桜井コケたらニッサンコケた。

このライター、ホントにそう思ってこの記事を書いているのか?

桜井真一郎サン、R30迄のスカイラインだけでいいし、以後はBe-1で良くない?

ID4は、本来あの当時の市販車用エンジンの技術なら、4WDはロードカーには不要だったから、単なる企画ミスだ。4WDやるなら、あの当時のシルエット車両やCカー張りの500馬力超エンジンをミドシップすれば開発を進められた。桜井サンの政治力あるならデキたろうし、CA20やFJ20のターボだったら最高の技術アピールになったハズ。

それらを押し通せなかった桜井サンに、発想とエネルギーの限界を感じた。また、コレだけヒトがいても何もデキなかったニッサン開発部門に幻滅を感じた。

こういう連中だから、5ナンバー程度の動力しかないクルマを5ナンバーサイズに纏める意志やスキルも持たなかったのだろう。

ワタシ自身、R30スカイラインRSが好きで、同じFJ20を積んだシルビアRSを探して10年乗っていた。もし、あの愚かなチャイルドシート規制さえなかったら、乗り続けていたハズだが。

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スカイラインだけじゃない! カリスマエンジニア「櫻井眞一郎」が手掛けた名車4選
8/31(火) 14:00 Yahoo!ニュース
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あらためて「スカイラインの父」の功績を伝えたい!
 
スカイラインを長年担当したことで知られる故・櫻井眞一郎
 スカイラインの父と呼ばれ、数々の伝説と伝説を築いたカリスマエンジニア「櫻井眞一郎」氏の逝去から2021年で丸10年。既成概念に囚われないフレキシブルな発想と優れた実行力、統率力でプリンス自動車日産自動車オーテックジャパン/S&Sエンジニアリングを渡り歩き、日本のモータリゼーションを牽引してきたひとりである。

【写真】Be-1だけじゃない! 大ヒットした日産のパイクカーたち

 熱血漢であり、ひたむきにクルマ作りに取り込むがゆえに、部下には厳しく接し、愛あるスパルタ指導が日常茶飯事であったそうだ。そのため、頑固で気難しい技術者というイメージが世間には浸透していたが、実際に会うと年齢問わず紳士的かつフレンドリーな対応で内面から優しさが伝わってきたものだ。また、熱のこもった受け答えは人を惹きつける魅力に溢れていた。

 その櫻井氏が開発に携わった代表車種といえば、初代のALSI型から7代目のR31までのスカイラインが挙げられる。だが、じつはほかにも数多くの車種で最前線に身を置いてきた。今回は櫻井氏が手掛けたスカイライン以外の車種をピックアップした!

4代目ローレル(C31型)
 
流麗なボディラインが特徴的だ
【欧州車に負けない質の高い走りを目指したアッパーミドルサルーン

 6代目スカイラインであるR30型と兼任で、櫻井氏が開発に携わったのが4代目ローレル(C31型)だ。2、3代目のアメリカン基調なスタイリングから一変し、初代と同じ欧州テイストのデザインに回帰した。

 スラントしたスッキリしたノーズに、メッキが多用されたサイドのシックスライトキャビンは、後席の居住性と伸びやかなプロポーションが特徴だ。2ドアハードトップを廃止し、4ドアハードトップと4ドアセダンのラインアップに。空気抵抗係数(Cd値)は0.38(4ドアH/T)と良好であった。

 インテリアはハイソカーブームの流れに乗った豪華路線であったが、理想的なドライビングポジションが設定できるフリーシフトセッターや、世界初のタイマー付きパワーウインドウ、足踏み解除式パーキングブレーキなど人に寄り添う櫻井氏らしいアイテムが新たに採用されてる。

 エンジンはターボが追加されたものの、3代目と同じくL型を軸に置いたラインアップ。高性能モデルはL28エンジン(145ps/23kg-m)で、兄弟車ともいえるスカイラインに搭載された最新の直列4気筒DOHCエンジンであるFJ20型は最後まで搭載されなかった。

 欧州のセダンに対して負けず劣らない質の高い走りを得ていたが、経済が上り調子の時代、ユーザーは革新や先進などを求め、直感的に新しさを感じさせたマークII3兄弟を支持した。

Be-1
 
ポップな雰囲気が大ヒットした名車だ
【性能ではなくデザインで時代を刺激したレトロポップなパイクカー

 R31型スカイラインの開発途中で病に倒れた櫻井氏。退院後は少量生産の特別限定車の開発に取り組んでいる。復帰後初の指揮を取ったのが日産初の「パイクカー」であるBe-1だ。コンセプトは時代に流されない、普遍的な価値を持った先端のクルマである。1985年の第26回東京モーターショーに参考出品され、大絶賛された。

