E・ローソン、将に"ステディーエディー"

"ステディーエディー"E・ローソン、K・ロバーツ現役最後のシーズン83年にアメリカからGPマルボロヤマハに呼ばれた。確か、ゼッケン27、初年度ランキングも4位に入ったのだから、まあまあだったハズ。しかし、シーズン最後のレース、K・ロバーツの逆転チャンピオンには最終戦優勝、F・スペンサー3位以下ゴールが必要だった。2位に入る可能性を持つのはE・ローソンしかいなかった。しかし、ローソンはレース中にスペンサーを抜くには至らず3位フィニッシュ、ロバーツは現役引退を表明した。当時は、メカニックらはエースライダーに掛かり切りで、セカンドライダーにはあまりサポートされてなかったというコメントをしていた。ロバーツを援護できなかった最終戦のイメージが悪く、2年契約がなかったら出されていたろうとも言っていた。

84年は、実質ロバーツなきマルボロヤマハのエースライダーとして、キッチリ走ってタイトルを獲った。ただ、ホンダがライダーお構いナシのアップサイドダウンNSR500初年度で、ホイール割れなどトラブルを頻発させ、むしろNS500のR・マモラの方がランキング上位なくらいで、ローソンをあまり評価されなかった。速さや優勝より上位完走する"ステディーエディー"は、マスコミの皮肉に近かった。

そして85年、ホンダF・スペンサーが500cc&250ccダブルエントリーを表明した。フツ~のレイアウトに戻したNSR500と初投入したRS250RWで、ダブルチャンピオンを達成した。それで、タイトルを許した各クラスのヤマハエース、E・ローソンとK・ラバードに批難が集まった。

86年、そのローソンとラバードは500と250でタイトルを取り返した。F・スペンサーは右腕故障を抱え、カレ優先のセッティングをしたNSR500は、W・ガードナーですら大変だった。250でも、NSRを与えられたマンク・ポンス・サロン・リッチらもラバードについて行けなかった。

87年、ホンダがエースをW・ガードナーにしたNSR500を出して、パワー&ハンドリング共に優れたデキに見えた。"ステディーエディー"には珍しく、メカトラブルや転倒や雨リタイアなどノーポイントが祟った。

逆に88年、ホンダが更なるパワーアップとフロント荷重低重心を進め、トラクション不足の車両にしてしまい、ヤマハ内でK・マギーやW・レイニー、スズキK・シュワンツらがW・ガードナーのポイントを食った展開、ローソンは割とあっさり取り返した。

88年オフ、E・ローソンがホンダ移籍を表明した。同じロスマンズながら、元F・スペンサーのメカニック、A・カネモトのチーム。

89年も、ライダーお構いナシにエンジニアが作りたいバイクを作るホンダに、W・ガードナー始めワークスライダーは苦戦、E・ローソンはカネモトと共に独自路線。手堅い結果を残しつつ、着実な改善を図った。

ライバルはむしろ、ヤマハのW・レイニーとスズキのK・シュワンツになった。タイトルは転倒1回分の差でE・ローソンが初の連覇、ヤマハ-ホンダでの連覇だった。

90年には再び、ヤマハに戻った。J・アゴスティーニマルボロヤマハではなく、K・ロバーツのマルボロヤマハだった。前年争った、W・レイニーをセカンドライダーとした、エースライダーだった。しかし、開幕戦鈴鹿の130RでM・ドゥーハンにリヤタイヤを払われ、リタイア&負傷。以後、レイニーとは真逆な流れになった。

チームを離脱後、R・マモラの抜けたカジバに移籍、カジバで雨とドライそれぞれ優勝して、GP引退を表明した。

どんな環境に置かれても、スペンサーみたいな故障をしない、ガードナーやシュワンツやレイニーみたいな転倒負傷をしない、マモラみたいなおちゃらけや揉め事をしない、勝つために必要な仕事を確実にこなす、将に"ステディーエディー"だった。

 

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皇帝・エディ先生が熱血時代を語る
2023.01.01 18:30掲載 WEBヤングマシン
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人生論的WGP500王者インタビュー(2)エディ・ローソン

 

