杉下コーチの遺産、巨人角の変則サイドスロー!

杉下茂サン、ワタシは野球入門などの本で「フォークボールの神様」「中日のエース」として読んだだけだった。第1期長嶋茂雄監督、1年目に最下位の時は投手コーチは「8時半のオトコ」宮田征典だったハズ。当時、堀内恒男&高橋一三はV9疲れ、新浦寿夫が出ては四球、小林繁小川邦和らは成長途上だった。ソコに就任したのが、杉下茂投手コーチだったハズ。高橋一三張本勲とトレードされ、アメリカからK・ライトや太平洋から加藤初らも補強された。

セ・リーグでV2したが、阪急には日本シリーズで負けた。

江川卓や角三男や鹿取義隆らが加入したのは、その後だったハズ。

角は先発や中継に起用され新人王にもなったが、小川邦和の後の背番号45は左オーバースローのノーコン投手だった。西本聖らと共に、1イニング与四球記録にも絡んだハズ。ソコから、変則サイドスローへのチェンジに着手した。長嶋茂雄監督&杉下茂投手コーチ下ではコントロールに苦しんだ。

藤田元司監督になり、コントロールよりも手首を立て気味に強くリリースするようになり、先発江川卓のタマと同様、抑えでのライジングファーストボールがデキた。

当時、日米野球で来日したアメリカチーム、R・ジョンソンが角のライジングファーストボールを見て、通訳介して「どうやったら投げられるか、教えてくれ!」と来たらしい。角は、「アンタみたいに、デカくて速かったら必要ないじゃんか!」と返したとか。

 

 

 

 

 

 

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【追悼・杉下茂さん】球界タブー破って長嶋監督へ直訴! 「サイドスロー角盈男」が生まれた日
6/17(土) 11:01 Yahoo!ニュース
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巨人・伊東キャンプで角の投球を見つめる杉下コーチと長嶋監督(1979年)
フォークボールの神様」の異名があった、中日の元投手で監督も務めた杉下茂さんが、12日に東京都内の病院で間質性肺炎のため亡くなっていたことが分かった。97歳。中日球団が16日に発表した。現役通算215勝、引退後も指導者として後進の育成に尽力し、1985年に野球殿堂入り。そんなレジェンドの巨人投手コーチ時代の教え子で、フォーム改造により大きく飛躍した角盈男氏が、故人を悼んだ。

【貴重写真】定岡正二を〝改造〟する杉下茂コーチ

 僕の中で杉下さんは「不死身」だと思っていた。最後にお会いしたのは今から5~6年前。江夏豊さんのゴルフコンペでご一緒し、当時でも90歳すぎというのにフルラウンドを元気いっぱいで回っていた姿に驚かされた。「〝お父さん〟みたいな年の取り方をしたいです」と私が言うと、杉下さんは「お~そうかあ~」と笑みを浮かべ、これまでとずっと変わらない口調で返してくれたことを思い出す。だから100歳どころか110歳ぐらいまで長生きされ、僕のほうが逆に早く逝くんじゃないかと思うぐらいにいつも「凛(りん)」とされていた。

 恩師の1人だった。巨人時代の1979年シーズン終了後に「地獄の伊東キャンプ」へ参加し、投手コーチだった杉下さんが目を光らせる中、マンツーマンでフォーム改造に励んだ。そこで出された結論が、このころは球界でタブーとされていたサイドスロー。杉下さんは当時の長嶋茂雄監督のところまで直談判に行くと「角を横手投げにさせたいので、何とか了承してもらえませんか」と頼み込み、最終的に「よし分かった。俺が責任を取る」とゴーサインをもらった。杉下さんとの出会いがなければ、その後の僕は間違いなく存在しなかった。

 コーチ時代からピッチングに関しても難しいことは一切言わず怒られた記憶はほとんどない。とても穏やかな性格で非常に接しやすく、選手にとっては「癒やし系」の優しい方だった。これは当時の余談だが、食堂などで出された好物のアンパンがなくなってしまうと「俺のアンパン、誰か食ったか?」とたびたび口にし、僕ら選手を笑わせていたことも今となっては懐かしい思い出だ。現役を退いて以降は親しみを込め「お父さん」と呼んでいたように、杉下さんは年齢をいくつ重ねようとも「お父さん以上、お爺ちゃん以下」というイメージがぴったりの方だった。

 97歳は確かに大往生ですが、やっぱり訃報を聞いて残念でなりません。杉下さん、どうか安らかに――。合掌。
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