もしも、ダラーラがもう暫くランボルギーニにいたら・・・

J・P・ダラーラ、カレがフルッチオのレース不参加意志に落胆し、エスパーダ設計後にランボルギーニを辞め、デトマソに移籍したんじゃなかった?その結果、P・スタンツァーニがクルマ作りを引き継ぐコトになり、ダラーラが作ったミウラに見切りをつけ、縦置V12のミドシップカー作りに着手した。

当時までに、第1期ホンダF1でも横置V12はサーティーズやギンサーで優勝し、注目されていたレイアウトだった。ミウラが煮詰め切る前に売り始めたため、大変だっただけだ。実際、フェラーリはV6とV8ディノや308/328GTBらで、横置ミドシップで優れたハンドリングカーを輩出した。フェラーリが横置ミドシップV12を出していたら、横置ミドシップV12の評価も変わっていたのでは?

或は、ダラーラがもう暫くランボルギーニに留まって、B・ウォレスと共にミウラ改善に取り組み、ミウラ後継車両も横置ミドシップV12で作っていたら、どうなっていたろう?フルッチオは自動車産業の不採算に幻滅しつつ、政情不安による本業トラクター事業不振により、自動車の経営権を売り渡した。P・ミムランなら、レース参加も認めたかも知れない。そうしていれば、ランボルギーニにもフェラーリ的な価値が付き、クライスラーやVWアウディーに買い叩かれなくて済んだかも知れない。

もちろん、ダラーラランボルギーニに残っていたら、スタンツァーニがカウンタックを作る芽がなくなっていたワケだが。

 

 

 

 

 

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ミウラ」を開発したレース界の偉人「ダラーラ」! 集大成で生み出した市販スポーツもまた圧倒的だった
2/11(金) 17:30 Yahoo!ニュース
 
超一流のシャシーコンストラクターとして名を馳せた
 
数々のレーシングカーを生み出してきたダラーラは、ランボルギーニで伝説的な扱いをされるミウラも手掛けていた。
 レーシングカーのシャシーコンストラクターとして「ダラーラ」の名前を耳にしたことはあるだろうか? 日本でダラーラ製のシャシーを目にするようになったのは、1990年代のF3だったが、同社はこれより20数年ほど長い歴史を持っていた。

【写真】ランチアLC1のフロントスタイリング!

 ダラーラ社は、その名のとおり、創始者ジャンパオロ・ダラーラの名前に由来するもので、ダラーラ自身も博士号を持つ自動車エンジニアである。

 ミラノ工科大学を卒業したダラーラは、まずフェラーリ社に入社することになる。ここでカルロ・キティの配下で働いた後、マセラティに移籍してレース業務に従事。そして、4輪事業創業間もないランボルギーニ社にスカウトされ、初期のランボルギーニ社一連のスポーツカーの開発を手掛けることになる。この時代のよく知られた車両としては、同社の傑作、芸術作品と評されたミウラの存在が光っている。

 ダラーラは、その後さらにデ・トマソ社に移籍したが、1972年に独立して「ダラーラ・アウトモビリ社」を設立。

 彼の足取りを振り返ると、業務として市販車の開発に専念していたが、本心は常にモーターレーシングに顔を向けていたことが読み取れる。ダラーラ社として独立後は、ランチア社の競技車両開発を請け負い、ストラトス(グループ4)やベータ・モンテカルロ・クーペ(グループ5)を送り出している。

 そして1978年、自社ネーミングのフォーミュラシャシーを開発してF3レースに参戦。ダラーラは、デ・トマソ時代にフランク・ウイリアムズと知己を得、同チームのマシンモディファイ、さらにはウイリアムズチームのオリジナルマシン、FWシリーズの誕生に携わってきた経緯があり、フォーミュラシャシーについては十分なノウハウを持っていた。

 ダラーラ社のF3シャシーは、1980年代、そして1990年代と時代を追うごとに、深く市場へ浸透していった。

ついに理想のロードゴーイングスポーツを作り上げる
 
F1やスーパーフォーミュラなどなど、レースシーンを語るには欠かせない存在となっているダラーラ。最近ではダラーラ社初となる公道走行用車両のプロジェクトも立ち上げていた。
 レース市場で生き残る、あるいは成功する秘訣は「勝利」以外になく、ダラーラシャシーがラルト、レイナードなどと競合しながら最終的に寡占市場を築いた理由は、信頼性が高く速いシャシーだったからにほかならない。こうした流れは、2000年代に入ってからも続き、GP2(現FIA F2)、GP3(FIA F3)をワンメイク化するほどの信頼性を勝ち得ている。

 また、F1には1988年からスクーデリア・イタリアのシャシーコンストラクターとして参戦。スポーツカーレースの分野では、ランチアLC1(グループ6)、ランチアLC2(グループC)、フェラーリ333SP(LMプロト)などの開発を手掛け、レース市場から優秀にして信頼の置けるコンストラクターとして高い評価を得るようになったのは、この時代の実績がその根幹となっている。

 こうしてダラーラの歴史を振り返ってみると、個人としては自動車メーカーで量産車の開発作業に従事してきたが、独立して企業を率いる立場となってからは、レーシングコンストラクターとして名を成したと見てよいが、2015年、自身のエンジニア人生の集大成として、ロードゴーイングスポーツカーの開発を企画した。1972年に独立して以来、43年目にしてダラーラ社初となる公道走行用車両のプロジェクトである(ダラーラ社としては、ブガッティ・シロンの開発にも関与)。

 開発コンセプトは、ダラーラが自動車に対して込めた想い「公道、サーキットを問わず、走る歓びをファンに伝えたい」を具現化したもので、2.3リッター直4ターボ(400馬力)に855kgの軽い車重の組み合わせは、スポーツカーを名乗りながら最高速度に偏重した性能設定のために700~800馬力級のエンジンパワーに1600kg前後の重車重を持つスーパースポーツカーとは、明らかに異なる軽快な運動性能を持つ車両として作られていた。

 俊敏で軽快なフットワーク、しかしながら、動力性能は400馬力のエンジンパワーに支えられた一級品。究極の運動性能、旋回性能を目指しながら、現代のスポーツカーとしてトップゾーンに位置できるエンジンパワーを与えた車両企画は、長年、サーキットという究極の場で、レーシングカーを作り続けてきたダラーラならではのスポーツカーコンセプトと言えるものだった。

 若くしてランボルギーニフェラーリの高性能スポーツカーを手掛け、充実期をトップレーシングコンストラクターとして手腕を振るい、そして、その集大成期に両者の長所を合わせ持つ、もっとも自分らしいロードゴーイングスポーツを作り上げたジャンパオロ・ダラーラ。彼こそ、尊敬すべき、そしてもっとも愛すべき自動車エンジニアではなかろうか。
大内明彦

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