 特筆すべきはデザインを日産社内ではなく、カーデザイナー経験のない人が提案した社外案が採用されたことだ。直線基調のデザインが主流だった時代に、丸みを帯びたレトロポップな可愛らしいフォルムは新鮮で、その後のカーデザインに大きな影響を与えた。

 ベースとなったのはK10型初代マーチ。ターボの設定はなく1Lの自然吸気のみの設定(52ps/7.6kg-m)で、室内も丸を基調としたシンプルにまとめられており、高級&高性能化著しい時代に逆行していた(ボディパネルには世界初の新素材、フレックスパネルやABS樹脂を採用していたが……)。その年の通商産業省選定のグッドデザイン賞に輝くなど、速さや豪華装備、最新の技術でもなく、デザイン力で時代を刺激したのだ。

 モーターショーでの反響を受けて、1987年1月に1万台限定で発売が決定すると予約が殺到し、急遽抽選販売に変更。中古車相場が新車価格を上まわるなど爆発的な人気を誇った。Be-1の成功により、第2弾のパオ、第3弾のフィガロへとパイクカーは繋がっていった。

MID4
 
迫力あるスタイリングは今見ても存在感バツグンだ
【幻となった日本初の本格ミッドシップスーパーカー

 Be-1とほぼ同時期に開発に着手したのが、ミッドシップスポーツカーのMID4。最終的には生産されなかったが、仮に発売されていたらNSXに先駆けて日本初のミッドシップスーパーカーとなっていたのは間違いない。1985年のフランクフルトモーターショーにコンセプトカーとして出展され、同年の東京モーターショーにもBe-1とともに登場している。

 ダブルウイッシュボーン/マルチリンクの本格的な足まわりに加え、エンジンは市販車に先駆けて3L V6DOHCのVG30DE型を横置きで搭載。さらに当時の最新走安技術であった4WS(HICAS)、どのような路面でも安定した走りを得られるよう、アテーサE-TSの前進ともいえる4WDを採用するなど、日産の持てるノウハウがすべて投入されていた。

 1986年、櫻井氏のオーテックジャパンの社長就任とともにMID4プロジェクトはオーテックジャパンに移管され、開発が続けられた。

 そして、1987年の東京モーターショーには第2世代のMID4-IIを発表。スクエアなフォルムだった1型に対して、曲線を活かした伸びやかでミッドシップらしい美しいデザインへと進化する。エンジンはターボ化(330ps/39.0kg-m)され、搭載位置も縦置きに変更されるなど本格スポーツに仕上がっていた。

 また、ジャーナリスト向けの試乗会も開催され、市販化は間近かと噂されたが、残念ながら正式発表は見送られた。MID4で培われた日産の最新技術や高いデザイン力は、R32スカイラインGT-RやZ32フェアレディZなどに受け継がれている。

オーテック・ザガート・ステルビオ
 
個性的なルックスはベース車のレパードを感じさせない雰囲気だ
【当時の日本車最高額を誇った日伊合作の超絶スペシャリティカー】

 オーテックジャパンの社長に就任してからも、主業務である特殊車両の開発だけでなく、日産時代から従事していた少量生産の特別限定車の製作やレストア事業(S&S事業部。のちにS&Sエンジニアリングに受け継がれる)にも力を入れていた。

 ファインチューニングが施され、トータル性能を磨き上げた「オーテックバージョン」もそのひとつだが、究極といえるのがイタリアのカロッツェリアであるザガート社との協業で開発された、高級スペシャリティカーであるオーテック・ザガート・ステルビオだ。

 ベースとなったのはVG30DETを搭載したF31型レパード。エンジンのファインチューン(255ps/35.0kg-m→280ps/41.0kg-m)やサスペンションの強化は、オーテックが担当した。ボディはザガートが担当で、当時としては珍しいカーボンファイバーとアルミを多用した流麗なボディを被せ、内装を仕立てた上で日本に運ばれ納車される流れであった。高価な材料の使用と複雑な生産工程を経て製造されたため、販売価格は当時の日本車における最高額となる、1780万円のプライスタグが付けられた。

 デビューは1989年のジュネーブショーで、試作車3台を含めて203台の生産が予定された。バブルの好景気も後押しし、受注は好調であったが、ザガート社の架装作業の遅れとボディの仕上がりの悪さもあって、予定どおりの納車が叶わなかった。そのため、キャンセルが続出。外的要因でこのプロジェクトは失敗に終わり、オーテックとザガートの協業は断ち切れることとなる。

 ちなみに余ったエンジン、ミッション、ボディはザガートが1991年に「ガビア」として発売。オーテックは同エンジン、ミッションをR31スカイラインに搭載した上でコンプリート化した「S&Sドリフトパッケージ」に活用されている。
山崎真一

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