スーパーカー、本来はスーパーなクルマ、スーパーなスポーツカーやセダンやそれぞれのジャンルのクルマを纏めてスーパーカーと言うべきモノだと思う。実際、結構な自動車メーカー、セダンにもスポーツカーにもクロカンにもミニバンにもステーションワゴンにも同じコンポーネントを共用していたりする。後は、どんなフロアや外観になっているかの違いしかない。
スーパーセダン、スーパースポーツカー、スーパークロカン、スーパーミニバン、スーパーステーションワゴンだってあっていいと思う。
昔は、レーシングカーに近い、ノウハウを注ぎ込んだ、2座カテゴリーにも対応できるようなクーペのスポーツカーが最先端だった。当時、フェラーリやマセラティーも様々なモデルを出したが、バトルプルーフされた技術やレイアウトや外観は堅実方向であった。
しかし、ランボルギーニミウラは、ダラーラがフォードGT40をモチーフに、センターモノコックに前後カウリング、ミドシップされるのは横置V12に並行したミッションとデフを一塊に直結して配置した。
最先端たるコンポーネントレイアウトと、ベルトーネのM・ガンディーニによるインパクトあるデザインは、ランボルギーニこそスーパーカーだと認識させた。
フェラーリは、BBでセンターモノコックに前後サブフレーム構成、縦置フラット12をミドシップしたが、ランボルギーニミウラほどのインパクトはなかった。最高速度302キロというリリースしか残らなかった。
一方、ランボルギーニはテストカーLP500カウンタックでこの構成に見切りをつけ、フレーム構成に修正しつつ、ガンディーニデザインのボディーを纏った。超未来的デザインのスタイリングは、フェラーリやマセラティー他のスポーツカーメーカーを1歩も2歩もリードしたのだ。
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【スーパーカーにまつわる不思議を考える】スーパーカーの始祖となるモデルと、それが生まれた背景
2022/03/19 20:00 カーセンサー6
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ブランディングを試行錯誤して生まれた、自動車史に残る傑作モデル
元祖スーパーカーとはどのモデルか? そもそもスーパーカーの定義自体が明確でないから、その答えはなかなか難しい。
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前回の当連載で筆者は、スーパーカーを「スポーツカーであるが、レースカーではなく、ラグジュアリーなエクステリアとインテリアを持つ少量生産自動車」と定義している。ここではその独善的な考えに基づいてお話したい。
1966年のジュネーブ・モーターショーでデビューを飾った「ある」モデルは、全世界の注目を集め、購入希望者が殺到した。クラシカルな要素を持ちながらも未来的なテイストを醸し出す優雅なスタイリング、ミッドマウントされた大排気量のV12エンジン、斬新なテイストを魅せるインテリア。そう、ランボルギーニ ミウラである。いろいろな意見があるのは承知のうえで、元祖スーパーカーはミウラ以外にはないと筆者は考えるのだ。
ミウラが登場するまでは、モデナの老舗ライバルメーカーにとって、1963年に発足した新興メーカーのランボルギーニは眼中になかったと言って良い。フェラーリが大排気量スポーツカーの頂点として、絶大なブランドパワーを持って独走していた時代だ。当時、ロードカーである275GTBは優雅なピニンファリーナデザインのボディをまとっており、それは「ロードカーのボディをまとったレースカー」というフェラーリのアイデンティティに基づいたものであった。
また、もう一つの雄であるマセラティもエレガントなGTカーとして確固たる地位を確立していた。当時の主力モデルはミストラルであり、ジウジアーロのデザインによるギブリも登場間近だった。
新興メーカーであるランボルギーニが、このマーケットに食い込むのはたやすいことではなかった。当初、あの有名な「エンツォ・フェラーリとの確執エピソード」をぶち上げたオーナーのフェルッチョ・ランボルギーニは、ランボルギーニのブランドプロモーションのために、あたかもフェラーリがライバルであるかのように振る舞った。
しかし、彼が本当に作りたかったのはマセラティやアストンマーティンのようなGTカーであった。ところが、そのどちらもフェルッチョに言わせると少しスポーティさに欠けていた。つまり華がないと考えたのだ。そんな経緯から生まれたのが350GTであり、それは快適なGTカーでありながらフェラーリに匹敵するパワフルなエンジンを搭載した、いわば両ライバルのいいとこ取りを目指したものであった。
ただ、そう上手くは事が運ばなかった。蓋を開けてみると、売り上げは伸びず、その戦略がなかなか難しいものであったことをフェルッチョも理解した。詰まるところ、どっちつかずの評価しかマーケットから得ることができなかったのだ。長い歴史を持ちブランドとして華があるライバルたちとどう戦うべきか、彼は悩んだ。
ライバルたちの度肝を抜いた、ミウラの革新的なデザインと設計
フェルッチョは、ランボルギーニの開発エンジニアにあえて経験の少ない若者を選んでいた。ジャンパオロ・ダラーラとパオロ・スタンツァーニである。今までの常識を引きずっていては新しいことはできないことを、彼はトラクターをはじめとするモノ作りの経験から学んでいた。
この二人、特にダラーラは、レース活動に関わることができるという”餌”でフェルッチョがマセラティから引き抜いてきた若者だった。だから、当然レースの世界が一番の関心事であった。当時のレース界において大きな旋風を巻き起こしていたフォード GT40に二人はぞっこんであり、いつかこんな車を作りたいと思っていたという。
車作りの方向性に悩んでいた彼らは、この低く幅広いスタイリッシュなボディを持ったミッドマウント・エンジンのレースカーこそが、ニューモデルのベンチマークとなると考え、フェルッチョもそれを承認した。これがミウラ誕生の舞台裏だ。
モデナのスポーツカーメーカーとして新しい取り組みであったセミモノコックボディを開発し、V12エンジンを横置きで搭載した。このレイアウトを見た当時の誰もが、それをレースマシンと考えたであろう。そこに富裕顧客にアピールすることのできるエレガントなボディを載せるのがミウラのコンセプトであった。
「ベルトーネのスタイリングは独特だった。それまで任せていたカロッツェリア・トゥーリングが経営破綻していたから、ベルトーネとのコラボレーションを何とか実現させたいと考えた。そう、モーターショーで見たアルファロメオ・カングーロのテイストにダラーラも私も打ちのめされていたんだ」と故スタンツァーニは、かつて語っていた。そんな経緯から、マルチェッロ・ガンディーニによる自動車史に残る素晴らしいミウラのスタイリングが誕生した。
ミウラの革新的なメカニズムを見たフェラーリのエンジニアたちも顔色が変わった。レースカーのDNAをブランディングの核とするフェラーリは、ランボルギーニを初めて脅威と感じたのだ。もちろん、マセラティも同様であった。レースカーでもなく、GTカーでもないが、その存在がとんでもなく斬新で、ユニークである。
そんなミウラは、世界中に大きなムーブメントを作った。そして、その顧客層はそれまでスポーツカーにあまり興味のなかった富裕層にも広がった。イタリアでは「ミウラ・カフェ」が誕生し、ファッションショーにもミウラが登場した。まさに世界はスーパーカーの誕生を見たのだった。 ランボルギーニの物件を年式の古い順に見てみる▼検索条件ランボルギーニ × 全国文/越湖信一、写真/ランボルギーニ、フェラーリ、マセラティ、フォード
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