アイルトン・セナ

ドコの国でも、どんなドライバーにもファンはいると思うけど、アイルトン・セナファンって、何だかおめでたい。

ワタシ個人、一番好きだったのは、87年ロータスホンダの時。セナのおかげで、中嶋悟ロータスからF1に行けたし、アクティブサスペンションのロータスホンダ99Tで、色んなトライを見せてくれた。開幕直後は、マンセルと絡んでリタイヤしたり色々やったが、モナコではタイヤ無交換できる手の内を隠して1回ピットでブッちぎり、デトロイトではタイヤ無交換でブッちぎり、チャンピオンシップをリードした。中盤以降、苦労したが、シルバーストーンのホンダ1-2-3-4フィニッシュでも、周回遅れにされながら3位に入った。残念だったのは、モンツァ。タイヤ無交換でトップを走りながら、あと数周のところでコースアウトし、ピケに抜かれた。それでも、その終盤でファステストを更新し、ピケを追い詰めた。まあ、ソコまでだったが。

マクラーレンに移籍してから、速いクルマを与えられて当然だと思ったか、特に91年辺りから態度がおかしくなった。元は90年オフには鈴木亜久里がコメントしていたように、ウィリアムズ移籍すら流れていた。

マクラーレンの相対的苦戦はシャシー開発、空力と剛性に依る部分が大きく、ハンドリングにもスピードにもトラクションにも悪影響した。それをわかってかどうか、ホンダエンジン批判を繰り返した。バカのベルガーまで尻馬に乗った。本田宗一郎サンが91年に亡くなり、頑張ろうという気運もなくなっていた。ソコで、92年インテルラゴスでの態度はサイテ~だった。中盤で、安岡リーダーがホンダのシーズン限りでのF1撤退を発表した。

更に思い上がったセナは、93年はアンドレティーとの交替出場だった。

マンセルとプロストに継ぎ、94年漸くウィリアムズに移籍した。ルノーV10とエルフガスとウィリアムズシャシーで、楽に勝てると思い上がっていた。しかし、給油レギュレーションなどで、セナの目論見は崩れていた。シューマッハはフォードV8の燃費と軽さと短さを生かし、連勝した。セナは焦った。運命のイモラ、外装を薄くしたレギュレーション違反のベルヘルメットと、切断し細いパイプに溶接し直したステアリングシャフトが災いした。セナは左高速コーナーでステアしたが、フロントタイヤはステアしなかった。ガードレールに張り付き、折れた右フロントサスペンションアームが薄肉ベルヘルメットの側頭部に刺さった。レギュレーション通りの硬さなら、ハネ返していたハズなのに。

車載カメラ映像は何者かに持ち去られ、一部始終が公になるコトもなく、うやむやに処理された。

 

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【セナと過ごした24時間】伝説の男、アイルトン・セナ 愛車同乗・サーキット試走 AUTOCAR回想録
6/5(土) 6:05 Yahoo!ニュース
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セナとの出会い
 
永遠に語り継がれるF1ドライバーアイルトン・セナ
text:AUTOCAR UK編集部
translator:Takuya Hayashi(林 汰久也)

【写真】セナの愛したクルマ【ホンダNSX(新旧)を写真でじっくり見る】 (103枚)

モナコは、アイルトン・セナの偉大な勝利の舞台でもある。2021年にF1がモナコに戻ってきたのを機に、「ミスター・モナコ」と呼ばれた偉大な人物と英AUTOCAR編集部のスタッフが過ごした時のことを振り返ってみたいと思う。

舞台は1991年の英国。同年に大改修を受けたばかりのシルバーストン・サーキットの評価に訪れたセナに、AUTOCARが同行した。

■●1991年6月23日(日)午後6時30分、キドリントン空港 - マイケル・ハーヴェイのレポート

空は、アイルトン・セナが乗るブリティッシュ・エアロスペースHS125の脇腹に描かれた3本のグレーストライプのように暗く、F1チャンピオンがオックスフォードシャーに到着するのを見極めるのは困難であった。セナはこの日、パリからの短い移動のために3種類のフライトプランを申請したが、午後6時35分ぴったりに到着した。

セナは真っ白なリーボックとストレートジーンズを履いて、飛行機の反対側から姿を表した。彼は思ったよりも小柄だが、淡いブルーのコットンの半袖シャツとマクラーレンの赤いボンバージャケットの下には、胸と腕が大きく見える。

