野茂とMLB、ちゃんとわかって書いてるの?

とにかく、労使問題はオーナー側に付き、選手に歩み寄る姿勢のない、節穴NPBマスコミ、ドコまでわかって、当時をちゃんと覚えて書いているのか、見えない。

野茂英雄、阿波野秀行で2年越しでパ・リーグ優勝した仰木彬監督の近鉄、巨人との日本シリーズでは3連勝の後に4連敗した翌年に入団した。

投手コーチは権藤博、阿波野を筆頭に投手のトレーニングや帯同環境などの改善要求の理解者であり受け皿だった。しかし、優勝翌年開幕前に辞任し、阿波野や山崎や加藤や吉井らの投手陣は空中分解、個人のために投げるだけの集団に変わった。

ソコから、野茂はあのトルネードと言われたあの投げ方で、四球連発しながら入団から4年連続最多勝した。1年目以降の大活躍で、フジテレビ月9ドラマ「素敵な片想い」の、キャストネームとして、中山美穂⇒与田、柳葉敏郎⇒野茂、石黒賢⇒潮崎と使われた。佐々木らは使われなかった。

しかし、近鉄監督が仰木彬から鈴木啓示に変わり、選手を顧みないチームになり、更にダメチームになった。野茂も故障離脱、次年契約更改チーム方針などで決裂した。

近鉄は、解雇同然で野茂を放出した。5年目の故障⇒オフ放出で、肩の回復など疑問視された。ダン野村のマネジメントでドジャースとの契約はデキたが、マイナー契約インセンティブなしだった。

NPBマスコミ、節穴ぶりを発揮し、通用するワケないと報じていた。初勝利に約1ヶ月かかり、「それ見たコトか!」と。

ホントに節穴だった。当時から、MLBで通用する日本人投手像として、1、変則モーション、2、タマの強さ、3、変化球だった。全てに当てハマっていた。故障さえ完治していれば、NPBパ・リーグ4年連続最多勝投手が活躍デキないハズはなかった。アメリカのマスコミは、日本No.3の投手が来たと報じた。1位は伊良部秀輝、2位はケガする前の桑田真澄、3位が野茂英雄だった。

週1回登板の近鉄の頃より、中4日登板のMLBに備えて、トルネードの捻り方やテークバックなどを簡略化した。力感は減ったが、カラダの使い方がスムーズになった。タマ数は減り、フォークのキレもコントロールも改善し、あの雨の中、オールセットポジションのトルネードナシで、ノーヒットノーラン達成デキた。

野茂英雄近鉄で背番号11⇒ドジャースで背番号16、大谷翔平も日ハム⇒エンゼルスで同様ではない?

 

 

 

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「通用するはずがない」26歳の日本人が“年俸980万円”でメジャー挑戦…28年前、“人気急落”のアメリカ野球を救った野茂英雄の伝説
5/4(木) 11:02 Yahoo!ニュース
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日本での安定した地位を捨て、自分の力を試す道を選んだ無口な若者が、アメリカ野球の救世主になった(写真はイメージ) photograph by Kazuaki Nishiyama
球史に残る大投手の生涯ベストシーズンの成績を比較して、日本プロ野球史上No.1投手を探る旅。金田正一江川卓、山本由伸、沢村栄治らに続く第10回は、日本人選手にメジャーへの道を拓いたパイオニア野茂英雄(近鉄-ドジャース他)だ。

【画像】「ノモさん、サインをください…」ボディーガード付きの野茂英雄に殺到するアメリカ人たち(当時の旋風がひと目でわかる写真多数)…「あのイチローとの激闘(結果は…?)」「球場で気持ちよさそうに昼寝」から“あのWBCイタリア監督”にお酒をかけられる姿まで一気に見る

野茂がメジャーデビューした日
 日本のプロ野球発展に大きな影響を与えた投手を二人挙げるとするなら、それは沢村栄治野茂英雄だろう。

 1934年11月20日。弱冠17歳の沢村栄治が、静岡草薙球場ベーブ・ルース率いるメジャーリーグ・オールスターチームから三振の山を築いた。

 この日を境に「日本プロ野球が始まった」といわれるなら、「日本プロ野球の門戸が開かれた日」は野茂英雄のメジャーデビューになるだろう。

 1995年5月2日。近鉄からロサンゼルス・ドジャースに移籍した野茂英雄が、サンフランシスコのキャンドルスティックパークでジャイアンツを相手に5回を投げて1安打、7奪三振、無失点に抑えた。終戦後長く“鎖国”していた日本プロ野球が、世界に開かれた瞬間だった。

