76年・77年富士F1GPのKE007/009

76年・77年富士F1を日本製マシンが走った。76年予選、一時は4位だった。クラッシュして修復し決勝出走、入賞はデキなかったが、インパクトは残した。ミニカーなどにもなった。

その時期に、現在「JIN」の作者村上もとかがF1マンガ「赤いペガサス」を描いていたの、御存知だろうか?日本の製作によるマシンに、主人公は日系イギリス人ドライバー、ボンベイブラッドという稀少血液型、嘗てグループ5でBMW3.0CSLターボに乗りポルシェ935ターボを追い詰めたが死亡事故を起こし、引退してメカニックをやっていたブランクのあるレーサーという設定だった。この資料の写真通り、フェラーリ312T型フロントウイングだったり、KE007型スポーツカーノーズだったりした。その後、ロータス78風ウイングカー⇒ロータス79風ウイングカーに進化し、77年富士で初年度チャンピオン獲得する話だった。

ストーリーのSV007はKE007のプロトに、SV01はKE007に似ていた。

KEはダンロップタイヤだったが、SVはブリジストンの設定、20年後に現実にF1参入した。

村上もとか、77年1年だけを描いたが、ブリジストンによるラジアルタイヤ化やグッドイヤーとのタイヤ戦争、フライングによる60秒加算とか、色々描いてくれた。

元ネタは、このKE007だった。

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日本人で初めて「F1マシン」を造った男。プライベートチームにも関わらず、富士スピードウェイで世界4位のラップタイムを叩き出す。伝説のチーム「コジマエンジニアリング」物語
12/11(土) 18:03 Yahoo!ニュース

個人チームが、自動車の世界最高峰レース「フォーミュラ1(F1)」に参戦
 
「KE007」。シートに座っているのが、ドライバーの長谷見昌弘選手。右下が小嶋氏。(写真提供/コジマエンジニアリング)
古くからのモータースポーツファンの方なら、「日本初の国産F1マシン『KE007』」と聞いて、ピンとくる人も多いだろう。
1976年に富士スピードウェイで開催された、国内初の『F1日本グランプリF1世界選手権イン・ジャパン)』で、初めての国産マシンとして走ったのが「KE007」である。そのときのドライバーは、長谷見昌弘選手だった。
マシンを造ったのは「コジマエンジニアリング(KE)」、その代表が小嶋松久氏である。

F1といえば、メーカーが威信をかけてマシンを開発するモータースポーツ最高峰のレース。そのなかでコジマエンジニアリングは、大企業の後ろ盾もなく、完全なるプライベーターチームとしての参加し、予選で全体の4番手タイムとなる1分13秒88を記録した。
今回、小嶋氏に「なぜF1に出場したのか」、今だから語れる話を伺った。
日本のモータースポーツ史に残る逸話の当事者だけに、その人にしか語れない内容は面白い。

モーターレースデビューは15歳
小嶋松久氏は、1944年(昭和19年)に京都で生まれた。15歳のとき、京都で行われたダートトラックレースに出場したのを皮切りに、オートバイレースに傾倒していく。(この時代、バイクの免許は14歳で取得できた)
高校生のころからスズキのファクトリーライダーとして各地を転戦。1966年、67年は、スズキを代表するワークスライダーとして、ヨーロッパのモトクロス世界選手権に出場している。

レースを引退し、コジマエンジニアリングを立ち上げる
 
コジマエンジニアリング代表・小嶋松久氏。コジマエンジニアリングの企業ロゴ。「自動車」の形であり「日の丸」の意もある。
24歳(1968年)でレーサーを引退し、26歳のとき地元・京都に戻って「コジマエンジニアリング(以下、KE)を立ち上げた。
ちなみに、コジマエンジニアリングの独立に際して作られた「KE」のロゴマークは、スズキ自動車の広報担当者が作成してくれたものだという。
「あれは、自動車のカタチであり、もし世界へ出ていくときには、日本の国旗みたいな部分も入っている」と、小嶋氏は語っている。

当初KEは、モトクロスバイクの市販レーサーモデルを開発・販売していた。今でいうレーサーレプリカだが、当時はそういったモデルはなかったため、小嶋氏の作った「レーサーモデル」は評判を呼んだ。その後スズキが、メーカーメイドの「市販のレースモデル」を発売したのを機に、小嶋氏は以前から興味のあった「四輪」へと本格的に移行していく。

