栗山監督、最低選手だった?ちゃんと知って書いてる?

この記事のライター、栗山監督の選手時代をキチンと知って/取材して書いてるのか?最低選手?本人がそう言ってたら、そのままそう書くのか?

確かに、国立大東京学芸大出身、教員資格を持つ、違能の選手だった。しかし、ヤクルトで関根監督は、エラーやチョンボの多かった栗山も長嶋も、三振の多かった池山も廣澤もホーナー/パリッシュも愛して使った。

最低の転機が来た。野村監督の就任だ。とにかく、目立つ選手が大嫌い。タレント松本典子と結婚した苫篠弟と、長嶋茂雄の息子長嶋一茂と国立大出身の栗山英樹がマトにされた。阪神の時の坪井や今岡らと同様に!

人気を僻まれ、干された理不尽、転落したストレスからメニエルを発症した。この怒り、何故プロ野球マスコミがキチンと取り上げなかった?そしたら、野村監督は阪神で坪井や今岡らに繰り返せなかったのに。

選手を辞めた栗山、スポーツキャスターとして活躍した。その過程で、イチローの奥さん福島と女子テニス伊達で二股するスキャンダルを取り上げられ、降板した。以後は、北海道栗山町に移住したんじゃなかった?

 

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「最低」選手だった栗山英樹がなぜ世界一の監督になれたのか
3/29(水) 8:27 Yahoo!ニュース
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「史上最強布陣」を率いて3大会ぶりのWBC優勝を果たし、名実ともに世界一の監督となった栗山英樹監督(UPI/アフロ)
 日本中を歓喜と感動に包んだ野球の第5回ワールド・ベースボール・クラシックWBC)。栗山英樹監督率いる侍ジャパンが決勝で米国を破って3大会ぶり3度目の優勝を飾った。東京での1次ラウンドから7戦全勝。しかも米マイアミでの決勝戦は、全員メジャーリーガーをそろえた米国代表の「ドリームチーム」をねじ伏せての勝利だった。

 今回の日本代表は、大谷翔平ダルビッシュ有ら大リーガー4人に、昨年最年少三冠王となった村上宗隆、完全男・佐々木朗希ら国内組を融合させた史上最強の布陣といわれた。その黄金集団を一つにまとめあげた栗山監督の采配がひときわ目を引いた。

 2006年の第1回大会の王貞治監督から17年の第4回大会の小久保裕紀監督まで、過去5回のWBC侍ジャパンを率いたのは、現役時代に日本を代表する名選手だった。その点、栗山監督の現役生活はわずか7年間。実績の面で過去の4人とは大きく見劣りする。それでいながら過去の4監督以上の存在感で日本を「世界一」に導いた。

 野球エリートとは全く異なる道のりを歩んできた栗山監督。苦しみ、努力を重ねてきたからこそ、指導者として必要な忍耐力や包容力を高めてきたように思える。栗山監督の足取りをたどり、「世界一」に上り詰めた背景を多くの著書から読み解いてみたい。

国立大卒初のプロ野球監督
 
『スカウト物語』(片岡宏雄著、健康ジャーナル社)
 栗山監督がプロ野球の世界に飛び込んだのは1984年のことだ。教員養成を主目的とした国立大学である東京学芸大学で野球に打ち込む一方、教員資格も獲得し、文武両道に励んだ大学時代。卒業を前に、同級生が教員採用試験に臨む中、栗山はプロ野球選手を目指して西武、ヤクルトの入団テストに挑んでいた。

 進路をプロ野球へとかじを切ったきっかけは、元プロ野球選手で、フジテレビの「プロ野球ニュース」のキャスターをしていた佐々木信也さんの一言だった。大学4年の春、佐々木さんの息子が在籍する玉川大学との練習試合に出場した栗山のプレーを佐々木さんが見ていた。試合後、佐々木さんに感想を聞いた時だった。

 <佐々木さんが僕に視線を向けました。「キミなら、プロ野球でやっても面白いかもしれないね」。この瞬間に湧きあがった気持ちにふさわしい言葉は、30年以上経ったいまでも見つけられません。嬉しかったのは間違いないし、興奮したのも確かです。何よりも、それまで真っ暗闇だったプロ野球選手への道のりに、パパパパパッと灯りが点ったようでした>(『栗山魂』栗山英樹著、2017年河出書房新社、75頁)

