里谷多英、ソコから先がロクでもなかった。

長野五輪、オトコの清水とオンナの里谷はスゴく取り上げられたじゃん!

清水の方は、藤原紀香の売名出汁に使われて、清水の家にも上がり込み、母子と連絡取りつつ、恋人婚約者扱いで紀香はテレビに取り上げられていた。それが、カレの競技が終わると携帯を解約して連絡不通にするトンズラぶりだった。その後に追い掛け回されるのを避けるため、ボディーガード代わりにA・フグに近付いた。清水の母親はダマされ嘆き人間不信になり、清水はホステスにダマされるクセがついてしまった。

オンナでは五輪前からCMで取り上げられまくっていたのは、上村愛子だった。モーグルを一人で背負ったかのような言動で、メダルの期待を一身に受けていた。いざ、競技に入ったら、あっけなく里谷多英が金メダル、上村愛子は入賞だけ。上村愛子は生涯、銅メダルにすら届かなかった。

里谷多英はその後、フジテレビに入社、競技に専念するのかと思ったら、確か六本木に入り浸り、クラブのVIPルームでセックスしてるのを見咎められ、警察沙汰にもなったんじゃなかった?

上村愛子は地道に競技やっていたが、こっちの方がグレ方がヒドかったョ!

 

 

 

 

 

 

 

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モーグル里谷多英長野五輪金メダル獲得の真相。気持ちを入れ替えた「2つの出来事」
11/11(木) 10:45 Yahoo!ニュース
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冬季五輪で日本人女性初の金メダリストとなった里谷多英さん。photo by Kyodo News
長野五輪金メダリスト里谷多英インタビュー(前編)

この夏、新型コロナウイルスの感染拡大によって1年延期された東京五輪が開催された。年が明けて2022年2月には冬の北京五輪が行なわれる。東京五輪同様、日本人選手の活躍が期待されるが、五輪開幕を前にして思い出すのは過去に輝かしい結果を残した選手たちである。1998年長野大会で日本人女性初の金メダリストとなり、2002年ソルトレークシティー大会でも銅メダルを獲得したフリースタイル・スキーモーグル里谷多英さんもそのひとりだ。今回、そんな彼女を直撃し、当時の快挙達成の瞬間を改めて振り返ってもらいつつ、その後の人生、さらには現在の状況について話を聞いた――。

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――里谷さんは初めて出場した1994年リレハンメル大会以降、1998年長野、2002年ソルトレークシティー、2006年トリノ、2010年バンクーバーと5大会連続で五輪出場を果たしました。最も印象に残っているのは、どの大会ですか。

「やはり(メダルを獲得した)長野とソルトレークシティですね。長野の時は(地元日本開催で)表彰台に立ちたいという気持ちは、もちろんありました。でも、それまでにワールドカップツアー(以下、W杯)でも3位以内に入ったことがなく、現実的には『難しいだろうなぁ』と思っていました。それなのに、金メダルが獲れたので、こんなこともあるんだなと思いましたね。

 ソルトレークシティーでも大会前はなかなか結果を出せないなかで、銅メダルを手にすることができました。正直なところ、2つともメダルを獲れるとは思っていなかったので、本当によかったです」

――メダル獲得への自信や手応えがそれなりにあったと思っていたのですが、そうしたものはまったくなかったのですか。

「(メダル獲得の)自信はなかったですね。それでも、長野五輪の2年前、(上村)愛子が初めてW杯(マイリンゲン大会)に出場して、いきなり3位になったんです。それを見た時、『私は今まで何をやっていたんだろう』『しっかり頑張らないといけない』という気持ちになって。

 あと、長野五輪の前年に父が亡くなって、そこから一年間は気持ちを入れ替えて、トレーニングなどでも妥協を一切なくしたんです。それまでは、サボり癖があったりしたんですけど(苦笑)。そうして、五輪のスタートラインに立った時には『やらないといけないことはこれ以上ない』『ここで全力を出しきって、自分の納得がいく大会になればいい』――そう思っていました」