KEがフォーミュラレースに出場したきっかけは「フロンテ」のレースだった
 
フロンテのエンジンを搭載したフォーミュラカー。(写真提供/コジマエンジニアリング)
四輪レースに出場するきっかけになったのは、まだ小嶋氏がスズキにいた1963年に、「第1回日本グランプリ自動車レース大会」が開催されたことにある。このとき、フロンテやスバル360に、軽四輪のエンジンを積んで走る「C-1」クラスに、スズキは力を入れていた。
独立後もスズキと関係の深かったKEでは、「C-1」クラスのレーシングエンジンの販売や、フォーミュラのシャーシを作っていた。


『そのとき、「フォーミュラの一番小さいの(C-1クラス)をこしらえるっていうなら、もうちょっと上のクラスを勉強しないといかん」ということで、「1300」というクラス(排気量1.3リットルエンジン)をやり出しました。
オリジナルシャーシを開発して、ホンダのエンジン積んだり、サニーのエンジンを積んだりしてたんだけど、そうなると「やっぱり、F2くらいのシャーシを勉強しないといかん」となった。それで、ワンクラスずつ徐々に大きいのをやり出したんです。
その結果、1975年の日本グランプリレースでは、FL500、FJ1300、F2000の予選と決勝、3クラス全てKEのマシンがパーフェクトで勝ちました。』(小嶋氏)

 
「葉巻型」のフォーミュラカー。1960年代の代表的な形だ。(写真提供/コジマエンジニアリング)
1975年5月の日本グランプリレース(富士スピードウェイ)で勝利したときのドライバーは、FL500クラスは山本高士選手、FJ1300とF2000は長谷見昌弘選手であった。
そして翌1976年、前年のフォーミュラー全クラス優勝を機に、「フォーミュラ1(F1)」に挑戦することを決めた。

『1976年に、JAFが「富士スピードウェイで3年間、F1をやります」って発表しました。世界グランプリの最終戦を「日本で行う」という3年分の権利を、JAFが取ったわけやね。
それなら、「3年間あるんだったら、KEでF1をこしらえようか」ということで、今度はF1を始めたんです。デモンストレーションではなく、「フォーミュラ1を、実際のレースで走らせよう」ってなった。』(小嶋氏)

このときから、初めて日本で行われたF1世界選手権イン・ジャパンで走らせる、「KE007」の開発に取りかかった。
「KE007」の「7」という数字は、「小さいのから順番にこしらえていって、7種類目」と言う。コジマエンジニアリングが開発した7作目のマシンが「KE007」なのだ。
当時の様子について小嶋氏は、以下のように語ってくれた。

小嶋氏が語る「KE007」ができるまで
 
KEのフォーミュラカー透視図。(写真提供/コジマエンジニアリング)
『フォーミュラ2で、もし世界チャンピオンになっても知名度はない。しかし、フォーミュラ1っていうのは、あの当時から世界最高の自動車レースだった。フォーミュラ1やってたら、ものすごくグレードは高く評価してくれる。』
全くの手探り状態からマシン開発はスタートした。

『実際のテスター、Gがどれくらいかかるというのは、オートバイ時代でもテストしてました。前ブレーキを思いっきりかけたらどれくらいストロークしていて、まだどれくらい残っているという「ストロークテスター」とか、リュックサックに背負って、アンテナ立てて、オートバイからセンサーで受けて、中継のマイクロバスに飛ばすっていうのをやるわけやね。
その結果を、カヤバならカヤバが持って帰って、自分とこのコンピュータにかけて分析するわけです。

同じことを、オートバイでなく自動車に積んでやるわけですよ。車体に特殊なテープを貼って、どれくらいの振動を起こしているかっていうのが全部分かる。
あのころは、まだ8チャンネルだったけど、50種類くらいのデータを取るのに、8チャンネルにいっぱいつけてね。カヤバの岐阜工場にフォーミュラ1を持って行って、実際に工場のなかでを走らせてチェックを全部やる。

テスト3日目くらいに、やっと富士スピードウェイに行く。グランドスタンドの屋根に受信アンテナ付けて、全コースのデータを全部取るんです。
フォーミュラ1では、ウチが世界で初めてだと思いますよ、実際のデータを取ったのは。
単独でコニがストロークだけ取ったとか、そういうのはあったと思うんだけど、実際のデータとして「お前、これ危険やぞ」っていうのを手に入れられた。フォーミュラ1は1年目で新人だけど、他のチームよりも進んでいた部分があるにはありましたね。』