覇王・ドゥーハン先生に学ぶ勝利の哲学

頂点を極め、ロードレース史にその名を刻みつけた男たち。荒れ狂う2スト500ccのモンスターマシンをねじ伏せ、意のままに操った彼らのスピリッツは、現役を退いて時を経た今もなお、当時の熱を帯びている。伝説の男たちが生の声で語る、あのライディングのすべて──。ヤングマシン’12年11月号掲載の「THE CHAMPION TECHNIQUE」より、ステディ・エディと呼ばれたエディ・ローソンのインタビューをお届けします。 ※当WEB初出:2018年4月2日

僕のおばあちゃんでも乗れるよ(笑)

シニカルな笑顔を浮かべながら、決して多くはない言葉を放り投げてくる。 偽りのない率直な言葉は柔らかい放物線を描き、心の奥まで染み渡る。 かつて4度世界王者になったエディ・ローソンの物静かな語り口調は、 時おり走るシャープな眼光と相まって、独特な凄味を発散した。

寝ても覚めてもレース。レースにすべてを捧げた

── あなたは「ステディ・エディ」と呼ばれ、手堅い走りが特徴的でした。ご自身でもそういう走りを意識していたのでしょうか?

エディ・ローソン(以下EL)ああ。痛い思いはしたくないからね(笑)。実際、クラッシュだらけの他のライダーたちよりもコンスタントに走っていたと思う。 ただ、僕もいつもドッカリとシートに腰を下ろしてるわけじゃない。時にはステディではなく、シートから腰を浮かしていたよ(笑)。

── アグレッシブ・エディになる時もあるわけですね。

ELああ。僕はワイン・ガードナーウェイン・レイニーケビン・シュワンツフレディ・スペンサーというスゴいヤツらと戦っていたんだ。アグレッシブになるべき時もあったし、慎重に走らなくちゃいけない時もあった。「ここ!」という山場では、もちろん極限まで攻めるしね。

ただ、僕はマシンのすべてをコントロールしているように見えたんだろう。もし僕にテクニックがあるとしたら、それは「すべてをコントロールしているように見せるワザ」じゃないかな(笑)。

── 実際のところ、どのようにコンスタントな走りを実現していたのでしょうか?

ELさあ(笑)。自分のスタイルってだけだからねえ。ただ、トレーニングはかなりしたよ。だから僕はレースの後半でも集中力が途切れることなく、速さを維持できた。ラストスパートをかけることもできたのも強みかな。最初から最後まで、リラックスして走り続けられた。体力は助けになったように思う。

あと、マシンフィーリングの好みははっきりしてたかな。ガードナーやシュワンツは細かいことを気にしない。「ノープロブレム。オレは行くぜ!」ってなものだ。でも僕はそうじゃなかった。嫌なフィーリングが気になって仕方ないんだ。

── どんな車体セッティングを求めていましたか?

EL硬い車体で、リヤは低め。遅めのリバウンドが好きだったね。ステアリングダンパーもキツく締めてたよ。フロントが振られるのが嫌いだったから。みんなのに比べると車高が低くて動きが遅いバイクだったと思う。コーナーでスムーズに安定させたかったからなんだ。

クイックなマシンを好むライダーが多かったが、僕は気にしなかった。そういう動きは、自分の体で作り出せるものだからね。

セッティングなんか人それぞれだから何でもいいんだよ(笑)。でも僕のセッティングはタイラ(忠彦)のものとほとんど同じだったんだ。シャケ(河崎裕之)も同じだ。3人のセッティングは違いがなかった。

これはタイラと組んだ鈴鹿8耐はもちろん、GPでも非常に有利に機能したね。彼らはGPマシンのテストを担当していたから。彼らの好むマシンは、僕も好きだったんだ。

── あなたは常にブレーキレバーに指をかけていましたが、何をしていたのでしょうか?

EL僕のGP最後の年に、ブレンボが初めてテレメトリーシステムを導入したんだ。彼らがそのデータを見せてくれたんだけど、僕はブレーキをすごくゆっくりかけていて、ノーズダイブもゆっくりだった。初期の動作がとにかく穏やかで、それから徐々にハードになっていくんだ。他のライダーがいきなり「ガツッ」とブレーキをかけるのと対照的にね。

ブレンボは僕のブレーキングが好きだったようだ。でも、自分ではよく分からない。ただ自分のやり方がそうだってだけの話だからね。

ブレーキングの時、ケビンはものすごい勢いで抜いていくんだ。テレメトリーのデータも、そりゃあスゴいことになっていた。ウェインはそれを見て、「ワオ、何だよケビンのブレーキングは!」なんて言ってたけど、僕はまったく気にしなかったな。ただ「キンタマでけぇな!」と思うだけでさ(笑)。

──当時のマシンと今のモトGPマシンはどう違いますか?

