第1期長嶋茂雄監督、90番のチーム育成劇!

巨人、川上哲治監督でのV9で明らかに疲弊していた。メンバー的に見れば、ONのN、長嶋茂雄が引退しただけ、Oたる王貞治は2年連続三冠王で全盛期にあった。元巨人のウォーリー与那嶺要率いる中日が優勝し、川上哲治監督が辞任表明、シーズン終盤に引退表明した長嶋茂雄が引退即監督になった。

下り坂のチーム、既存戦力の疲弊は明らかだった。柴田勲高田繁王貞治土井正三堀内恒夫高橋一三、高橋善正らはベテランとして下り坂に、レギュラーに定着し得た若手は河埜和正くらい、外人D・ジョンソンは本来の二塁手から三塁手起用でエラーの山と打撃不振。新戦力として小林繁中畑清篠塚和典小川邦和らと共に期待されたのが、新浦寿夫だった。

定着させ場数を踏めば、育ち出る芽はあった。投手で1年間、小林繁と新浦寿夫と小川邦和らは場を与えられた。

長嶋茂雄監督1年目、球団史上初の最下位だった。打者の問題点たる王貞治の前後として、張本勲高橋一三ら複数人放出で獲得、張本勲のポジションを空けるため、高田繁三塁手コンバートし、D・ジョンソンを二塁手に戻した。投手の問題点たる堀内恒夫への刺激と高橋一三放出の穴埋として、アメリカからC・ライトとヤクルトから浅野啓司と太平洋から加藤初をトレード獲得した。

長嶋茂雄監督第1期、着任から地獄の伊豆キャンプからシーズン経てオフまでのアクションだった。新浦寿夫の育成劇、その中の大きな一話だった。

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「2軍降格」を長嶋茂雄に願い出た投手・新浦壽夫…その真相と復活劇
9/15(金) 10:03 Yahoo!ニュース
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「新浦を一本立ちさせない限り、巨人の復活はない」
 
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 ケガをしたわけでもない。首脳陣と折り合いが悪かったわけでもない。にもかかわらず、自ら監督に「2軍に落としてください」と願い出たプロ野球選手は新浦壽夫(巨人-韓国・サムスン-大洋-ダイエー-ヤクルト)くらいのものだろう。なぜ若き日の新浦は“2軍逃避”を図ったのか。

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 新浦が大型サウスポーとして脚光を浴びたのは1968年夏の甲子園である。静岡商高のエースとして出場した新浦は長身から投げ下ろす快速球を武器に、チームを準優勝に導いた。当時を新浦は、こう振り返る。

 「高校時代の僕の球種は真っすぐとカーブだけ。狙って三振を取りにいったことなんてありません。ただキャッチャーのサインに従って淡々と投げていただけ。普通に投げたら、自然に三振が増えていった、というだけの話なんです」

 要するにモノが違っていたのだ。

 甲子園での好投に目を付けた巨人は同年秋、ドラフト会議を待たずして新浦を獲得した。当時はルール上、外国籍の新浦に対し、自由に交渉することが可能だったからだ。

 巨人のV9は65年にスタートし、73年に終わった。新浦は4年目の71年に4勝(3敗)、73年に3勝(3敗)、そしてV10が阻止された74年には7勝(6敗1セーブ)をあげ、将来のエース候補として期待された。

 監督が川上哲治から長嶋茂雄にかわったのは75年である。

 「新浦を一本立ちさせない限り、巨人の復活はない」

 そう宣言した長嶋は、打たれても打たれても新浦を使い続けた。その結果が2勝11敗である。

ピッチングのコツを掴む
 新浦の回想。

 「当時の後楽園球場は、ブルペンに行くには客席の前を通らなくちゃいけなかった。そこにさしかかると“オマエ、どこ行くんじゃ! ”“やめちまえ! ”とか、そりゃひどかったですよ。もっとも僕の方も頭にきて“オレだって、投げたくて投げてるんじゃねえんだ! 文句があったら、監督に言え! ”ってやり返しましたけどね。この頃は、なぜ自分がこんなに打たれるのか、どうすれば抑えられるのか、さっぱり分からなかった」

 そして続けた。

 「正直に言うと、自分でも“何で監督はオレを使うんだろう”と思っていましたよ。スコアボードに“ピッチャー新浦”って出ると、“あー今日もまた負けた”と言いながら、スタンドから潮がひくようにお客さんが帰っていく。もう泣きたい気分でしたよ」

 プロ野球選手にヤジや罵声は付き物だが、観客がマウンドに背を向け、帰路につくことほど堪えることはない。新浦が長嶋監督に「2軍に落としてください」と直訴したのも、わからないではない。

 「僕は投げたくないものだから、極力、長嶋さんとは顔を合わせないようにしていました。顔を合わせると“おっ新浦、行くか! ”となるからです。だからベンチでも常に長嶋さんに見つからない場所に座るようにしていました」

 実は新浦の“願い”が一度だけかなったことがある。8月に入り、やっと2軍落ちを許してもらえたのだ。

 そこで新浦はピッチングのコツを掴む。

 「たまたま指導にきていた解説者の杉下茂さんに、“上げた足に間をつくれ”と教わったんです。ポンと右足を上げ、二段モーションにならない程度に間をつくる。それによってバッターのタイミングをズラすことができるようになったんです」

 8月31日、1軍に復帰した新浦はヤクルト相手に1安打完封勝ちを演じる。これが覚醒のきっかけとなるのだ。

 このシーズン、長嶋巨人は球団史上初の最下位に終わったが、翌76年、V奪還に成功する。先発とリリーフでフル回転し、11勝(11敗5セーブ)をあげた新浦なくして、谷底から頂点へのV字回復はありえなかった。
二宮 清純
 
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