当時としては、破格の600kgを切る軽量マシン
さらに、オートバイレースの世界では普通だった「チタン」を、車体に取り入れた。ボルト1本まで、チタンを使っていたという。その結果、KEのマシンは、大幅な軽量化に成功。
レギュレーション規定は575kgだったが、それよりも軽いものができた。そのためバランサーを積んで重量を調整する。「バランサーは、一番、自分の乗りやすいところに積めるから、レギュレーションのギリギリでこしらえたほうが有利」であった。

『あのとき、重量が600kgを割っていたフォーミュラ1は、ウチのとこ(KE)だけだったと思いますよ。
「軽すぎて、お前んとこ潰れたんじゃないんか」とか、陰口や悪口はさんざん言われました。だけど、逆立ちしても600kgを割るようなフォーミュラ1っていうのは、あの当時は、外国でもこしらえなかったと思います。
カーボンのカウル、チタンのシャフト、ボルトやマグネシウムを吹けるところは全部吹いているっていうのが、ウチらは普通だった。

世界をまわっている他のチームは、モナコマカオなどコースに石畳があったりトンネルがある。強度に余裕がなかったら、ドライバーを殺してしまったりする。
でもウチは、富士スピードウェイ以外には眼中になかったから。こと「軽量」に関しては、世界でも進んでたと思います。

同じエンジン、同じパーツなら、勝機は十分にある
あのとき、20台グリッドに付いたフォーミュラのなかで、「特別な自動車」っていうのは、フェラーリとマトラくらい。あとの20台中15、6台は、フォード系の「コスワース」っていうエンジンを積んでいた。それくらい、全部、コスワースだった。
ミッションは「ヒューランド」っていうイギリスのメーカー。ブレーキは「ロッキード」とか「ガーリング」で、ショックアブソーバーは「コニ」が定番だった。よう考えたら、それを繋いでいるようなモンをこしらえたらいいだけだよね。

 
「KE007」。(写真提供/コジマエンジニアリング)
タイヤは、ダンロップと共同開発してたF550からの経歴がある。
「今度、フォーミュラ1やる」っていったら、日本のダンロップは「やったことがない。イギリスとドイツのダンロップに、ちょっとお伺いを立ててみる」、「ポルシェとかベンツの特殊なタイヤをこしらえているから、強度とかコンパウンドを聞いてみようか」って、ドイツとイギリスのダンロップに聞いてくれたわけです。

それで、「F1に使えるんじゃないか」っていうタイヤを何十種類もこしらえてくれた。
当時、ウチのフォーミュラ1やフォーミュラ2を1台走らせるのに、200本以上のタイヤをダンロップがこしらえてきてくれた。
それも、何も使わずに捨てるのも何本もあるんですよ。「これで走って、これでギリギリや」、「それなら、これより柔らかいやつは使いモンにならない」。そうしたら、100本くらい全部捨てる。
「これは一番柔らかいやつ、これは中ぐらいのやつ」って。路面温度によって、午前中のタイムアタックと、午後からのタイムアタックとでタイヤが違う。

だから、レースの予選のときにはグッドイヤーより、もっと優れたタイヤをウチがもっていた。タイヤだけでも勝てる。それが普通だった。
76年にウチが黒のフォーミュラ1(KE007)を走らせたときは、タイヤだけでコンマ8秒速かった。フォーミュラ1は1秒の中に7~8台いるから、コンマ8秒のマージンって、ものすごいんですよ。

この条件なら、「勝てないわけがない」と思っていた
 
KE007のコクピット。長谷見選手用に調整されている。(写真提供/コジマエンジニアリング)
エンジンは、コスワースがどのチームにも全く同じエンジンを新品で売ってくれる。ウチみたいに2基しか買わないところも、10基、15基と買うチームでも、ひいきなく全く同じ性能を売ってくれるのがすごかった。
ミッションも一緒、ブレーキも一緒、それでいてタイヤはマージンがある。
富士スピードウェイに関しては、外国のどのチームよりもよく知っている。
ドライバーも、富士のコースに関しては、長谷見(昌弘)とか星野(一義)が優れていました。コースを知っていて、何かひとつの部品が優れていたら、勝てる権利は十分にあったということです。

だから、僕が富士スピードウェイに初めて出るとき、「ウチは参加するのと違う。勝ちたい」と、ハッキリ言ってた。まわりからは「自信過剰」とか「そんなもん、勝てるわけない」とか、いっぱい言われたけどね。』

