今や凋落した日本オートバイメーカー!

日本の機械技術、基本は小さくて精密かつ高効率、二輪でも四輪でも同様、小さいエンジンでも馬力&トルクに優れていた。挙げ句、70年代には一部ターボも試されていたし、4サイクルエンジンだけでなく2サイクルエンジンにも力を入れ、モータースポーツで2輪では4サイクルと2サイクル、4輪ではロータリーと4サイクルと2サイクルが争っていた。

70年代から90年代、特に二輪ではホンダやヤマハやスズキやカワサキは、世界GPでも二輪F1やスーパーバイクでも素晴らしかった。

世界GPの2サイクル⇒4サイクル化レギュレーションが、スーパーバイク類似化を招き、排気量任せのバイク作りに転換させた。

ホンダが計画していたと言われた、4サイクルターボ125/250を使用した、GP250/GP500エントリーもなくなり、小排気量高効率のバイク作りが消し飛んでしまった。

市販車両も、ソレに合わせた排気量任せ車両ばかりになった。250cc市場は死滅した。死滅して、四半世紀になる。中古車はバカ上がり、新車は死滅、嘗てのユーザーは戻らない。元々、転倒や事故ケガの恐れがある二輪はバカなZ世代にはウケが悪い。

ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキ、復活したければ、公道ゴーカートを充実させる以外にないと思う。今の原チャリゴーカートに6段リターン以上の変速ギヤを着ければ、加速や登坂能力は遥かに向上デキる。原チャリエンジン、ホンダドリーム50みたいなスーパーエンジンやミッションもある。変速は、バック以外をパドルシフトすれば良い。

又は、4メーカー共同で、公道ゴーカートを排気量250ccまで引き上げ要望したらいい。変速ナシでも多気筒化すれば、公道が高速道路でもカバーデキるハズだし、車検要らない250ccなら、単座でも男女ユーザーを発掘デキる。

 

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なぜ日本は世界に誇るバイクメーカーがたくさんあるのか? その経緯を振り返ってみた!
5/3(水) 9:00 Yahoo!ニュース
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世界的なバイクメーカーの根幹にあるのは浜松の風土?
 世界には数え切れないほどのバイクメーカーが存在していますが、世界トップシェアを誇るホンダを筆頭に、ヤマハ、スズキ、カワサキをあわせた4メーカーだけで、世界で販売されるバイクの30%以上を占めています。

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世界シェアで日本のバイクメーカーは圧倒的な地位を築いた
 自動車大国と呼ばれることの多い日本ですが、世界シェアで言えばバイクのほうが圧倒的です。では、なぜ日本のバイクメーカーはこれほどまでに圧倒的な地位を築けたのでしょうか。

 ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキの4メーカーが本格的にバイクの生産・販売をはじめたのは、意外にも戦後になってからのことです。現存する世界最古のバイクメーカーと言われるロイヤルエンフィールドの創業が1901年であることを考えると、およそ50年のビハインドがあることになります。

 
Royal Enfield 500 Fury copy(1960)
 もちろん、戦前の日本にも多くのバイクメーカーがあったほか、ハーレー・ダビッドソンのノックダウン生産もおこなわれていました。ただ、現存するバイクメーカーとの関連は薄く、戦後4大メーカーが急成長を遂げた要因は別にあるといえそうです。

 4大メーカーのうち、カワサキをのぞく3社が、現在の浜松周辺を創業の地としていることはこの謎を解くヒントになりそうです。

 一年を通して温暖な気候であるうえ、天竜川などの水資源も豊富という特徴があった浜松は、かねてより綿花の栽培に適していることで知られていました。その結果、戦前の浜松は繊維産業で栄えており、それに関連して織機などの工作機械産業も発達していきました。

 そうした風土は、多くの発明家を生みました。日本で初めて本格的なオルガンの製造に成功した山葉寅楠氏や、横しま模様を織ることのできる「二挺杼足踏織機」を開発した鈴木道雄氏などがその代表例です。

 
1952年に登場したスズキの「パワーフリー」
 山葉寅楠氏が創業した日本楽器製造や、鈴木道雄氏が創業した鈴木式織機製作所は、移動の効率化を求める時代の要請に応えてバイクの製造をはじめることになります。それらは後に、ヤマハとスズキという世界を代表するバイクメーカーへと成長していきますが、その原点には、楽器製造や織機製造のノウハウが活かされていたようです。

 また、浜松のこうした風土は、「やらまいか」と呼ばれる浜松の人々の気質を生み出したようです。「とにかくやってみようというチャレンジ精神」を意味するこの気質は、後に世界最大のバイクメーカーを創業する本田宗一郎氏にも大きな影響を与えたと言われています。

 つまり、日本に世界を代表するバイクメーカーが多い背景には、浜松という土地の風土が少なからず関係しているといえそうです。

戦闘機からバイクへ?戦後の混乱のなかで成長した日本のバイク産業
 一方、日本のバイクメーカーが戦後になって急成長を遂げたのには、また別の理由もあるようです。

 敗戦国として1945年に終戦を迎えた日本は、アメリカを中心とした連合国軍の総司令部(GHQ)によって統治されることとなりました。日本の軍事力解体がGHQ最大の目標であったことから、軍需産業、そのなかでも航空機産業については厳しい規制がおこなわれ、航空機の研究や製造の一切が禁止されてしまいました。

 
富士重工業の「S601」
 その結果、それまで航空機製造をおこなっていた企業は方針転換せざるをえず、三菱重工業から派生した三菱自動車や、中島飛行機から派生したスバル(富士重工業)などのように、自動車製造などをおこなうようになります。

 
第二次世界大戦時「飛燕」などの戦闘機を製造していた川崎重工業
 「飛燕」などの戦闘機を製造していた川崎重工業も、事業を転換する必要のあった企業のひとつです。川崎重工業の航空機開発部門であった川崎航空機は、戦後バイク用エンジンの製造をおこなっていましたが、1964年に大型バイクメーカーであった目黒製作所を吸収合併して以降、1969年に「500SS」、1972年「900 SUPER FOUR」を発売し、その地位を築いていきます。

 戦前の日本の航空機産業は、世界有数の技術水準を持っていたと言われています。航空機の製造に携わっていた優秀な技術者たちが、戦後バイクの製造を手掛けたことが、日本のバイクメーカーが急成長を遂げた大きな要因のひとつのようです。

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 これにくわえて、敗戦から立ち直ろうと努力した当時の人々の精神があることは言うまでもありません。

 1960年代以降、日本のバイクメーカーは世界選手権ロードレース(現MotoGP)などで輝かしい成績をおさめ世界にその名を知らしめますが、レースへの参戦は、単にマーケティング上の目的だけではなかったと言われています。

その後、モータースポーツの世界はもちろん、市販車の販売でも世界を席巻することになる日本のバイクメーカーですが、その背景には、日本という国の歩んできた歴史が深く関係しているようです。
Peacock Blue K.K.
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