ランボルギーニミウラ、ダラーラが残っていたら・・・。

ランボルギーニ、創業者フルッチオはビジネスマン、フェラーリより速く快適なGTを作る目的で自動車メーカーを立ち上げたが、レースをする気はなかった。ジャン・パウロダラーラフェラーリマセラティーを経てランボルギーニに入ったが、レースをしたかった。ソコで、フォードGT40やミニ・クーパーをヒントに横置V12ミドシップのTP400を作成し、モーターショーに出品、大好評を得た。TP400はジウジアーロからガンディーニに主任交代したベルトーネデザイン案を受け、P400ミウラになった。

市販を急いだため、開発責任者ダラーラとテストドライバーのボブ・ウォレスは市販しながら逐次改善する運びになった。

当初、P400ミウラはミニを模したエンジン&ミッション&デフを一塊ユニットで、エンジンオイルをエンジン&デフの潤滑に使っていた。以後、デフの潤滑を別にしてLSDを組み込めるようにした。

一方では、レーシングカー開発を目論見、フルッチオからはミウラのクレーム対策の名目でミウラを調達、FIA競技車両規則J項に則る意図で"J(イーヨット=JOTA)"と仮称した。ソレに依り、SやSVという改善にも役立てられた。

フルッチオはダラーラの意図を知ると、カレに改めてレース参加意思のないコトを伝え、Jを売却した。ダラーラは、エスパーダの設計を終え、出て行った。

ダラーラが辞めたから、パウロ・スタンツァーニが就任し、縦置V12のカウンタックに転換した。しかし、経営不振からフルッチオが退くコトも間近であり、少しガマンすればカレがいなくなり、望む事態に転じたハズ。カレがいなくなり、ミウラだけで途絶えた。

フェラーリは、鋼管フレームに横置V6やV8のディノや308GTBらを出したが、横置V12はしなかった。(365Pは縦置だった。)フェラーリが、鋼管フレームに横置V12をやっていたら、横置ミドシップの歴史は変わっていたように思う。

それか、ダラーラがガマンしてランボルギーニに残っていたら、ミウラの正常進化或は後継の横置V12が出たハズ。そうなると、スタンツァーニのカウンタック出現が遅れたか、なくなったかも知れない。実際、ダラーラはスタンツァーニ退任後、ランボルギーニに戻り、ウォルター・ウルフ・カウンタックのチューニングに関わったと言われるだけに、もったいなかった。

 

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2億円が当たり前になったランボルギーニミウラ」のスーパーカーブーム時代の評価は低かった!?【スーパーカー列伝08】
4/20(木) 11:10 Yahoo!ニュース
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今や誰もが認めるスーパーカーの金字塔、ミウ
 
2022年9月のRMサザビーズオークションで140万~160万スイスフラン(邦貨換算約2億800万円~2億3800万円)のエスティメート(推定落札価格)が付いた1968年式ミウラP400
1970年代中ごろ、子どもたちの周りにあるさまざまなモノがクルマ関連グッズと化した空前絶後の「スーパーカーブーム」は、池沢早人師さんによる漫画『サーキットの狼』をきっかけとして巻き起こりました。当時の子どもたちを熱狂させた名車の数々を振り返るとともに、今もし買うならいくらなのか? 最近のオークション相場をチェック。今回は、スーパーカー・ブランドとしてのランボルギーニの礎となった「ミウラ」を振り返ります。