――スタートラインに立った時には多くの観衆の姿も見えたと思うのですが、そんな観衆の歓声や声援は耳に届いていましたか。

「いえ、全然入ってこないんですよ。スタート前のことはまったく覚えていないですし、滑っている時も他のどんな大会とも変わらず、歓声や(会場に流れる)音楽とかも聞こえなくて......。とにかく(頭の中は)真っ白(笑)。その時の記憶はまったくないんです。

 初めて国際大会に出場した時も、途中で転んだのに滑り終えた時にはその記憶すらなかったんです。滑り終えて、現地に来ていた父に『決勝ではこうしたい、ああしたい』と言っていて、父に『転んだから、決勝にはいけない』と言われても、思い出せないほどで。長野の時はその時と同じ感覚でした」

――フィニッシュして、メダルへの実感はありましたか。

「それもなかったですね。記憶がなかったので、『また転んだのかな』と悪い記憶が蘇ったりして......。スコアを見た時も、25点というのは見えたんですけど......。過去に出場した世界レベルの大会で、自分自身が25点台を出した経験がなかったので、最初は『これってタイムなの? それともスコアなの?』と戸惑っていました。タイムなら30秒だし、『何だろうな』って思っていたところ、(スタッフや観衆など)みんなが喜んでいたので、自分も一瞬喜んだんですよ。

 でも、そこでまた冷静になって『やっぱり違うかな......』と思ったりして、改めてスコアを見たら25点だった。それで、『えっ!?』ってびっくりして。金メダルという実感もなくて、夢みたいなフワフワした気持ちで。現実味がなかったですね」

――メダルを獲得したことで、自らを含めて、周囲で何かしらの変化は見られましたか。

「長野の時はメダルを2個、3個と獲得した選手がいたので、自分がそこまですごいことをしたという実感もなく、(自分自身は)特に変わることはなかったです。変にチヤホヤされることもなくて、友人関係にも変化はなかったです。

 また、いろいろな方に『メダルを獲ると周囲が変わるよ』と言われたのですが、知らない親戚が増えることもなかったですね(笑)。(メダルを獲って)何かいいことがあったかと言えば、チームに専属トレーナーがついたりしてサポート体制が充実したこと。それは、大きかったです。あと、美味しいものを食べさせてもらえました(笑)」

――長野五輪で金メダルに輝いて、続くソルトレークシティーでも銅メダルを獲得。関係者の方に話を聞くと「里谷は"ここ"というところでの集中力がすごい」と言っていました。ご自身ではそういった自覚はありますか。

「自分で集中力がすごいとは思いませんが、17歳で初めて五輪に出場してから、五輪にすごくフォーカスしてきました。五輪が終わったら、次の五輪のことを考えているというか。そうやって、4年ごとに考えて競技生活をしていたので、36歳で引退するまであっという間でしたね(笑)。

 とにかく、4年に一度の舞台で『いちばんいい滑りをしたい』と思って、そこに向かってそれまでの4年間の計画を立ててやってきました。そして、五輪の1カ月前とか、直前になればなるほど、いろんなことにも集中できていたような気がします。集中すると、さまざまなことを吸収できて、スキーにしろ、ジャンプにしろ、うまくなっていくのが自分でも感じとれるんです。そうやって、本番に向けてどんどん調子が上がっていって、滑るのが楽しくなっていった、というのはあります」

――ところで、先ほど名前が挙がりましたが、現役中は上村愛子さんとの関係が常にクローズアップされていました。

「愛子とは、いいライバルでした。最初の頃は合宿などでも一緒の部屋で過ごすことが多かったですから。

 長野五輪以降は個人部屋になって、大人になっていくにつれ、お互いにいい距離感を保っている感じでした。現役ですし、ライバルですから、これ以上は近づかないけれど、離れもしない、みたいな。ライバル同士、ベタベタしているというのはちょっと想像つかないじゃないですか。