 メジャーへの初の挑戦者になった野茂(1964年に南海の村上雅則サンフランシスコ・ジャイアンツの一員としてメジャーデビューしているが、村上は南海所属の選手として野球留学中のテンポラリーの出場だった)は当時、間違いなく日本最高の投手の一人だった。

プロ1年目成績が驚異的だった
 1989年のドラフトで、新日鉄堺に所属していた野茂は史上最多となる8球団から1位指名を受けた。それも、東北福祉大学佐々木主浩、NTT東京の与田剛、早稲田の小宮山悟松下電器潮崎哲也、野手では上宮高校の元木大介錚々たる顔ぶれが揃う中での競合指名である。

 近鉄入団1年目の1990年、野茂は18勝8敗の好成績で、最多勝最優秀防御率最多奪三振、最高勝率と投手4冠を達成。併せて新人王、ベストナイン、MVP、沢村賞を受賞するという鮮烈なデビューを飾った。日本プロ野球史上、新人王・MVP・沢村賞を同時に受賞したのは野茂一人である。また、この年の三振奪取率10.99は、2019年の千賀滉大(11.33)に破られるまでパ・リーグ記録だった。

 そこから4年連続で最多勝最多奪三振のタイトルを獲得。この「新人から4年連続で最多勝最多奪三振」も、プロ野球史上、野茂のみである。

 こうして、順調に日本屈指の投手に成長していったが、5年目の1994年に運命が暗転する。

メジャー挑戦を決めるまで
 前年の1993年から近鉄の監督が、野茂のよき理解者だった仰木彬から鈴木啓示に変わった。鈴木は、野茂の特異なトルネード投法に否定的で、四球を減らすためにフォーム改造を主張していた。

 さらに、こんな「事件」もあった。シーズン途中から右肩痛に悩まされていた野茂は、7月1日の西武戦で制球が定まらず、なんと16四球(日本記録)を献上。結果として完投勝利を収めるも、途中交代することなく甲子園もびっくりの191球を投げさせられた。

 鈴木による、みせしめとも取れるような酷使によって故障を悪化させた野茂は、その後登録を抹消され、結局このシーズンは8勝、126奪三振に留まり、デビュー年から続けていた最多勝最多奪三振の連続受賞記録が途絶えてしまった。

 1994年のオフの契約交渉で、野茂は複数年契約と代理人による交渉を持ちかけて球団と対立。故障で投げられないままシーズンを終えた投手の主張を、マスコミも“わがまま”と批判的に報じて、すっかり悪役になってしまった。

 結局、近鉄との交渉は決裂。野茂は日本のどの球団にも移籍できない任意引退選手となった。

「年俸980万円」を選んだ
 とはいえ、メジャーははるかにレベルが高いと考えられていて、日本での成功を捨ててメジャーに挑戦する選手はそれまで現れなかった。野茂がロサンゼルス・ドジャースと契約した後も、ほとんどの評論家は「通用するはずがない」と、野茂の挑戦を冷ややかな目で見ていた。野茂の年俸はメジャー最低保証の10万ドル(当時のレートで約980万円)。近鉄時代の推定1億4000万円から大幅な減額になっての挑戦だった。

全米に「トルネード旋風」
 日本球界から石もて追われるようにアメリカに渡った野茂だったが、マイナー契約から実力で開幕メジャーを勝ち取り、ドジャースの1年目に13勝6敗、防御率2.54、奪三振236という圧巻の成績を収め、新人王も獲得。オールスターの先発という夢のような舞台まで経験した。

 メジャーで旋風を起こす野茂を日本の野球ファンは熱狂的に応援し、日本野球を知らなかった米国の野球関係者は「パ・リーグの6球団にはどこも、野茂に匹敵する投手が二人はいるよ」という千葉ロッテマリーンズボビー・バレンタイン監督の証言に驚愕した(ロサンゼルス・タイムズ1995年7月31日)。