わたしの横には、ホンダの広報担当者が小さな息子のジャックを連れて立っている。ジャックは、セナがクルマと同じように飛行機を操縦できるかどうかを知りたがっている。

「いいや」と父親は言う。「でも、ブラジルには自分のヘリコプターで帰るんだよ」

ジャックは、セナがレーシングカーや飛行機だけでなく、本当にヘリコプターも持っていたのかと感心している。

「そうさ。彼は何でも持っているんだ」

セナはホンダのNSXも所有している。NSXは空港ビルの反対側に駐車されているが、これに乗る前に税関や入国管理局、そしてジャックと話をする。ジャックはセナに「いい子にしていたか」と聞かれて気絶しそうになる。肯定的な答えをするとご褒美がもらえる。

愛車のホンダNSXに同乗
 
アイルトン・セナとデイモン・ヒル
■●午後7時、オックスフォード環状道路

ワールドチャンピオンでも渋滞に巻き込まれることがある。1km以上続く渋滞の後ろにホンダのスーパーカーがゆっくりと並ぶ。セナは窓を開けて、聖歌隊のようにソフトでクリアな英語で「いいね!」と言った。「酷い渋滞だ」

セナと話をするには絶好の機会だ。彼は、オートマチックのNSXポルトガルで保管しているマニュアル仕様のNSX、ブラジルで手に入れたいと考えている同仕様のNSX、そしてそこに加わるゴルフGTIとメルセデス300TEについて喜んで話してくれた。

「僕は基本的に運転が好きなんだ。クラシックカーよりもスポーティで、ソフトで遅いクルマでなければいいんだよ」と彼は言う。NSXの大ファンなのは、ホンダが彼に給料を支払っているからでも、引退後にブラジル初のホンダディーラーを開く可能性があるからでもない。

フェラーリでもなく、ポルシェでもなく、ホンダがいいんだ。僕はいろいろなメーカーのクルマに乗るけど、このクルマは気に入っている。最もパワフルなスポーツカーではないけど、道路で楽しむのに十分なパワーがある。必要以上にパワーがあると、他の人にとって大きな危険になるかもしれない」

その言葉を証明するかのように、セナはスロットルを開け、わたし達がおしゃべりしている間に開いた前走車とのギャップに向かって走り出した。

セナは渋滞の中で少し落ち着きを失っていたが、通りすがりの子どもたちが手を振ったり、笑顔を見せたり、大声で叫んだりするのを快く受け入れていた。わたしは、今日のF1で最高のドライバーにとって、NSXは少々ソフトタッチなのではないかと彼に言ってみた。

「乗り心地の悪いクルマやうるさいクルマは欲しくない。僕が欲しいのは高性能スポーツカーの特徴を持たないクルマだ。普通のスポーツカーは騒音や不快なことが多いから、毎日乗ることはできない。このクルマは、どんな状況でも楽しんで運転できるクルマという基本的なコンセプトを持っているんだ」

大人気のスター選手
 
セナは1984年からF1に参戦し、トールマン、ロータスマクラーレン、ウィリアムズとチームを渡り歩いた。
■19時30分、オックスフォードシャー州グレート・ミルトンの高級ホテルにて

セナは、F1で活躍した多くの同僚とは異なり、公道ではクレイジーな運転はしない。それに、わたし達の後ろにはアイルトンの父親であるミルトン・セナがホンダ・レジェンドで追走している。

セナはグレート・ミルトンにあるホテル、レイモンド・ル・マノワール・オ・キャトルセゾンに宿泊したことがある。セナが到着すると、ホテルのスタッフは喜びを押し殺した様子で出迎え、女の子は顔を赤らめ、男の子はクールを装う。彼らは皆、セナから手を振ってもらって喜んでいる。

■●午後8時30分

アイルトンは父親と2人で食事をする。アイルトンはよく食べるが、飲み物はエビアンの水だけ。夜中の12時前には1泊220ポンド(約3万4000円)のベッドに入る。

■●1991年6月24日(月)午前7時30分

セナは早起きして、運動して、走って、朝食をとる。ミルトンは、クルマでシルバーストンに向かう息子の横で静かに座っている。

■●午前10時、シルバーストン - アラン・ヘンリーのレポート

憂鬱な雨の壁が濡れた毛布のようにサーキットを覆っている。セナはオーバーオールに着替え、マクラーレンのエンジニアやホンダの技術者と打ち合わせをする。

■●10時20分
メキシコGPで3位に終わったセナにとっては、エンジンテストが最優先事項だ。ホンダは、RA121EというV12エンジンのパワーをもっと引き出す必要がある。セナはシーズン前のテストからそのことを認識しており、エンジニアたちが今後の課題を過小評価していないだろうかと気にかけている。

シルバーストン・サーキットにて
 
1984年のモナコGP
■●午後1時、マールボロマクラーレン・モーターホーム

昼食のための休憩。天候に恵まれず、結論は出ていない。翌日には最新のスペック3エンジンの1号機を評価することが決まっている。

ジャーナリストたちがセナに近づき、さまざまな意見を求めている。彼は、シルバーストーン・サーキットの新しいレイアウトについて率直に語った。

「場所によっては、あまり快適ではない。アイロンがけが必要なバンプがいくつかある。安全のためには、まだまだ改良が必要だ」

カナダとメキシコでマクラーレンのペースが落ちたことについてはどう感じているのだろうか?

