杉下茂サン、フォークボールの神様!中日のエースで、巨人"打撃の神様"川上哲治に、ワザワザ握りを"フォークボールだョ!"と見せ、打ち取ったという伝説もある。イメージは指導者、長嶋茂雄第1期監督最下位翌年から投手コーチとして藤城一城から槙原寛己まで、多くの投手にフォークボールを伝授していたのではなかった?
北別府学サン、広島球団初の2百勝投手!広島には過去にも外木場義郎など、素晴らしい投手いたが勝ちには恵まれず、外木場は初優勝ではエースだったが、以後故障しソコからの恩恵にあずかれなかった。古葉監督の広島黄金時代を支えた。もちろん、1人ではなく、投手では山根や大野や池谷や川口や江夏まで、打者では山本浩や衣笠や水谷やポプキンスや高橋慶や山崎ら、素晴らしい面々だった。
以後の広島、阿南監督時代に森監督西武に1分け3連勝して王手かけて以降、ソコまでも行っていない。その時は、まだ北別府が現役、清原和博初年度の西武に4連敗した。
**********************************
【評伝】杉下茂さん「私のフォークは川上哲治さん専用」伝家の宝刀に抱いた強烈なプライド
6/16(金) 19:44 Yahoo!ニュース
10
杉下茂さん
杉下茂さんのフォークボールは恩師でもある天知俊一さんに明大時代に教えてもらったものだ。しかし、伝家の宝刀は大学時代には1度しか使わなかった。プロで初めて使ったのは中日入りした1949年、青バットの天才・大下弘(東急=現日本ハム)を相手にしたときだった。「3打席続けて投げてくるくる空振り、4打席目にまっすぐを本塁打を浴びました」と述懐している。
そのフォークに自信を持つきっかけとなったのが、1951年にセ・リーグに派遣される形で川上哲治、藤村富美男(阪神)、小鶴誠(松竹)のスラッガー3人と一緒に行った米国キャンプ。打者3人は現地であまり打たせてもらえなかったのに対し、杉下さんはメジャー予備軍の打撃練習に駆り出された。そのときに宝刀を抜いて、ほとんどバットに当てさせなかったのだ。だが、現役時代「私のフォークは川上さん専用」と言い、こだわりを持ち続けた。
打倒巨人のためには4番打者川上を抑えなくてはならないからだ。川上には1950~53年、2リーグ制になって4年連続で直接対決で打率3割を許した。1954年、天知監督は杉下さんを巨人戦に集中的に投入した。それに応えて35イニング連続無失点を含め11勝5敗をマーク。川上にはソロ本塁打1本だけの53打数8安打の打率1割8分9厘に抑えるのだった。
魔球は、他球団の捕手のバッテリーを組む球宴では1度も投げなかったほど大事にしていたが、ほとんどフォークばかりで完封勝ちした試合がある。1954年、西鉄との日本シリーズだった。3勝3敗で迎えた最終戦。それまで2勝1敗、29回2/3を投げて疲れ切っていた杉下さんに、捕手の河合保彦さんが、1回を終えたときに言った。「カーブが合わされている。今日はとことんフォークで行きましょう」。どんなボールでもつかむ女房役の言葉に杉下さんは、通常のフォークに加え、少し遅めのフォークを交えて見事3安打で1―0完封。日本一をもぎとった。
通算400勝の国鉄・金田正一との投手戦は1950年代のセ・リーグを彩った。お互いに投げ合いの中で、杉下さんはノーヒッターを、金田は完全試合を達成した。その金田が「杉下さんはフォークばかり言われるが、まっすぐも速かったよ。それがあってのフォークなんだ」。戦地で手榴弾を投げて強くなった肩から繰り出す速球も、名投手の大きな武器だった。
報知新聞社
記事に関する報告
王貞治氏「杉下さんなしに球界語れぬ」「北別府さんに苦しめられた」
6/16(金) 21:46 Yahoo!ニュース
0
王貞治氏
プロ野球でいずれも200勝投手となった元中日の杉下茂さんと元広島の北別府学さんが死去したことを受け、ソフトバンクは16日、王貞治球団会長のコメントを発表した。
【写真特集】広島カープで19年間プレーした北別府学投手が死去
(杉下さんは)フォークボールの神様と呼ばれるほど杉下さんなしでは日本の野球界を語ることはできない方でした。川上哲治さんや対戦した人たちの談話では、狙っていても打てないという話でしたしそれだけ頭脳的なピッチャーだったと聞いていました。杉下さんと対戦できなかったことは本当に残念です。心よりご冥福をお祈りいたします。
北別府さんは広島との対戦で何度も苦しめられたピッチャーでした。何の変哲もなさそうに見えながらも、とても打ちにくい。彼のコントロールは素晴らしく、スライダーやカーブ、シュートもよかった。200勝を超える広島を代表するピッチャーであり名球会でも活躍いただいただけに大変残念です。心よりご冥福をお祈りします。
記事に関する報告
**********************************