EL2スト500ccマシンのエンジンは、パワーバンドが9000~1万2500rpmととても狭かった。9000rpm以下は、パワーなしだ。そして9000rpmに、突然すべてが押し寄せてくる。すごく難しかったよ。旋回中、マシンが寝ているうちにその領域に差し掛かった時は、立ち上がっていなしていたんだ。

タイヤもよくなかったし、そんなので雨のレースもあるんだよ? もちろん電子制御もなしで。ひどかったけど、楽しかった。’60年代から現代まで振り返ってみて、あの時代はもっともライダーに「乗ること」が求められた特別な時代だったね。

今のモトGPマシンはどうだい? パワーバンドは6000~2万rpmと広大だ。さらにトラクションコントロールがあり、ウイリーコントロールがあり、信じられないほど高性能なタイヤがあって、信じられないほどのシャーシがあり、信じられないほどのサスペンションがある。本当に信じられない! 僕のおばあちゃんでも乗れるよ(笑)。

── ほ、本当ですか!?

ELウソだよ(笑)。でも、傾けて開けるだけだからね(笑)。モト3なんか本当に誰でも乗れるんじゃないかな。まったく問題なくね。

── マシンが乗りやすくなるのは、GPにとってよいことでしょうか?

ELうーん……、分からないな。いい面も、悪い面もあるだろう。

── では、今と昔ではどちらがいいと思いますか?

EL僕に聞くのかい?(笑) 500ccの頃は運営費も安く、35人のライダーが競い合っていた。今は何もかもが高く、ライダーは15人しかいない。すべてがコンピュータに奪われて、スライドもウイリーも監視下だ。どっちがいいか? 分かってるだろう(笑)。

僕は一生懸命に仕事をしたし、すべてをレースに捧げた。朝起きた瞬間からレースのことを考えていた。寝ていても、突然目が覚めるんだ。「3~4速のつながりを500rpm変えたい。ギアボックスを交換しよう!」ってね。寝ていてもこれだ。レースのために生きていたんだよ。

あらゆる時間がレースに勝つためだけにあった。トレーニングといえば心臓が破裂しそうなぐらい走ったし、自転車に乗ってる時は「フレディを負かしてやる!」と思っていた。……フレディ以外もね(笑)。

レースにすべてを捧げていたんだ。それがレーサーってものだろう?

セッション中もタイムシートを見て、「レイニーがこのタイム!? オレたちには何ができる? フロントフォークを換えて、ギアボックスを換えればタイムが出せるはずだ。とにかくやるぞ!」という具合だった。

今はどうだろう?「ヘルメットのカラーリングは……」「サングラスが……」「昼飯は……」とかかな。 実際はそんなことないよね(笑)。でも、そう見えてしまうんだよ。

僕たちは、レース以外のことは、まったく意に介さなかった。勝つこと。ただそれだけに集中していた。脳が勝利に縛り付けられていたんだ。

今とは違う時代の話さ。

―― 自らの右手を指し「オレのトラクションコントロールはここにある」と語ったエディ。54歳となった現在も、強烈な覇気を内秘めているように感じられた(※この記事は’12年11月号に掲載されたものです)。

―― Eddie Ray Lawson/1958年3月11日生まれ アメリカ出身 ロサンゼルスの近郊・アップランド生まれのエディ・ローソンは7歳からミニバイクレースに慣れ親しみ、ダートトラックなども経験。21歳でAMA全米モーターサイクル協会)の250クラスでランキング3位の成績を残す。翌年の’80年からカワサキAMAスーパーバイクに参戦し、’81年と’82年にAMAスーパーバイク王者に登りつめた。また’81年はWGP250クラスの西ドイツ戦でGP初デビューを飾り、イタリア戦とフランス戦のスポット出場で貴重なGPの経験を積む。’83年からはWGP500クラスに参戦し続け、’92年の引退までに4度のシリーズタイトルを獲得した名ライダーとして、今なお根強い人気がある。

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