A・セナ、自業自得の死をFISAが安全向上に利用!

A・セナ、87年ロータスの頃までは好きなドライバーだった。88年マクラーレンに移籍し、優勝とチャンピオンの呪縛に取り付かれ、おかしくなったように思う。チャンピオンになるドライバー、A・プロストにもおかしなトコはあったが、N・ラウダという師匠がいたプロストと周りは全て敵でしかなかったセナの違いは、91年以降如実に表れた。

プロスト離脱後、マクラーレンシャシー関連開発が進まず、それを開発テンポの早いホンダエンジンで補った。それを91年以降、ホンダを急き立てるコトしかしなくなった。91年に本田宗一郎が亡くなり、ホンダでこんなセナに付き合うヒトはいなくなって92年いっぱいでのF1撤退が決まった。

元々、セナには90年いっぱいでウィリアムズ移籍する情報がパドックに流れていた。ホンダも知っていた。R・デニスがカネを積み、スポンサー問題で立ち消えになった。マクラーレン車両開発力低下で、セナの態度は増長する一方だった。

92年モナコは勝ったが、ブルーフラッグを出され、マンセルがミスしないと勝てなかった。93年はプロストにシートを拐われ、雨やアクシデントしか、チャンスがなかった。

満を持して、ウィリアムズ94年のシートを獲た。前年プロストのように、楽に勝つハズだった。本人は例年通り怠惰にオフを過ごし、余裕だった。しかし、給油レギュレーションがF1を変えるコトに気づけなかった。

ベネトンのM・シューマッハはV8に少な目の燃料の軽いマシンで、セナのウィリアムズルノーV10を追い越した。英田では後続に弾き出された。

イモラまで未勝利、トップのシューマッハに大差をつけられた焦りがあった。

1、ベルのヘルメットは、ホンダ・レオスやショーエイより遥かに重かった。それを規制を通らなくても良いからと、軽いヘルメットに変えさせた。

2、ウィリアムズ唯一の欠点、狭いコックピットでヒザにステアリングシャフトが擦るとA・ニューイに言って、根元近くで切断し細いシャフトに再溶接させた。接合部をピン補強すらしなかった。どちらも、セナがオフシーズンにキチンとテスト参加していれば、開幕前に対策されていた。

あの左高速コーナー、ハンドルを左に切ったのに前タイヤはステアせず、真っ直ぐガードレールに刺さった。折れた右前サスペンションアームが、ヘルメットを貫通した。ステアリングシャフトもヘルメットも、カレの自業自得だ。

F1の安全とかいう問題ではない。

 

 

 

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28年前、レース中に事故死…アイルトン・セナさん命日 日本推理作家協会も功績たたえカーチェイスの名作紹介
5/1(日) 13:32 Yahoo!ニュース 
アイルトン・セナさん(AP)
 「音速の貴公子」の愛称で親しまれた元F1王者のアイルトン・セナさんが1994年のF1サンマリノGPで事故死を遂げてから1日で28年が経ち、ツイッターなどSNSではセナさんを懐かしむ投稿が相次いだ。

 日本推理作家協会・広報部の公式アカウントも5月1日がセナさんが命日だったことを伝え、これまでの功績をたたえるとともに「みなさんは カーチェイスが印象的な広義のミステリ をご存知ですか?」とつづり、「大藪春彦の『全開(フル・スロットル)で飛ばせ』(光文社文庫)がヒットしました!」と一例を紹介した。

 フォロワーからはエラリー・クイーンの「エジプト十字架の秘密」や横溝正史「夜光怪人」などの作品が続々と挙がった。

 セナさんは伊イモラサーキットで開催されたF1サンマリノGP決勝で当時は高速コーナーだったタンブレロでコースアウトしてコンクリート製バリアーに激突。当時はウィリアムズチームの所属で34歳の若さで他界した。事故原因については諸説があったが、その後のF1の安全基準を高めるきっかけをつくった。(写真はAP)
中日スポーツ

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