「メキシコでは特に問題はなかったけど、ウィリアムズに勝つには不十分だった。カナダでは彼らに太刀打ちできなかったし、メキシコでは接近したけれど、彼らのパフォーマンスには及ばなかった」

「幸運にも、今年は開幕から4つのレースに勝ったことで、エンジニアたちが前進するためのゆとりができた。最大の問題はエンジン性能だけど、ホンダはエンジンの仕様を抜本的に変更して、ウィリアムズやフェラーリとの関係を修復することに力を注いでいる」

■●午後4時45分、ピットレーン

新しいシルバーストンを評価するために、ワールドチャンピオンに協力してもらうには、いくつか計画が必要だった。しかし、アイルトン・セナも、ホンダNSXも、そしてこのサーキットも、すべてわたし達のものになった。雨が降っていたので、ボートの方が適していたかもしれないが、セナは気にしていないようだった。

ロードテスト副編集長のアンドリュー・フランケルは、喜びを隠しきれない様子でNSXの助手席に乗り込み、ワールドチャンピオンが運転手を務める思い出深い20分間を過ごした。

不測の事態にも動じない
 
1989年の日本GPで起きた「同士討ち」
■●午後5時、シルバーストン - アンドリュー・フランケルのレポート

誰がハンドルを握っているのか忘れてしまったのは、クルマのスピードとコーナーの進入角度が全く一致しなかったラップの時だった。

ファーム・ストレートの終わりで激しく右に曲がった後、ブリッジが見えてくると、セナはホンダを160km/hで走らせた。わたしは驚愕したが、心配はしなかった。彼は最終ラップでも同じ走りをしてみせ、わたしは彼がどこでブレーキをかけて50km/hまで減速し、どのようにNSXのノーズをエイペックスやその先へと導いていたのかを今でも覚えている。しかし、セナはそれを忘れてしまったようだ。

この究極の体験を後世に伝えるために、細部まで記録しようとしていたわたしの声は、テープレコーダーの中で沈黙してしまった。話す時間は終わったのだ。わたしは、セナが乗る前に、こっそりとトラクション・コントロールを解除してしまった自分の中の悪魔を呪い始めた。

そしてわたしは、アームレストを挟んですぐ隣に座っている男のことを思い出した。歴史上誰よりも多くのポール・ポジションを獲得し、年上のアラン・プロストを除いた誰よりも多くのグランプリで勝利を収めている男。わたしはその理由を知ろうとしていた。

アイルトン・セナでさえ、このスピードでNSXをコーナーに進入させることはできないと思ったが、どうにかしてくれるだろうと信じることにした。

彼はステアリングをひねってコーナーに進入し、ブレーキをかけた。彼がブレーキをかけると、ホンダのリアが必然的にスライドをして、はっきりとこう言ったのだ。「君とセナ君をこのコースから連れ去る。そして二度と戻ってこない」

しかし、セナには別の考えがあったようで、単にポーズボタンを押しただけだった。この機能は、世界中の優れたドライバーがより扱いやすいスピードに落としたり、高速でスライドするNSXの場合はこれを完全に止めたりすることができる。カウンターステアをあて、スロットルを適切に操作することで、テールはそれ以上滑らなくなった。

数度ラインから外れてフラついたが、すぐ立て直すとピットに向かって真っ直ぐに走り出したのだ。

新しいコースを細かく評価
 
1991年のブラジルGPにて優勝カップを掲げるセナ
NSXがあの濡れたコーナーをどのくらいの速さで走ったのかはわからないが、気を取り直してスピードメーターの針に目をやったときには、90(マイル、140km/h)を超えていた。セナは無表情のままだったが、もし彼がこれを読んでも、覚えていないだろう。

わたしにとっては忘れられない出来事だ。しかし、セナとのラップはそんなことばかりではなかった。ワールドチャンピオンのセナがコーナーを駆け抜け、わたしも負けないくらいのスピードでおしゃべりをし、目を輝かせた。彼は辛抱強く、サーキットの新旧の違いを説明してくれた。

ちゃんとした評価をするには十分な周回数をこなしていないと言いながらも、コース全体をかなり詳細に記憶しているようだった。ピットを過ぎて最初のコーナーであるコプスに入ると、彼は「以前は滑らかだったけど、今はすごくバンピーだよ」と言った。