 ヤクルトのスカウト、片岡宏雄(2021年死去)は著書『スカウト物語』(2002年、健康ジャーナル社)で栗山獲得のいきさつをこう振り返っている。<栗山は、ドラフト外で入団テストを受けて合格し、昭和59年に東京学芸大学から入団した。私としては、国立大学を卒業しているのだから、何も無理してプロに入る必要はないと考えていた。私が栗山に「無理するな。就職したらええやないか」と言うと、「どうしても野球がやりたいんです」と一歩も引かなかった。頑固な栗山を見て、まじめで一本気な男だと感じた。>(『スカウト物語』145頁)

入団当初の挫折を救った言葉
 
『栗山魂』(栗山英樹著、河出書房新社
 こうして開いたプロの扉。だが、同期入団の新人が顔をそろえた合同自主トレ初日から栗山を待ち受けていたのは圧倒的な「力の差」だった。それまで体験したことのない挫折感に襲われた。

 自信を失い、キャッチボールすらまともにできなくなっていた。シーズンが始まり、2軍戦に出場する機会ができたが、攻守に精彩を欠き、チームメートから「クリが出たら勝てない」「クリが守っているときは投げたくない」という声が出るほど。

 そんな時、2軍の内藤博文監督(2013年死去)が連日、栗山の居残り練習に付き合ってくれた。上達の手ごたえがつかめない日が続いたが、ある日の練習後、内藤が声を掛けた。

 <「なあクリ、プロ野球っていうのは競争社会だよな。1軍に上がらないと認められないよな。でも、オレはそんなことはどうでもいいんだよ。お前が人間としてどれだけ大きくなれるかどうかのほうが、オレにはよっぽど大事なんだ。だから、周りがどう思おうと関係ない。明日の練習で今日よりほんのちょっとでもうまくなっていてくれたら、オレはそれで満足なんだよ。他の選手と自分を比べるな」。内藤監督のひとことひとことが、身体のなかにゆっくりと染みこんでいきました。>(『栗山魂』100頁)

 「他の選手と比べるな。昨日の自分と今日の自分を比べればいい」という内藤監督の言葉に力を得た栗山は、野球に打ち込めるようになり、着実に力をつけていった。2軍の最低レベルからスタートした栗山のプロ野球人生だったが、1年目の公式戦最終2試合に1軍の試合に呼ばれ、初出場、初打席(遊飛)も記録した。

 そして秋季キャンプでは、右投げの内野手だった栗山にとって二つの「二刀流」への挑戦が始まる。一つは外野守備の特訓であり、もう一つが左打ちの習得だった。

若松の指導で左打ちに挑戦
 左打ちは、チーム随一の大打者のひと言から始まった。若手の相談役でもあった若松勉が秋季キャンプ中、栗山にこう尋ねた。「クリ、お前、トシはいくつだ」。「23歳です」と答えると、若松は残念そうに「そうか、惜しいなあ。あと3年若かったらなあ」とつぶやいた。右打ちのバッティングフォームが固まっていると、左打ちの習得は難しい、というのが球界の常識とされていた。

 <23歳からのスイッチヒッター転向は、無謀なことなのかもしれない。逃げ出したくなるぐらいの練習が待っているだろうし、ひょっとしたらモノにならないかもしれない。でもな、と僕は思うのです。(略)僕がプロになることだって、普通に考えたら難しいことでした。(略)難しいことを難しいと言ったら、何もできない>(『栗山魂』111頁)

 そこから猛特訓が始まる。<とにかくバットを振って、振って、振りまくりました。手のひらにマメができ、マメが潰れて血だらけになっても、練習量を減らすことはできません。2年目のシーズンをスイッチヒッターとしてスタートするためには、左で打つ感覚を秋季キャンプでつかんでおくのは必須です。痛みでバットが握れなければ、バットと手をテーピングでぐるぐる巻きに固定して練習を続けました。ご飯を食べる時のハシも、左手で使うようにしました>(『栗山魂』112~113頁)

病魔との闘い
 1軍と2軍の往復が続いた2年目の5月、原因不明の病魔が栗山を襲った。<その日はイースタンリーグのゲームがあり、ゲームは最終回を迎えていました。僕はセンターの守備位置につき、外野手同士のキャッチボールをしていると、いきなり目の前がグルグルと回り始めたのです。ボールが二重にも三重にも見えて、足元が左右にグラグラと揺れる。すぐに吐き気にも見舞われました。>(『栗山魂』115頁)