そして迎えたレース当日。

『予選が3回あって、1回目は、1時間のなかで4ラップまわる。「4ラップ」っていうのは、1周目はタイヤを温める、2周目、3周目はトライアルで、「トップがどれくらい出るのかな」っていうのを走ってみる。で、4周目はダウンしてピットに入ってくる。
4ラップっていっても、トライしてるのは2周目か3周目だけ。そのラップのいいとこ取り。
いいとこ取りっていうのは、富士スピードウェイの自分のピットの前から、下のヘアピンまで。そこを半分。そこから最終コーナー、ホームストレッチに入ってきて、自分の前を通るのが、あと半分。
第1コーナーの2周目、3周目のいいラップと、最終コーナー側の一番いいラップを取ったら、ウチがポールポジションだった。』

「どこのメーカーのひも付きか?」と、不躾な質問もされた記者会見
『初出場のプライベートチームが、いきなりポールポジションを取ったから、他のチームや外国のメディアが、「これは、どこかメーカーがやってる」と言い出した。「ちょっと話聞きたいから」と、急に僕と長谷見とで富士スピードウェイのミーティングルームで記者会見してくれということになってね。

そのとき、「ホンダかどっかのメーカーのひも付きなのか?」と聞かれたから「全然、関係ない」って。僕はスズキ自動車にはいたし、オートバイのレースでヨーロッパに行ってたけど、「クルマに関しては、自分ところで、京都でこしらえた」って言ったら、皆、びっくりしたわけやね。

僕からすれば、フォーミュラ1に参戦を決めてから、「富士スピードウェイ」のためだけのマシンを造った。ドライバーも、タイヤも優れている。「トップ争いって、当たり前じゃないか。何をビックリしとるねん」って。』

しかし、予選午後の第2セッションで、クラッシュしてマシンは大破。奇跡的にドライバーは無傷だったが、マシンは出走できる状態ではなかった。

『予選の2回目でマシンが破損したのは、やっぱり強度が足りなかった。まして、1回目でいきなりコースレコードとか、ポールポジションを取れるくらいのラップ出していた。
でも、思っている以上に横Gがかかった。タイヤも良かったし、太いし、思っている以上にGがかかった結果、破損したわけやね。
僕らは平均年齢が30歳くらいの若いチームだから、そりゃもちろん経験不足。外国のフォーミュラ1のチームっていうのは、メカニックから監督から全部、平均年齢50歳くらいだから、その「20年」って年数分、絶対的な経験が足りなかったね。』

3回目の出場を期待するも、大会自体が中止となった1978年
1976年、77年と2年連続でF1に出場。2年目は、「KE009」という新しいマシンを開発し、投入した。しかしこの年、観客を巻き込む死亡事故が起きたため、翌年からのレース開催が白紙となった。

 
海外から「KE009」シャーシ供給のオファーを受け、世界のサーキット転戦を考慮して開発した。開発中の貴重な写真。(写真提供/コジマエンジニアリング)
『2年目の富士のレースでスタートしていきなり死亡事故が起きて、主催者が「来年はもうやめます」っていうんで、ウチにしたらもうやることもない。
それなら海外といっても、日本で勝ってないのに世界に行くっていうのも問題がある。
もし海外で出るんだったら、単発で北米とブラジルとアルゼンチンの3レースだけでも1回行ってみようかっていうのもあったけど、まだマシンの完成度もそんなに高くないし、どうしようかなって。』

結局、1977年でKEはF1から撤退。さらに、1979年にF2マシン「KE011」を投入したのを最後に、四輪レース活動を停止した。
その後、パワーボートレースに、その活動の軸足を移すことになる。

最後に、『コジマエンジニアリング』という、メーカーでもない一企業が、「なぜF1に参戦できたのか?」を聞いてみた。

『あの時代だからできたんやね。同じようにタイヤが4つ付いて、エンジン付いて、同じようなレイアウト。それなりの馬力に応じた強度、それからドライバー、まわりの部品を供給してくれるバックアップ態勢、そのへんの条件が整えば、勝ちにはかかれる。
できれば3年目もやりたかった。でも、自分が実際にマシン造りに携わらず、単にオーナーとして眺めてるだけだったら、もっと早いとこやめてたやろね。恐らく。
「材料を買って、加工して、1カ月それに没頭してました」となったら、もちろんお金はかかる……。かかるけども、それ以上に『魅力』があるから続けていたんやろうね。』

モータースポーツに人生を捧げた男、小嶋松久氏の青春」と題して総ページ数76ページのロングインタビューが12月10日より、無料で公開予定の「ワールドジェットスポーツマガジン 2021年1月号」に掲載されております。

【ロングインタビュー】 『国産初のF1「KE007」が富士スピードウェイを走った日 コジマエンジニアリング・小嶋松久氏が語る Vol.1』では、さらに詳細な当時の様子を掲載しています。
ワールドジェットスポーツマガジン編集部

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