 現役時代はそんな感じでしたけど、今は一緒にスキーをしたり、食事をしたり、仲いいです」

――周囲でいろいろ言われるという点では、長野五輪で金メダルを獲得して以降、競技以外でもメディアに追いかけられることが多くなったと思います。週刊誌などであらぬことを取り上げられたりして、嫌な思いをすることはなかったですか。

「自分の知らないところで、知らない人に知らないことを言われて、自分の耳に入ってくることはいろいろありました。でも、それは明らかに私のことではない話だったりするので、あまり気にしていませんでした。だから、嫌というか、困ったなと思うこともなかったですね。五輪に出て世間に名前が広まって『有名になったから仕方がない』とは思いませんが、そういうものだなって思っていました。

 ただ今思うと、(自分が)金メダリストであるとか、そういう意識があまりなく行動していたので、もう少しその自覚があればよかったのかな、と思いますね(苦笑)」

――競技生活においても負傷などがあったりして、いろんな苦労があったと思います。

「30代になって、バンクーバー五輪を目指そうと思った時、『若手にシフトしたい』といったニュアンスのことを(全日本スキー連盟の方から)暗に言われたことがありました。もちろん、大会での成績がずば抜けているとか、若い子たちが30歳すぎの私と同じ成績なら、そうした若手にチャンスをあげるべきだと思います。

 でも、成績は関係なく、年齢だけで代表を選ぶのはどうかと思うんです。大会での結果が私よりも低くて、W杯でも成績を出せていない若い子に(代表の座を)譲る、というのは納得できなくて(連盟に)直談判しにいったことがあります。それで、W杯の成績で決めるとか、『30代以降の選手に厳しい基準でもいいですし、私だけ厳しい基準でもいいので、後出しで代表を決めるのではなく、事前に五輪出場の判断基準を明確にしてください』と言ったら、バンクーバー五輪の前には『全日本選手権で優勝』といった、その時だけの、私だけのルールみたいのができたりしました(苦笑)」

――結局、里谷さんはあらゆる大会で成績を残して、バンクーバーで5大会連続の五輪出場を果たしました。そうしたルールを決めた人たちを「見返したい」といった気持ちがありましたか。

「それはありました。でも、これはあとで思ったことなんですけど、『見返してやろう』とか、そういう気持ちでスキーをしていると、いろんなことがズレてしまって結果に結びつかないんですよね。先ほど言った『ここでいちばんいい滑りをしたい』という純粋な気持ちを失って、そういう気持ちばかりしかなかったので、最後の五輪では思うような滑りができず、いい成績も残せませんでした」

――その後も2014年ソチ五輪を目指して競技生活を続けていましたが、五輪の前年に現役引退を発表しました。

「自分だけのルールみたいなものがあるなかでも、若手と競り合ってきたのですが、ソチの前には『もうそのレベルに届かない』『ルールをクリアすることもできない』『自分がソチ五輪に出ることは叶わない』と実感したんです。そう思えたので、自分で納得してやめることができました。最後まで五輪に出ることにこだわって、自らの信念を曲げずにやってこられて、よかったなと思いました」

――里谷さんを陰で支えてこられたお母さまには何か言われましたか。

「母には『やっとやめるの』って言われました(笑)。ケガをしてほしくないという思いがずっとあったようで、五輪があるたびに嫌な気持ちになっていたらしく、(競技自体は)見ていられなかったみたいです。実際、『早く普通に働いてほしい』と言われていたので、ホッとしたんじゃないかなと思います」

(つづく)

里谷多英(さとや・たえ)1976年6月12日生まれ。北海道出身。フリースタイル・スキーモーグルの選手として活躍したオリンピアン。17歳で1994年リレハンメル大会に出場し、以降5大会連続で五輪出場を果たす。1998年長野大会で金メダル、2002年ソルトレークシティー大会で銅メダルを獲得した。フジテレビ所属。
佐藤 俊●取材・文 text by Sato Shun

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