 異変はその後も予告なしに栗山を襲った。最初は週に1度ほどだったが、やがて頻度が高まっていった。

 シーズン終了後、大学病院を受診した。診断は「メニエール病」という、原因不明の病気だった。2度の長期入院を経て、症状は軽くなったものの7年間の現役期間中、メニエール病が完治することはなかった。

 病気の不安と闘いながらではあったが、スイッチヒッターとして定着し、外野守備も俊足を生かして存在感を高めた栗山は、年ごとに1軍の出場機会を増やし、入団6年目の1989年には125試合に出場、犠打はチーム最多の37をマーク、初めてのゴールデングラブ賞を受賞した。

 プロ野球選手として、これから絶頂期を迎えようとしていた7年目、またも不運が栗山を襲った。何かと栗山に目をかけてくれた関根潤三監督に代わり、野村克也氏が新監督に就任した。

 野村は「アットホームでぬるま湯体質につかっていた」チームの体質を根底から変革するため、大幅なメンバーの入れ替えを図った。野村の目に、病気治療のため春季キャンプの参加が遅れた栗山は「旧体制」と映ったのか、急激に出場機会が減った。

名将・野村とは異なる考え方
 
[関連写真]
『監督の器』(野村克也著、イースト新書)
 栗山は、7年目のシーズン限りで引退を決断した。そのことは親しいトレーナーにしか伝えていなかった。

 現役最後となった試合は10月10日の横浜大洋戦(横浜スタジアム)。九回1死後、監督から「次の打者の代打で行くぞ」と指示され、準備をしていたが、前の打者が内野ゴロ併殺打でゲームセット。栗山の「現役最後の打席」は消滅した。

 野村監督と栗山の相性は良くなかったようだ。余談だが、野村は後に日本ハムの監督に就任した栗山について、著書でこんな酷評をしている。

 <最近はどういう基準でプロ野球監督を選んでいるのだろうと首をかしげたくなることが多々ある。北海道日本ハムは昨年、評論家の栗山英樹を監督に迎えた。私は栗山の監督就任の話を聞いた時、正直言って「えっ、栗山で大丈夫か?」と思った。彼は監督どころかコーチの経験すらない><彼は尊敬する監督として、長嶋茂雄や戦後の知将、三原脩さんの名前を挙げていた。私の影響はないと言いたかったのだろう>(『監督の器』2013年イースト新書)

 では栗山は「監督」という仕事について、どう考えていたのだろうか。日本ハムの監督に就任して4年が過ぎた2015年に上梓した『未徹在』(KKベストセラーズ)の中で「「監督の役割」について考察している。

 <監督は偉いという間違った認識と同様、もうひとつ誤解されていることがある。それは監督が指導者であるというものだ。大学以下の若い世代のアマチュア野球であれば、監督が指導者であるケースは多いと思う。だが、プロ野球は、そもそもアマチュアでやっていたトップレベルの選手たちが集まってくる世界であり、彼らを技術的に指導しようと思えば、もっとカテゴリーを細分化したエキスパートが求められる>と指摘したうえで、芸能プロダクションのマネジャーのように、個々の選手について「どのように努力させたら伸びるのか」「どのように起用したら輝くのか」を考えているという。(『未徹在』58頁)

 そのために必要なのは、選手を信じることだ。今回のWBCでも、不振に苦しんだ昨年の三冠王、村上宗隆を起用し続け、最後の最後に本来の力を発揮させた。マネジャーとして選手の力を信頼し、結果に結びつけた実例と言える。

成し遂げた「最高のチーム」づくり
 
『「最高のチーム」の作り方』(栗山英樹著、KKベストセラーズ
 「監督の仕事は選手を輝かせること」。栗山は2016年のシーズンで初めて日本シリーズを制し、日本一を達成した直後に出した『「最高のチーム」の作り方』(KKベストセラーズ)の中で、1章をもうけて監督と選手の付き合い方を書いている。

 自他ともに「実力最低レベル」でプロの世界に飛び込んだ栗山監督。苦しい状況を、周囲に支えられながら克服し、多くのことを学んできたからこそ指導者としても選手を信頼し、成長させるすべを知っている、ということではないだろうか。

 今回のWBCで「侍ジャパン」に招集した選手全員に栗山監督は自筆の手紙を手渡したと報道されている。選手を信頼し、ともに戦うことを手紙に託した栗山監督。テスト生からプロの階段、努力で監督にまで駆け上がり、著書の書名の通り、「最高のチーム」を作り上げた。
中島章隆

 記事に関する報告

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