう。 
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 そして、あるときから、豊は「繁美になりたい」と言うようになりました。私は豊を抱きしめ、髪を撫でながら「誰も自分以外にはなれないんだよ」と教え諭すように言うと、ただただ彼は涙を流しました。今思うと、彼の嫉妬や束縛は、遠くに耀く星を求めるような「憧れ」だったのではないかと思うのです。

 取材・文/前川亜紀
尾崎 繁美

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