次の短いストレートとマゴッツ・カーブを越えると、コースは左、右、左と揺れながらベケット、チャペルを通過する。マクラーレンのセナは、これらをすべて4速で走行しており、「かなり速い」と語っている。

それでも、「出口が前よりも遅くなり、ハンガー・ストレートで出せるスピードが下がる」という。チャペルからどこまでも続くターマックに出るとき、セナはとても楽しそうに「ここでは純粋なパワーが必要なんだ」と言った。この年は目立った活躍がなかったマクラーレン・ホンダの伝統的な圧倒的優位性を思い出しているかのようだ。

わたしは、ストウの右コーナーは以前と同じように見えると言った。

「その通りだ。ここまではまったく同じなんだけど、ここからはタイトになるんだよ」

同時に彼はNSXを新しいラインに乗せ、ヴェイルへと向かった。急な左コーナーで、ハンドリングとドライバビリティがすべてを左右する。

「非常にタイトだから、次のコーナー(クラブ)が遅くなるんだ。以前は5速で走っていたけど、今は3速でスタートして4速で通過する。アビーやその先のストレートのスピードは、クラブからどれだけ早く出られるかで決まるけど、以前よりも遅くなっている。アビーをトップで通過するのは変わらないけど、以前よりも短くギアを使うことになるから、最高速度が落ちる」

穏やかで優雅な手の動き
 
アイルトン・セナロン・デニス
プロフェッショナルなセナは、新しいサーキットをよく知らずして、古いサーキットと比較することはしない。しかし、改修が必要であることには同意している。

「旧サーキットを走るのは好きだったが、危険だった。あまりのスピードに安全性を感じられなかった」

それでも当時、世界最速のGPコースであったシルバーストンに思い出がないわけではなく、新サーキットは旧サーキットの基準に達していないとも語っている。

「シルバーストンの特徴は、その滑らかな路面にあったけど、今日の数周の走行では、非常にバンピーであることがわかった」

セナが闘志を燃やしたのは、ピットを通過するときだった。セナが本気を出すときは、その姿を見ればすぐにわかる。話すのをやめ、顔をまっすぐ前に向け、それまで輝いていた目が燃えている。

眺めているうちに、彼の非凡さを理解するヒントになるものが見えるかもしれないと思っていた。しかし、鋼鉄のような厳しい表情を除けば、何の参考にもならなかった。彼はドライビング・インストラクターに言われたように、腕を少し曲げてシートに座っている。バックレストはわたしがセットしたままで、シートをペダルに近づけて、足が腕と同じように曲がっている。教科書通りのやり方で、「10時10分」でハンドルを握っている。

世界中の誰とも異なる点は、コーナーを通過するときのクルマのコントロール方法だ。たとえ、目をつぶったまま助手席に座り、ドライバーの手と足の動きだけに意識を集中したとしても、間違いなくセナが隣にいることを実感できるだろう。

セナにとって、ステアリングとスロットルは合わせて1つの操作であると言っても過言ではない。どちらか片方だけを操作することはない。コプスを出て、おかしなほど横に滑っているときでさえ、彼の手はとても穏やかで優雅で、まるで遅いように思えた。

NSXはマニュアルで乗りたい
 
1994年のサンマリノGP
ポルトガルに1台、ブラジルにもう1台注文していると言われなくても、セナがNSXを愛していることは明らかだろう。

しかし、このNSXは英国で最初にパワーステアリングオートマチック・トランスミッションを搭載した1台で、ハンガーストレートを200km/hで疾走しているとき、セナがマニュアル操作でシフトチェンジをするとV6がレブリミッターにあたり悲鳴を上げる。彼は不安を口にする。

パワーステアリングはこのクルマに合っているけど、オートマチック・トランスミッションはもっと個人的なもので、このクルマには向いていないと思う。他のクルマや乗り物ではオートマチックが好きだけど、NSXではマニュアル・トランスミッションがいいんだよ」

そう話しながら彼はギアを3速に戻し、その手をシフトレバーに残したままNSXをストウブに向けた。片手でハンドルを握り、寸分の狂いもないラインを描く。130km/hでスライドし、ホンダの背後には白煙の壁ができた。

これが、アイルトン・セナと過ごした午後のひとときであり、できることならボトルに詰めておきたい瞬間だ。もちろん、セナには残りの周回の全コーナーで驚かされ続けたが、セナと他の一般的なドライバーとの違いをはっきりと認識させるものではなかった。

目の当たりにしなければ信じないようなことをこなせるだけではない。彼はそれ以上だ。彼は努力なしにやり遂げてしまう。

■●夕方、M40(高速道路)

ロンドンへ向かうセナのホンダ・レジェンドがスピード違反で捕まった。彼のスピードに関する報道は様々だ。一説には210km/hとも言われている。セナは注意で済んだ。
AUTOCAR JAPAN

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