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70年代のお子さまの間では「脇役」
今でこそ「スーパーカーの中のスーパーカーミウラだ」と声高に叫ぶクルマ好きが増えたが、やはり、70年代スーパーカーブーム全盛時のヒーローはランボルギーニカウンタックLP400」とフェラーリ「365GT4/BB」であった。
そのため、ブーム当時の子どもたちにとってのミウラは「ランボルギーニの名を世界に知らしめた名車」といったもので、現在一部のカーマニアが提唱しているキング・オブ・スーパーカーというポジションではなかった。子どもたちのバイブルだった自動車大百科の巻頭グラビアページに登場することも少なかったので、誌面におけるヒエラルキーは低かったといっていい。
ミウラは、ランボルギーニ初のミッドシップモデルとして1966年のジュネーブ・ショーでデビュー。このときにリリースされたのは、初期モデルにあたる「ミウラP400」だ。当時のチーフエンジニアであったジャン・パオロ・ダラーラが設計したシャシーに、ベルトーネ在籍時代のマルチェロ・ガンディーニがデザインしたボディを組み合わせていた。
ミウラを題材としたスーパーカー消しゴムも存在したが、やはり、ガンディーニによって描かれた繊細なボディラインをカーケシサイズで再現することは難しく、お子さま目線では、あまりピンとこなかったというのが正直な印象だ。

350馬力のV12エンジンと美しすぎるスタイル
スーパーカー消しゴムではイマイチだったが、実車ミウラは高剛性シャシーに排気量3929ccのパワフルなV型12気筒エンジンを横置きに搭載するという高度なメカニズムと、ガンディーニによる美しいスタイリングがバランスよく融合していたこともあり、ミウラP400はランボルギーニ知名度を上げる存在として大いに注目されたのだった。
その後、最高出力350psだったミウラP400のパワーアップ版として、1968年にP400Sが登場。車名の最後に付いた「S」はイタリア語のスピント(「超越した」の意味)の頭文字で、V型12気筒エンジンの圧縮比を高めるなどして最高出力が20psアップしていた。
1971年にミウラの最終進化型としてリリースされたP400SVに搭載されたパワーユニットは、最高出力385psを発生。こちらの「V」は、イタリア語のヴェローチェ(「速い」の意味)の頭文字だ。ミウラP400/P400Sとの識別ポイントは、ヘッドライトの「まつ毛」が無くなったこと、テールランプのデザインが変更されたこと、リアフェンダーが拡げられたことなどだ。各モデルの生産台数は、ミウラP400が475台、ミウラP400Sが140台、ミウラP400SVが150台といわれている。
フェラーリ初のミッドシップモデルであるディーノ206GTが登場したのは1967年のことだったので、それに先んじて横置きミッドシップというレイアウトを実現させたミウラP400はスーパーカーのパイオニアと呼んでもいいのかもしれない。

サーキットの狼』では飛鳥ミノルの愛車だった
スーパーカーブームのきっかけとなった漫画『サーキットの狼』(1975年から週刊少年ジャンプでの連載がスタート)では、若手の実力ナンバーワンレーサーとして注目された飛鳥ミノルの愛車としてミウラP400Sが登場。主人公である風吹裕矢の兄貴的存在であった飛鳥は、風吹の姉であるローザと結婚したこともあり、劇中におけるミウラP400Sは「善玉/悪玉」というシンプルな分け方をするなら、善玉であった。
キング・オブ・スーパーカーとして知られるカウンタックランボルギーニの名声を不動のものにしたエキゾチックカーだったとすると、ミウラはランボルギーニが送り出した最初の傑作車だと言うことができ、なおかつ初めてフェラーリに対抗できたスーパースポーツカーだったと解釈できるだろう。

オークションでの最新相場は
世界的にファンが多いこともあり、ミウラの流通価格は超高値で推移している。たとえば2022年9月にスイスでRMサザビーズが開催した「ST. MORITZ」オークションでは、フルレストア済みの白い1968年式ミウラP400が出品され、140万~160万スイスフラン(邦貨換算約2億800万円~2億3800万円)と高額のエスティメート(推定落札価格)がつけられた。
この個体は残念ながら落札されなかったが、ほかの海外オークションでも2億円や3億円での落札は当たり前なのが実勢。以前、日本国内のショップで伺ったP400Sの販売価格が2億5000万円で、P400も同じぐらい、P400SVは3億5000万円だったので、もはやミウラは世界的に誰もが認めるプレミアム・スーパーカーの殿堂に入っていると考えていいだろう。
高桑秀典
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