 野茂は、日本での5年間よりはるかに長い12シーズンをアメリカでプレー。通算123勝109敗、1918奪三振防御率4.24の成績を残し、2度のノーヒット・ノーランまで達成した。

山本由伸と比較すると…
 さて、いよいよ当企画の昭和後期以降の現チャンピオンである山本由伸(オリックス)と野茂の勝負である。

 野茂の日本プロ野球でのベストシーズンは、近鉄入団初年度で、投手4冠を達成して沢村賞を受賞した1990年になる。この年の成績と、山本のベストシーズンである2021年の成績を比較すると以下のようになる(赤字はリーグ最高、太字は生涯自己最高)。

【1990年の野茂】登板29、完投21、完封2、勝敗18-8、勝率.692、投球回235.0、被安打167、奪三振287、与四球109、防御率2.91、WHIP1.17

【2021年の山本】登板26、完投6、完封4、勝敗18-5、勝率.783、投球回193.2、被安打124、奪三振206、与四球40、防御率1.39、WHIP0.85

 野茂は、完投数、投球回で大きく山本をリードしているが、これは時代による差が大きい。当企画で重視している「打者圧倒度」――1試合あたりの被安打数、9イニングあたりの奪三振率、防御率、WHIP(投球回あたり与四球・被安打数の合計)を見てみたい。

 1試合当たりの被安打数は、野茂の6.40に対して、山本5.76と山本リード。一方、奪三振数は野茂が勝り、9イニング当たりの奪三振率も、野茂10.99、山本9.57と凌駕。さすがは“ドクターK”である。

「四球の数」に大差の理由
  二人の差で最も顕著なのが四球数で、野茂の109に対して山本は40。

 野茂は、四球で出したランナーを背負いながら、最後は高めの速球か消えるフォークで三振というのが定番だった。事実、新人から4年連続でパ・リーグの与四球王。それでも抑えるという典型的なパワーピッチャータイプだった。

 対して山本は精密な制球を誇る。この制球力の差はそのまま、WHIP、そして防御率の差の原因になり、いずれも山本が上回った。先述した「打者圧倒度」という視点では、山本に軍配を上げざるをえない。

 以上からオールタイム・チャンピオンは沢村栄治、パートタイム・チャンピオンは山本由伸でタイトルの防衛とする。

 筆者は、近鉄時代の野茂を目撃しているが、西武の四番・清原和博との力と力の対決の場面の迫力は、いまでも目に焼きついている。野茂はフォークを封印して、ストレート一本で1歳年上の西武の主砲に挑んでいった。

 メジャー挑戦初年度のオールスターで、当時世界最高のスラッガーと言われたフランク・トーマス(シカゴ・ホワイトソックス)を2ストライクと追い込んだとき、捕手のピアザは三振を取ろうとフォークのサインを出したが、野茂は首を振って思い切りストレートを投げ込んだ。結果はびっくりするほど高く上がったキャッチャーフライだったという。(「僕のトルネード戦記」野茂英雄 集英社文庫)

米メディア「野茂は野球の救世主」
 日本での安定した地位を捨て、より高いレベルで自分の力を試す道を選んだ無口な若者は、トルネードと呼ばれたユニークなフォームから繰り出す最速157キロのストレートと打者の手元で消えると恐れられたフォークボールで三振の山を築き、全米を熱狂させた。そして、その熱狂は、二度の世界大戦中も開催されていたワールドシリーズを中止に追い込んで、この年の開幕をひと月も遅らせた232日間に及ぶ選手のストライキで失われた野球への関心を引き戻した。

「野茂は、アメリカでは野球という国民的娯楽の救世主となり、日本でも国民の誇りの象徴になった」(シカゴ・サンタイムズ1995年9月13日)

 本場の野球人気を取り戻した救世主であり、日本人のメジャー挑戦の扉をこじ開けたパイオニア野茂英雄。彼が残した功績は今後も色褪せることはない――そう断言できる稀有な野球人である。
(「プロ野球PRESS」太田俊明 = 文)
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