セ・パ野球の違い?

巨人がソフトバンクに2年連続で4連敗ずつを喫して、セ・リーグパ・リーグにレベルで劣るような記事を、プロ野球マスコミが平気で書いている。

確かに日本シリーズに出場した、両チームの投手・野手・捕手の顔触れを見た時点で、巨人のソフトバンクに対する劣勢は明らかだった。しかし、それは、ホントの意味での飽満戦力のソフトバンクと、シーズンを圧勝するコトで消耗し切った巨人との差でしかない。

DHが原因というのも、的ハズれだ。野球に於ける条件はどちらでも同じ、DHが付くのとなくなるのでは、パ・リーグにとってDHつくのはフツ~だし、DHなくなるのはデメリット、セ・リーグにとってDHつくのはメリットだし、DHなくなるのはフツ~のコトだ。DH問題はセ・リーグにとってボーナスでしかない。

違うのは野球の質。力主体のパ・リーグと技主体のセ・リーグ。単に、ソフトバンク打撃陣を巨人投手陣が技でかわし切れなかったし、ソフトバンク投手陣のパワーピッチを巨人打撃陣が捌き切れなかった。

セ・リーグを勝ち抜く過程で、巨人はいっぱいいっぱいだっただけだ。

それくらいわからなくて、プロ野球マスコミが務まるのか?

 

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日本シリーズ8連敗には理由がある!弱い巨人とセ・リーグに聞かせたい“合計750勝投手”の金言
12/13(日) 7:05 Yahoo!ニュース
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 「実力のパ」は大きく進化している(時事)
 日本シリーズソフトバンクの強さと巨人の弱さをまざまざと見せつけられ、さらにはその巨人に独走を許したセ・リーグの5球団はどれだけ弱いのか、と絶望しているセ・リーグ球団のファンたちは、シーズン終了とともに「どうしたらセパの実力差を埋められるのか」と侃々諤々の論争を戦わせている。『週刊ポスト』(12月14日発売号)では、“強いパ・リーグ”の往年の名選手たちが、もしセ・リーグでプレーしていたなら、もっと多く名球会入りしていたのではないかという仮説を、データと専門家、当人たちの証言で検証している。

【写真】セ・リーグで独走優勝した巨人は、日本シリーズでは投げてダメ、打ってダメに終わった

 セパの差はどこから生まれたのか。パ・リーグはDH制を採用しているため、ピッチャーは投球に専念し、打線は切れ目のない攻撃型になるから、駆け引きよりも力と力の勝負になりやすいことは間違いない。また、現在はパ・リーグのほうが全体的に球場が広いから、バッターはフルスイングが必要になるし、ピッチャーは力で抑えることもできる。12球団のホームのうち、狭いほうのベスト3はDeNA横浜スタジアム、ヤクルトの神宮球場、そして巨人の東京ドームと、すべてセ・リーグである。

 俊足強肩の先頭打者としてヤクルトの黄金期を支えた飯田哲也氏は、「パ高セ低」の背景について、業師らしい分析をする。

「私はセパの球場の広さはあまり関係ないと思っていますが、DH制は大いに関係ありますね。今回の日本シリーズにしても、巨人が全試合DH制というソフトバンクの提案を受け入れてしまったことは大きかった。セ・リーグの野球をしなければ勝ち目はありません。DH制があるほうが、バッターはもちろんピッチャーも選手生命が長くなると思います。生涯記録を残しやすいのはパ・リーグかもしれません。

 それから忘れてはいけないのは、パ・リーグのほうが育成にじっくり時間をかけていること。セ・リーグは慢性的な先発投手不足にあり、ドラフトでも即戦力の大学生や社会人を求めるのに対し、パ・リーグは2~3年後を見据えて素質のある若手を指名する。その蓄積の差が今のレベル差につながっていると感じます」

 パ・リーグがDH制を採用したのは1975年。球場が広くなったのはもっと最近のことだ。では、それ以前の名選手たちにとって、セパの違いとは何だったのか。「野球は巨人」という時代にパ・リーグの阪急に20年間在籍し(のちに阪神2年、近鉄1年)、通算350勝という、あの金田正一氏の400勝に次ぐ歴代2位の記録を持つ米田哲也氏が、往年の“パ・リーグ魂”を語る。

「僕らの時代は巨人戦しかテレビ中継がないし、スポーツ紙は1面から5面までセ・リーグの話題ばかりで、パ・リーグは試合結果しか出ていなかった。だから、テレビ中継があって1面に載るオールスターゲームは燃えましたよ。セ・リーグなんかに負けるなと、パのベンチは殺気立ってました(笑い)。セのベンチはお祭りムードでしたね。実際、オールスター3戦で勝ち越すと報奨金が出たほどで、1960~70年代はオールスターではパ・リーグが強くて、“人気のセ、実力のパ”なんて言われましたね。ハングリー精神が違いました」

 当時から実力で勝っていたうえに臥薪嘗胆の思いがあったから、今の大きな実力差につながったのかもしれない。では、ほとんど1面に載ることのなかった米田氏の350の勝ち星にはどんな価値があったのか。ご本人の弁はふるっている。

「僕の入団10年目(1965年)に巨人のV9が始まったが、すでに阪急で184勝していた。もし万年Bクラスの阪急ではなくて巨人で投げていたら、カネさんの400勝は抜けたかもしれませんね」

 実際、米田氏には1961年オフに王貞治氏とのトレード話があった。この時は阪急側が拒否して成立しなかったが、それからさらに14年間のプロ生活で166勝を積み上げたのだから、偉大な記録である。ちなみに400勝投手の金田氏は、そのV9が始まった年に国鉄スワローズから巨人に移籍したが、引退までの5年間で47勝と、国鉄時代ほどのズバ抜けた成績は残せなかった。その金田氏は生前、こんな言葉を残していた。

「ワシがはじめから巨人で投げとったら600勝していたな。国鉄はゴロを打たれるとエラーじゃったから、勝つためには三振を取るしかなかった」

 懐かしいカネやん節だが、金田氏も米田氏も、巨人という球界の盟主に対する反骨心で記録を作った点は共通する。今の巨人やセ・リーグは、新しい盟主となったソフトバンクや、さらに実力差が開いたパ・リーグに対して意地を見せる番だ。
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