斉藤雅樹、あのバース事件がなかったら・・・

斉藤雅樹、槙原博巳とほぼ同時期入団、オーバースローの本格派投手だった。藤田監督3年目、江川・西本・定岡不調の中、誰を引き上げるかで、2軍から選ばれたのは槙原だった。藤田巨人はリーグ優勝、日本シリーズでは広岡西武に敗れたが、槙原は新人王を獲得した。

藤田監督が勇退し、助監督から昇格した王貞治監督就任初年度にサイドスロー転向した姿で1軍デビューした。最終戦阪神戦にシャットアウトすれば、防御率1位タイトルの可能性すらあった。しかし、バースが王貞治の年55本塁打に迫っていた。今でこそ、ヤクルト・バレンティンに抜かれたが、当時は王貞治の55本塁打に並ぶコトはタブーだった。

王貞治監督は、堀内恒夫投手コーチを通じて阪神・バース全打席敬遠を指示した。地獄だった。当時の阪神、右打者真弓と岡田、左打者バースと掛布という、30本塁打以上の選手が4人も並んでいた。巨人でも、槙原がバース⇒掛布⇒岡田と3連続バックスクリーン付近に打ち込まれた。

案の定、斉藤はツブれた。王監督の間、沈んだままだった。ムダになった25歳頃の4年、故障でもなく、精神的に崩れていた。

復帰できたのは、再任された藤田監督。以後が、急ピッチで勝利を重ねた。あの4年がなければ、200勝できていた。

桑田真澄は、斉藤の逆。2年目から本格稼働だったが、その2年目は最多勝すら確実視されていたが、後半戦のチーム内の僻みと無気力攻守により防御率1位しか獲れなかった。派閥や僻みによる野手の無気力攻守がなければ、年20勝も現役200勝もできたろう。しかし、例のファールフライへのダイビングで右ヒジの腱断裂し、手術で2年をフイにした。当時、メジャーは伊良部の次、野茂より上の評価だったが、不動産失敗による累積借金と相俟って全てをパーにした。

 

 

 

 

 

 

******************************

東京ドーム通算勝利数ランキング1位。2年連続20勝の“平成の大エース”
2/2(水) 19:51 Yahoo!ニュース
 39 
現役時代の斎藤雅樹。【産経新聞社提供】
 野球の見方の一つに、選手個人と球場の相性というものがある。ビジターであれば、対戦球団が苦手なだけという場合もあるが、選手によっては、球場の得手不得手というものもあるようである。

【表】セ・リーグ最強打者ランキングトップ10の移り変わり

 ここでは、球場別の個人成績にフォーカスし、部門別にランキング形式で紹介していく。上位選手を見ることで各球場の「顔」を確認していこう。今回は東京ドーム・通算勝利編(2021年終了時点)。

■球場情報:東京ドーム
正式球場名:東京ドーム
開場年月:1988年3月
球場の広さ:両翼100m、中堅122m(現在の広さ)
公式戦初開催:1988年4月8日 巨人-ヤクルト(1回戦)
公式戦試合数:3214試合
本塁打数:7118本

2年連続20勝の“平成の大エース”
1位:斎藤雅樹 78勝(巨人78勝)

 トップに立ったのは、“平成の大エース”斎藤雅樹だ。

 斎藤は、市立川口高から1982年ドラフト1位で入団した。89年に大きく飛躍し、20勝7敗、防御率1.62をマークして最優秀防御率最多勝沢村栄治賞などを受賞。3連続完封を含む11試合連続完投勝利の日本記録も樹立した。

 翌90年も2年連続20勝など圧倒的な成績を残し、最優秀選手などのタイトルを獲得。93年からは5年連続開幕投手を務めるなど絶対的なエースとして君臨し、21年間巨人一筋を貫いた。

 通算成績は、426試合(2375回2/3)を投げ、180勝96敗11セーブ、1707奪三振防御率2.77となっている。
ベースボールチャンネル編集部

******************************